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㊺汚れた夜~哀れな女、愚かな男~

あと5分で9時になる。私はアパートの玄関を軽く掃除して手を洗った。なんだか落ち着かない。渡す倉庫のカギは居間のテーブルに置いてある。玄関の靴箱の上に置けばすぐ渡せるのに、進藤チーフが帰るまで時間稼ぎをしているみたい。でもこんな時間で2人だけで会うのは気が引けるのも本当で、どんな顔をして会ったらいいのかわからない。


 夕方に板胸と言われて怒られて、まだ4時間くらいしか経っていない。もし顔を合わせて、あんな調子で説教をされたら泣いてしまうかもしれない。嫌だ、泣き顔なんか見せたら、またバカにされる。私は居間に戻って鍵を手に取り靴を履いた。下で待っていて、チーフが来たら渡して部屋に戻ろう。そうすれば話しかけられなくて済む。私は急いでドアを開けた。


ピンポーン

ベルの音と、私服で立っている進藤チーフの姿が同時に飛び込んできた。呆気に取られて私は立ちすくむ。


「 ……… 早っ 」


「 こんばんわ…… 」


外廊下の薄暗い明かりの下に立つチーフの表情はあまりよくわからない。前髪が少し伸びて、目の表情が見えないけど、昼間のような厳しい光は消えている。細いけどがっしりした腰回りを包むレザーパンツが明かりを反射して光る。なんだかモデルみたいで、いつものチーフじゃないみたい。


「 遅い時間に悪いな」


「 いえ、こちらこそすいません」


そのまま、お互い黙り込んだ。チーフは下を向いて少し気まずそうに足元を見ている。やだ、なんか変に胸がザワザワする。何か言わなきゃ、でも何を言ったらいいのかわからない…


「 鍵、どこにある?」


チーフが先に口を開いた。


「 持ってきます 」


 ドアを閉じて、テーブルの鍵を取った。これを渡してしまえばチーフは帰る。それでいいんだ。チーフはドアから少し離れたところで夜空を見ていた。鍵を差し出す。暗くて本当に顔が良く見えない。いつもみたいに大声で文句を言われると思っていたのに、今日のチーフは黙って私と目を合わせない。チーフはお尻のポケットから財布を出して鍵をすばやくしまった。


「 俺がこれから事務所に返すから。そんじゃ、帰るよ 」


私の言葉を待たずに大股で階段を下りていくと、すぐにバイクのエンジン音が聞こえた。ああ、帰っちゃうんだ。私は下の駐車場を見た。チーフは携帯電話で誰かと話している。多分事務所の当直スタッフだ。電話を切ってバイクにまたがった。私はじっとチーフを見た。気づいてこちらを見てほしい気持ちと早くいなくなってほしい気持ちがブレンドして、胸が痛いほど震えている。チーフはヘルメットをかぶった。帰るんだ。ホッとした途端、大きなエンジンの音がして、バイクとチーフはあっという間に通りの奥へ消えていった。


 部屋に入って私はベッドにもたれて座った。激しい寂しさがこみ上げてくる。上手におしゃべりできる気の利いた女の子だったら、温かいお茶を出したり何でもない話で場を盛り上げたりできるだろう。でも私はそんなことは出来ない。馬と仲良くするのは得意だけど、男の人とは話すだけで緊張して逃げ出したくなる。チーフとだって、倶楽部では普通に話せるけど、ふたりきりになったら…… 


もう、何もすることはないのに、ベッドに入る気分じゃない。私はドアを見た。もう少し、起きていようか。もしかして、気が変わったチーフがまたあのベルを鳴らすかもしれない。間抜けとかバカとかしっかりしろとか、直球でポンポン飛んでくるお説教が終わった後、お休みって言ってもらえたらぐっすり眠れそうな気がする。少し眠いけど、待ってみよう。左手に携帯電話を持って、私は体育座りで膝小僧の上に顔を埋めた。






「 これ、全然違うじゃないですか。つうか、普通見たらわかりませんか 」


「 いや、暗かったし、よく見ないで財布にしまったから… すまない」


事務所で若いスタッフが雄太に詰め寄りながら手に持っている鍵を机に置いた。当惑している雄太に更に追い打ちをかける。


「 どうすんですか、僕早くここを片づけて当直室に行きたいんですけど 」


雄太は机のカギを手に取った。鈴と熊のキャラクターがついた鍵はどうみても青葉のアパートの鍵にしか見えない。あいつ間違えて渡しやがったな。全く、なんであの時気づかなかったんだろう。


