㉟伝えたかった言葉~青葉と恭平の新たな門出~
人事部長について応接室の前まで来た。あの場面が頭の中で渦巻く。鞭を掴んだ時の彼の顔が何度もフラッシュバックして私は立ち止った。
「 大丈夫?会いたくないならそれでもいいんだよ 」
心配そうに人事部長が声をかけてくれる。
「 大丈夫です。お会いします」
本当は怖い。目が合ったら悲鳴を上げてしまうかもしれない。でも、逃げたら負けだ。堂々としていればいい。それに、私も彼に言わなければならない事がある。
人事部長がドアを開き、私は後に続いた。コの字に置かれたソファーの正面にいるのは確か専務。その右側に知らない男性が座っている。他にはいない。どういうこと?進藤主任はまだ来ていないのかしら…
私は専務の左側の席に通された。向かい側にいる男の人が立ちあがる。濃紺のスーツに薄い黄色のネクタイをしたその人は静かに口を開いた。
「 進藤雄太と申します。この度は誠に申し訳ございませんでした 」
そのまま、深々と頭を下げた。
嘘だ。初めて会った時と顔も様子も全然違う。私を打とうとした人じゃない。唖然として見ている私の前で、彼はまだ頭を下げ続けている。
「 進藤主任、顔を上げて 」
専務の声で、進藤主任は顔を上げ、私の顔を見た。喜怒哀楽のない、でも穏やかで吹っ切れたような表情に私は戸惑う。
「 私の暴言や暴力で心身とも傷ついたと思います。女性に対する態度に配慮を怠ってきた結果ではありますが、今更許してほしいとは思っていません。相応の処分を受けて、今後の人生の糧にしたいと考えています。北岡さんは優秀な騎乗センスを持っていますから、この倶楽部で活躍されることを祈って… 」
「 待ってください! 」
自分でも予期しない大声が出た。専務と部長がちょっと慌てている。
「 私だって悪いんです。上司に当たる方に失礼なことを言って怒らせたんです。あの、本当にごめんなさい!」
頭を下げて彼を見た。表情に動きはない。あの獰猛な目つきは消えて面長の顔には柔らかい笑みのような何かが浮かんでいる。薄い唇の両端が軽く上に上がっているせいだ。こうして見たら、この人、すごく上品な顔立ちをしている。
「 私、まだここで2週間しか働いてませんけど、進藤主任のこと、たくさんのお客さまから伺いました。優秀な指導者で、競技会で何度も優勝して、進藤主任がいないと倶楽部に活気がない、早く帰ってきてほしいって… 」
自分で何を言っているのかよくわからないけど、進藤主任はじっと私を見ている。
「 あれほどたくさんのお客様に主任が信頼されているのは、倶楽部の会員の方々が主任を愛しているからです。それは、主任がここの馬や皆さんを
本当に愛しているからだと思います 」
彼は、目を下に落とした。私は一番言いたかった言葉を思い切って胸から押し出した。
「 本当に人を愛したことがないという言葉は撤回します。許してください。だから、倶楽部に戻ってきてください。お願いします!」
頭を下げて、私は足元を見た。彼は今どんな顔をしているのだろう。見るのが怖い。私の気持ちは、伝わったのだろうか…
「 それを決めるのは俺じゃない。 でも、どうもありがとう 」
私は顔を上げた。進藤主任は、笑っていた。真夏の青い空に一筋走る飛行機雲みたいな、爽やかな顔だった。私に鞭を振るったあの男は、もうこの世には存在しないのだ。それが真実だっただけでも、私はうれしかった。
「 北岡さんはもう退出してください。定時を過ぎました 」
人事部長の言葉に、私は慌てて出口に向かい外に出た。長い廊下の向こうはまだ太陽の光が残って明るい。これからどうなるかわからないけど、今の思いが伝わったならもうそれでいい。
このことを、如月チーフに話すべきか…… いや、私が話さなくても、あの二人はたぶん通じている。一体どういう関係なんだろう。
馬場へ通じる専用通路から、遠くに走り抜けるサラブレットが見える。明日、あの中のどこかに、彼がいますように。私は更衣室の扉を開きながら、そっと心につぶやいた。
雄太はスーツ姿のまま管理棟の長い廊下を一人歩いていた。黄昏時から宵闇へ空が変わりゆく一時、森も雲も真っ赤なバラ色に染まる。雄太の好きな時間だ。
「 査問会議の結果を申し渡す。進藤雄太、向こう半年間の競技大会の参加を禁止する 」
解雇を宣告されると思っていた矢先の意外な内容に、雄太は少し面食らった。
「 半年間給与は50%減額。昇給の停止、賞与、報奨金の支給は行わない」
どうやら、ババアは俺をまだ雇うことに決めたらしい。懲りない女だ。雄太は心で苦笑いをしながら、胸につかえていた何かが落ちたようで呼吸が楽になった。
「 職級は主任のままに据え置く。以上 」
専務は言葉を切ると、雄太を見た。
「 今度こそ、変わってくれると信じての寛大な処遇だ。我々の期待を裏切らないでほしい」
「 ありがとうございました 」
ありがとうの意味を知っていても、使い方はわからなかったのだ。今までの俺は、かなりバカだったんだろうな。自嘲気味に言い聞かせて、ひとつ息を吐いた。
「 ただいまから勤務に戻ること。7時から個人レッスンの予約が入っている。早く着替えて4馬場に行ってくれ 」
「 今から、ですか 」
「 お客様がキャンセルしないで待つと言って聞かなった。長い間遊んだ分、稼いでもらわないと困るぞ 」
専務は笑った。
雄太はふと立ち止まって窓の外を見た。ナイターの照明が馬場を照らし、どのサークルもレッスン生で埋まっている。あのどこかに恭平がいるのだろう。そしてあの子もいずれは一緒に仕事をするはずだ。なんでもかんでもバカ正直で面白い。変な言い訳をしないところは気に入ったが、お客の相手はまだ難しそうだな。仕方ない、色々教えてやるか。
速足で歩きだすと、ネクタイを外しジャケットを脱ぐ。糊のきいたシャツのボタンを外すと、胸元から陽に焼けた鋼の筋肉が雄々しく咆哮した。
やっと、帰ってきたよ、恭平。
上半身裸のまま雄太は走り出した。その姿は、長い眠りから目覚めた若獅子の疾走を思わせる激しさに溢れていた。




