㊹夜に目覚める~入り乱れる3人の気持ち~
アパートに着いてすぐに加藤さんから電話があった。オペレッタは順調に調教が続いているし、馬主さんが別の名前を付けると聞かされた。オペレッタは本当に私の手を離れて新しい道を歩み始めた。ホッとした反面、大切な物を失くしたみたいで何処か虚しい。私はベッドに横になり、天井を見つめて北岡牧場でオペレッタと過ごした日々を思い出した。電話を切る前に加藤さんが口にした言葉が、頭から離れない。
「もうオペレッタのことは忘れなさい。東京で新しい青葉ちゃんの人生を送った方がいいよ」
あの子は私に残された最後の家族。別れる時必ず迎えにいくと約束した。でもそれは本当に実現するのだろうか。お金を貯めて、馬を買い戻すことが出来ても飼育する牧場が必要になる。閉鎖した牧場が運よく買えても、整備して厩舎を新築して餌代と管理費、毎月回していくのは私一人では、無理だ。今のペースで働いてできる貯金はたかが知れている。トップインストラクターの人たちみたいにチップで大金をもらえるようになるには何年かかるだろう。いや、私の性格ではあんな人気を取れるようなお客あしらいは出来ない。自分一人で生きていくのにも精一杯なのに、オペレッタを守っていくことができるのか…
もしオペレッタを諦めたら私は本当に孤独になる。困った時に相談する人もなく肩身の狭い暮らしを続けて生きていく自信はない。暗く深い谷底の上にかかった細い板を歩いている私。もし落ちて死んだとしても、悲しむ人もいないだろう。どうしてこうなってしまったのか。もう疲れて、涙すら出てこない。
こんなに投げやりな気持ちになるのは、さっき電話で久美子と喧嘩したせいだ。東京に行ってから久美子は変わった。私を避けて無視したり、たまに話しても嫌味や意地悪な言葉を平気でぶつけてくる。
「だからさ、会いたいって言われてもいつとか何時頃とか具体的に言ってくれないと困るのよ」
「それを相談するために電話してるんでしょ」
「こっちだってさ、授業とバイトでスケジュールがキツイのに友達付き合いもしなきゃいけないの。大体,青葉は土日も仕事じゃない」
「平日に休みがあるから、夕方からならご飯を一緒に食べられると思って…」
「とりあえずOKな日と時間を連絡して。都合がつくなら折り返すから」
「あのさ、ひょっとして誘ったら迷惑なの?そうならはっきり言って」
「何よ…それって私があんたのこと虐めてるみたいじゃん。あーなんかもう最悪!」
「 もういいよ。また連絡するから、じゃあね 」
「 あんた社会人でしょ、空気くらい読みなさいよ。ほんと気分悪いし」
いつからか、久美子は私を名前で呼ばなくなった。学校の同級生やバイト先の先輩と電話で話す時はめちゃくちゃ楽しそうにしゃべるのに、私に対する目つき、物言いは険しくて悪意を感じる。卒業する時に泣きながら抱き合ったのはつい半年前のことだ。スマホの中で眠る写真の久美子はどこかへ消えて、都会で背伸びしながら前を追いかける別人に変わってしまった。きっと私は邪魔なんだろう。私と付き合っても、得になる事は何もないんだから。味方と思っていた人が、また一人消えていく。
寂しい。誰かと話したい。私の目を見て笑ってくれるなら誰でもいい。神様、夢でいいから家族に会わせて下さい。目覚めてまた孤独な一日を迎える前に嘘でもいいから温もりが欲しい。胸が切なくて、私は枕に抱きついた。
携帯が鳴った。倶楽部からだ。午後8時だからまだ営業時間。少し迷って、結局電話を取った。
「 もしもし,進藤だけど、今話せるか」
低音でよく通る声に思わず起き上がった。
「 はい。…… 何でしょうか 」
「 西第3倉庫の入り口の鍵が行方不明だ。最後にお前が鍵を取ったのを見た奴がいるらしい。心当たりがあれば見てほしいんだが」
あっ…… 慌ててハンガーにかけているキュロットのお尻ポケットを探ると黄色いタグのついた鍵が出てきた。良かった… 失くしたかと思った。
「 ありました。すいません、今から持っていきます 」
「 いいよ、もう遅いから俺が取りにいく。1時間したら行くから、起きて待ってろよ 」