「 ここは閉めてくれ。とりあえず鍵を返して倉庫の鍵は俺が預かる。明日朝一でボックスに返しておくから 」


「 日誌にはちゃんと書いときますからね。総務部長は色々うるさいんですから。主任からも説明しといてくださいよ」


神経質な若いスタッフは不機嫌そうに自分のデスクに戻っていった。雄太は鍵をジャンパーの内ポケットにしまうと走って駐車場へ引き返す。


もう電話はかけずにアパートへ行こう。こいつ、今日3回目の粗相だぞ。どうしてやろうか。


雄太は勢いよくバイクにまたがり、暖気ももどかしくスタンドを蹴とばし乱暴に発進させた。飛ばせば2分もかからない。出てきたら、まず玄関で説教。終わったらそのままバイクに乗せて駅前のファミレスに連れていこう。甘物を食わせて俺のコーヒーブレイクに付き合わせてやる。雄太は自分の胸が弾んでいるのを隠すようにアクセルを回してエントランスを駆け抜けた。




 


 青葉のアパートに着いた時、まだ部屋の明かりはついていた。階段を上がり、強めにベルを鳴らした。出てこない。


 どうするか… ドアをたたいたり声を出したら音が響く。少し躊躇したが雄太はジャンパーから出した鍵を差し込み錠を外した。内鍵はかかっていない。音を立てないように開けて中をのぞいた。


どうせ、スマホのゲームでもしてるんだろう。しかし気配はない。よく見れば、弱い明かりのともったリビングの床にスマホが転がっている。


「 北岡…… 」


ローテーブルとベッドの間に、うつぶせに倒れている青葉の上半身が見えた。雄太は靴を脱ぐと部屋に飛び込んだ。


「北岡! 大丈夫か!」


手首の内側に指を当てて脈を取る。かすかな寝息が響いて、目を閉じた青葉の横顔が見えた。なんだ、寝落ちたのか… 雄太は安心してテーブルにカギを置き、黄色い札のついた倉庫の鍵を内ポケットにしまった。


これじゃ説教もできないな。


ジャケットを脱いでベッドのシーツを剥ぐと、ゆっくり手を青葉のひざ下と脇の下に入れた。年頃の娘と思えない軽さに拍子抜けしながら抱き上げる。全く起きる気配のない青葉は顔を雄太の胸に預けて目を閉じている。


脇の下を持ち直そうと指を動かした時、小さな膨らみに触れた。雄太は電気に打たれたように指を離した。心臓の鼓動が早くなり頭に血が上る。


なんだ、いい歳して、ブラもしてないのかよ。


慎重に青葉をベッドに体を横たえるとその横に腰を下ろして息を吐いた。そっと青葉の表情を盗み見る。


雄太の期待していたあどけない表情はなく、目を閉じたその顔は若さと成熟の間で揺れる果実のようなみずみずしさに溢れていた。雄太は恭平から聞いた青葉の生い立ちを思い出していた。


家族も帰る家もないんだって。


俺が18の時は、粋がって悪さばっかやってたな。親の金で入った大学はろくに行かないで、バイク乗り回して恭平を連れて一晩中遊び歩いてた。


最後に残った馬を買い戻すためにうちで働きにきたんだよ。


そんなこと、できる訳がない。こいつは叶わない夢のためにここで一人で働き続けるのか。


青葉の指がわずかに動いた。何かを探しているようにシーツを滑る。雄太は無意識のうちに手を伸ばした。日焼けした大きな手が触れる。青葉は雄太の手を握りしめた。白くて小さな手。母さんが生きていたらきっとこれくらいの大きさだったんだろうな。雄太はごく弱い力で握り返した。


青葉の目に光るものが見えた。涙の粒だ。雄太は片方の手で青葉の瞼をなぞった。指先についた小さな粒は、すぐに乾いて消えていった。青葉の小さな手は、雄太の手の中でかすかに息づいている。突然、名状し難い感情が雄太の体を突き上げた。膨らみに触れた指先にはまだ感覚が残っている。ふりはらうように、大きく息を吸った。


雄太、ここからすぐ出ていけ。その手を離してなんの痕跡も残さずここを出ていけ。


自分に向かって必死で叫ぶ内なる声を別の誰かが真っ二つに切る音が響いた。雄太は青葉の上に静かに覆いかぶさり目を閉じた。


汽笛の音がする。10年前に初めて恭平と唇を重ねた夏の夜が蘇る。




ほんの少しためらった後、数秒間、部屋の時間が止まった。




一瞬でもありひどく長いようでもあった沈黙を、雄太は青葉から離れるまで息ひとつせず自分の犯した過ちとして記憶に刻み込んだ。


握っている手を抜き取り、青葉から体を離すと、ジャンパーと鍵を手に雄太は部屋を出た。音を立てずドアを閉じて錠をかけると、郵便受けから鍵を内側に落とした。


哀れな女はその唇を汚されたことを知らず、深い眠りの森の道を歩き続けている。


 愚かな男は生涯消すことも償うことも叶わない背徳の石を背負い、尚も更け行く夜の帳にその身を消した。





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