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㊷それぞれの秋

「いい加減にしろよ。客の前じゃ本音と建て前を使い分けろってあれだけ言っただろ 」


飯森さんの緊急個人レッスンが終わった夕方、私は進藤コーチの煙草ブレイクに呼び出されて副流煙を浴びせかけられながらお説教を受ける。


「 私は何も間違ったことは言ってません。それにあのおばさん、思い込みでうそばっかりチーフに話してました。どうしてわたしだけが責められなきゃいけないんですか?」


「 会員の話なんか半分聞き流してりゃいいんだよ。逆に相手は俺たちの言うことやること全部覚えてるんだ。体重を気にしてる相手に痩せなさいなんて、お前じゃなくても怒るにきまってる 」


「 それにしたって飯森さん、見るたびに太っていくんですよ。あれじゃ後半馬がばてて動けないじゃないですか。チーフだってわかってるはずでしょう?」


「 あのね、ここは騎手の養成所じゃないの。高級乗馬倶楽部なの。入会金500万円払って遊びに来てるお客をわざわざ怒らせたって、俺たちに良いことなんて何もないんだよ」


「 でも…… 」


「 お前だって、板胸って言われたら傷つくだろ。それと一緒よ」


板胸 、 いたむね 、 イタムネ ……… 


ハッとして私は胸を押さえた。


「 チーフ!何ですか!板胸って!失礼じゃないですか!そ、それに馬に乗るのに、おっぱいなんて必要ありません!」


チーフは煙草を吸い終わると私をじっと見た。胸を観察されているようで、急にドキドキする。


「 何ですか… そんなに、見ないでください… 」


「 まあ、確かに乗馬をするのにデカおっぱいは必要ない。そういう点じゃお前はこの仕事に向いてるな。馬の仕事は天職と思って、これ1本でやるしかないだろ。上手に産んでくれた両親に感謝しろよ 」


「 そんなの余計なお世話です。私は… 」


突然、チーフは私の顔ににじり寄った。ビクッとして言葉が詰まる。


「 いいか、次はもう助けないからな。とっとと、アシスタント卒業して独り立ちしないといつまでも舐められたままだぞ」


チーフは一方的に言い放つと、馬場の方へ降りていった。私は悔し紛れに地面に転がる小石を思い切り蹴とばす。ひどい、こんなタイミングで板胸とか言わなくてもいいじゃない、すごく気にしてるのに。


これでよくわかった。あの人は、私を女としてみてないんだ。だから気まぐれで抱きしめたり、優しくしたり、こんなセクハラしても平気なんだ。絶対このままでは済まさない。必ず指導員になってチーフを抜いてやる。そしてチップを貯めてオペレッタと牧場を買い戻して、北海道で静かに暮らそう。


こんなとこ、早く出て行ってやる。そう思った矢先に、頭の中に如月チーフの裸ショットが閃く。切れ長の目、軽くめくれた唇、眩しい白い肌に包まれた、逞しい胸。


如月チーフは、こんな発育不全の体でも愛してくれるかしら。


涼しい風が一陣吹いて、私は正気に戻った。もう、夏は終わる。だけどあのシーンを思い出すと、胸が切ない… 


顔を上げると、緑豊かな丘の上に特別会員専用の洋館が見える。オレンジ色の明かりが窓からもれて、すごくきれいだ。


この景色を、愛する人と二人で見られたら。思うほどに胸は熱くなるけど、ひとりぼっちの寂しさがすぐに心を冷やす。帰ろう。わかっているはずなのに。世界中どこへ行っても、私を待つ家の明かりも人もいないんだ。


私はチーフの歩いて行った坂道をたどるように歩き始めた。




9月の終わりの黄昏時は一瞬で終わる。日中の残暑は厳しいが陽が傾けば急速に気温が下がり、馬の動きも一段と快活になる。雄太が見守る個人レッスンの会員も、広い馬場を軽やかな駆歩で蹄跡からの巻き乗りを繰り返している。