電話を切るとベッドから出て鏡を見た。髪をブラシで整えて薄くルージュを塗る。置きっぱなしの服を拾ってハンガーにかけるとキッチンへ行ってコップとお皿を洗い始める。進藤チーフが来る。ちゃんときれいにしておかないと恥ずかしい。スポンジに洗剤をかけてふと、手を止めた。
また、抱きしめられたら……
チーフの胸に顔を押し付けられて、心臓の鼓動を聞いた時のショックは今でも忘れてはいない。でもそれは気持ち悪いとか不愉快とかネガティブな感情とは違う。ほんの少しだけど、死んだ父さんの胸の中を思い出したからかもしれない。忘れていた懐かしい何かを、記憶の底から手繰り寄せていく気持ちになったのも嘘じゃない。でも、進藤チーフは私を子どもみたいに思っている。だから平気で怒鳴ったり心配したり、からかったりできる。
その延長で、ハグしたって別に平気なんだ。もう考えるのはやめよう。私には憧れの如月チーフがいるんだから。私は洗いかけの皿を手に取ってゴシゴシこすり始めた。
恭平は、片桐に青葉との出会いからベッドで一夜を過ごした経緯を事実に沿って淡々と話した。片桐は2本目の煙草を吸い終わると立ち上がり窓を片方だけ開けた。ひんやりとした夜風が部屋の空気を押し流しながら恭平の髪を撫でた。
「 それで君の悩まんとするところは、どこなのかな」
「 彼女が自分の中でどういう存在なのか、わからないのです」
「 君がわからないなら、私にわかるわけがない」
「 女は、正直全部クズ以下と思っていました。だけど彼女は女性だけど全く違う匂いがするのです 」
「 そうか。この世には色々な女性がいるからな 」
「 言いにくいのですが、片桐様は…… 」
「 構わんよ。私のセクシャリティは君や進藤君と同じゲイだ。なのに女性を妻にして子供までもうけた。その理由を聞きたいんだね 」
「 …… すいません、プライベートに立ち入ってしまって…… 」
片桐は笑った。恭平はその笑顔に救われて肩の力が抜けた。
「 私が妻を愛したのは、彼女が世間体や社会的地位や何もかもを超えて私を受け入れてくれたからだ。勿論、私が同性愛者ともわかっていた。小柄で病弱だったが、妻は死ぬまで私に勇気と安らぎを与えてくれた。敬意と感謝の前で性別なんぞ、妻を否定する理由にはならないよ」
「 それまで片桐様にとって、女性は恋愛の対象ではなかったと… 」
「 私は女性そのものを拒絶したり卑下したことはない。ただ圧倒的に、性的な興奮を得られるのは男性だった。気づいたら周りには私に近づく女性はいなくなっていたよ。だが結婚してから妻以外男も女も抱いたことはない。別に操を立てているわけじゃないが、そういう気持ちは妻が天に召された時に一緒に持って行ってしまったんだろうね。私が普通のゲイなら、裸の君を見て呑気に煙草なんか吸っておらんよ 」
恭平は顔を赤らめた。薄手のガウン一枚しか纏っていない自分が客を誘う男娼のように思えて恥ずかしさがこみ上げる。
「 話を聞いてくださってありがとうございます。そろそろ僕はおいとまします」
「 如月君、もしその子に対する気持ちが変わらなければ、彼女には自分の思うままに接すればいい。ゲイだろうがストレートであろうが、人を愛する気持ちに性別は関係ない。進藤君に対して引け目を感じているようだが、それも杞憂だよ。君たちの内面は肉体以上に深く結ばれている 」
片桐は立ち上がってジャケットを羽織るとドアへ向かった。
「 ここで着替えて帰りたまえ。私はラウンジでブランデーを頂いてくる。テーブルに土産を置いているから、進藤君と帰って一杯やってくれ」
優しい微笑みを残して片桐は出て行った。恭平は窓を閉め、部屋の明かりを落とした。燭台に灯された蝋燭の明かりだけが物憂げにゆらめいて光る。
敬意と感謝。そんな言葉を口にする日が俺に来るのだろうか。
心の中で、雄太と青葉の顔が同時に交錯した。青葉をここまで身近に感じる理由のひとつに、青葉と雄太の距離が関係しているような気がしてならない。考えることはたくさんあるが、大きな石をひとつ下ろしたような解放感が心地よい。片桐卿とはいずれ乗馬の手ほどきで恩返ししよう。
恭平はガウンを脱ぎ、着替えを置いてある隣室へ向かった。その白磁の裸体を燭台の炎だけが妖しく照らしていた。