「 そうです、その調子で内方姿勢を取って。外方手綱をもっとしっかり張って馬を外に逃がさない… 」


雄太は大声で叫ぶと、東側の斜面の上を見た。馬場を見下ろすあの場所に、さっきまで雄太は青葉と一緒に立っていた。


あいつ、もう帰ったかな。


視線を馬場に戻すと目の前をサラブレッドが風を巻いて走り抜けた。ひんやりと感じる空気が、太陽に晒された体を静かに労わる。季節が動から静に変わる節目がまた今年もやってきた。雄太は一つ息を吐いた。


結局、どうでもいい説教して、怒らせただけだった。雄太は心で苦笑いした。ただとりとめのない話をしたかっただけなのに。やっぱり、俺は女は苦手だな。女の会員達をあしらうのはどうという事もない。でもあいつを見ると、あの時の不思議な匂いを思い出す。初めてなのに懐かしい、もう一度手に取りたくなるような感触。いや、それは匂いじゃない。あいつの肌触りだ。 それを見透かされるのが嫌で、わざと嫌われるような言葉を選ぶ。あんな子供に、バカバカしい。時間が経てば忘れるだろうと思っていたのに、胸のざわつきは日ごとに色や形を変えて俺の内面に広がっていく。恭平を愛し始めた時の、迸る激流が全身を走るような戦慄と違う、奇妙な感情。


 恭平は、あの夜の事を一言も話はしない。俺も別に今更女と寝屋を共にしたからと責める気は毛頭ない。ただあの日以来、俺たちは、少し変わった。


「 はい、ではF地点から手前を変えて、そのまま蹄跡までいったら並歩に落として周回してください 」


 俺と恭平で奏でてきた自由で自分らしい人生が狂想曲なら、そこに突然別の楽器が違うメロディをゆっくり流し始めた、そんな感じだ。違和感はある、けど不愉快ではない。そしてどんな曲になっていくか想像がつかない。


狂騒曲。 言葉の響きは同じでも、今は多分こちらが正しいかもしれない。


「 お疲れ様でした。今日はよく後ろ脚が動いてましたよ。次回は、隅角でスピードを落とさないよう走ってみましょう。洗い場8番へ入ってください。」


レッスンの終わりを伝えると、雄太は馬場に背を向け歩き出す。途中で西側の丘中腹に見える特別会員用の洋館が目に入った。1階の一部屋だけまだ灯りがついている。


ああ、さっきの場所から見えるクラブハウス、あの時間が一番綺麗なんだ。あいつに教えてやればよかった。


涼しい風が雄太の背を掠めた。日没は近い。ふと手のひらを見ると乾いた砂がライトに光って指の隙間から零れ落ちた。それは官能的な甘い涙の粒を連想させる。


恭平、今すぐ会ってお前を抱きたい。


無性に恋しくて、褐色に灼けた胸とうなじに恭平の吐息を探していた。






 洋館のひとつだけ灯りがともった部屋の窓は開け放たれていた。外の芝生や木々の緑が宵の闇に吸い込まれていく中で、窓からもれるオレンジの灯りが夜風に揺れて、薄いカーテンがさざ波のように舞い上がる。


 カーテンの隙間から、ベッドに横たわる恭平の姿が見えた。


 白いシーツに身を横たえて目を閉じる恭平は、一糸まとわぬ裸体をシャンデリアの光の下に晒していた。少し開いた左腋と組んで伏せた両脚の付け根に見える漆黒の繊毛が風に弱くたなびいて揺れている。長い睫毛は微動だにせず、その静けさは生気と共に魂までも昇華させて、死すら思わせる。


ベッドの横を滑るように一人の男が姿を現した。男は大柄な体を折り曲げて外を覗くと、ゆっくりと窓を閉めた。恭平の裸体も、閉じられたカーテンの向こうに消えた。


秋の虫がそぞろ鳴いて、長い夜の幕が開けようとしている。




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