表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/96

㉝会いたい時にあなたはいない~雄太の儚い思い出。御曹司に生まれ、愛に飢える~

新宿の高層ビル群に朝靄がうすく帯を連ねる。人影はまばらだが、真夏の熱気が湿度を含んですでに酷暑を予感させる1日が始まろうとしている。


国道から脇にそれた道路を雄太は走っていた。長袖のパーカーとひざ丈のハーフパンツから見える顔と脚には大量の汗が浮かんでいる。右手に都庁、左手に中央公園を挟んで雄太は突き当りを左に曲がり、一段とスピードを上げた。腕時計に目をやる。かれこれ30分走っている。


まだ物足りないけど、これくらいにしておこう。


公園の中に入ると、雄太はパーカーのポケットから煙草を出して火をつけた。生い茂る緑の間から早くも蝉の声が響き、ビルの影を覆い隠すように伸びた木々が奥まで続いている。雄太は煙草を手にゆっくり歩き始めた。


ここはあの頃とほとんど変わっていない。20年以上前、母さんと2人で過ごした楽しかった時と。


雄太は空を見上げた。小さい時はとてつもなく遠かった空が、今では間近に感じる。母さんに手を引かれて歩いた遊歩道を、俺は一人で歩いている。ガキの俺は、あの日々が永遠に続くと信じていた。


母さんは天国に行き、あらゆる者に背を向けて生きた俺は、誰からも愛されず、誰も愛さず、大切な人を傷つけ、今その報いを受けようとしている。こんな俺を母さんが見たら何と言うだろう。怒るだろうか、泣くだろうか、それともいつもの優しい笑顔で俺の頭を撫でてくれるだろうか。母さん、教えてくれよ。俺、どうしたらいいか、もうわかんないんだよ。


携帯用の灰皿で煙草をもみ消すと、雄太は目を閉じて耳をすませた。少しか細くて、温もりのあるあの声が聞こえてくるかもしれない。空耳でも構わないから、思い出のかけらを拾い上げたい。


母さん、会いたいよ、母さん……


公園が国道沿いに近づくにつれ、車の音が激しくなっていく。首都は朝を迎えて静寂から喧噪へ切り替わろうとしていた。雄太はあきらめて目を開けると、走り出した。


強い朝の光が雄太の顔を射るように照らす。雄太は瞬きひとつせず、長いストライドで地面を蹴るとアスファルトの海へ飛び出していった。




中央公園から通り1本挟んだ高層ビルの中に雄太が滞在しているホテルはあった。48階に上がり一番奥の角部屋のドアを開けると、ディプロマットスイートのエントランスから美しい朝焼けが見える。


広々としたリビングのテーブルにはすでに朝食が届けられていた。トーストとサラダ、ブルーベリージャム入りのヨーグルトとトマトジュース。トマトジュースを一気飲みすると、雄太は服を脱ぎ捨て黒いローライズ一枚になってバスルームへ向かった。シャワーを浴びて腰にタオルを巻いたままベッドルームの前を横切る時、ふとキングサイズのダブルを埋める白いリネンに横たわる恭平を想像した。白い肢体に浮かんだ紅い噛み跡が痛々しく艶めかしい。もしここにいれば互いの身も心も爛れるまで愛し合うのに。思うだけで、雄太の一部は熱く緊張した。だが恭平はここにいない。今頃倶楽部でいつものように仕事をしているに違いない。まるで、俺など最初からそこにいなかったような顔をして。淡いシェードランプが照らす壁を拳で殴ると、雄太はリビングへ向かった。


 会長から謹慎を申し渡され、その翌日から雄太はこのホテルに移り、もう10日が過ぎた。恭平には居場所だけメッセージで伝えたが、何のレスポンスもないままだ。怪我の具合が気になるが、自分から連絡はしないと決めていた。このまま解雇され、恭平と縁が切れようとも、それが宿命と思い受け入れる覚悟はできている。泣いて恭平の足元に跪き、許しを請えればどんなに楽だろう。だがそれをすれば、今まで生きてきた自分を否定することになる。逆に、恭平から誹られ罵られても俺の返す言葉はひとつしかない。


 悪いけど、こういうやり方しかできない男なんだ。許してくれとは言えないよ。




 時計の針はあと5分で午前10時を指す。雄太はリビングのソファに座って2台のラップトップを交互に操りながらニューヨーク株式市場の終値と保有している株の運用状況をチェックしている。株や債券の大半は海外にシフトしているが、まだいくらか保有している国内の銘柄は今の時間帯なら動かしやすい。リアルタイムで流れてくる株価を見ながら、指値で売り注文と買い注文を打ち込んでいく。この作業は何もかも忘れて集中できて、雄太にとっては都合のいい時間だった。働きだして貯めた100万を元手に始めた投資は、損や失敗を繰り返しながらも着実に増えていった。チップや報奨金などの臨時収入をプールして、数百万単位で債券に投資すれば効率よく利益が上がることも経験で覚えた。別に金が欲しいわけではなかったが、1円も持たずに進藤家を出た後、身内から落ちぶれた道楽息子と笑い者にされるのは我慢ならなかった。それは雄太自身のプライドではなく、母の名誉を守るためだ。進藤家の家風に馴染めず、苦しみながら人生を終えた母。雄太はふと手を止めて顔を上げた。リビングの窓際に小型のグランドピアノがある。母さんはいつもこのピアノを弾いていた。まだ小さかった俺はここに座って、流れてくる曲を聴きながら母さんの幸せそうな笑顔を眺めた。父のいない週末、母さんと二人逃げるようにこの部屋で時間を過ごしたのはもう遠い昔のことだ。このホテルの窓から見える景色は変わっていないのに、俺は空っぽの心を抱えて一人ここに座っている。


 母さんが死んで14年過ぎた。俺は相変わらず一番大事な人を苦しめて遠ざけてしまう。金なんかいらない。愛する人がそばにいてくれればそれでいい。それがどうして出来ないのか。


「 あんたなんか、本当に人を愛したことなんて1回もないのよ 」


初対面の小娘に叩きつけられたあの言葉が、全てを物語っているのかもしれない。


雄太は改めて青葉の顔を思い出そうとした。おかっぱの髪の毛に、化粧気のない顔。目がやたらでかくて、尻も胸もペタンコの少年みたいな体をしていた。俺に恫喝された女なんて、皆ビビッて泣き出すのに、あの子は目をそらさず俺に食いついてきた。案外、見どころはあったかもしれないな。まあ俺にはもう関係ないが。


 電話のベルが鳴った。フロントからの内線を伝える着信音だ。


 恭平が来たのか? ホテルには予め宿泊は2人と言ってある。


 期待に胸を高鳴らせ電話を取った。礼儀正しい若い女性のクラークは、フィットネスジムがオープンしたことを恭しく告げて電話を切った。


 受話器を置いて雄太は電子機器の電源をオフにした。鈍った体では馬には乗れない。いや、もう馬には触れることはないだろう。でも乗馬を通じて鍛えた筋肉にまで別れを告げるには寂しすぎる。腰に巻いたタオルを外すと雄太は下着を着けずにトレーニングウェアを着てルームカードをポケットに押し込んだ。電話を取りフロントに朝食を下げるよう伝えると、足早に部屋を出ていく。重厚な扉がゆっくり閉じて、カチリとロックのかかる音がした。


 その直後にリストのラ・カンパネラが低く静かに流れ続だした。全く手をつけていない朝食のそばに置かれた携帯電話に、着信を告げるランプが点灯する。外の喧噪が届かない室内でピアノの音色は当分の間奏でられ続けたが、第一楽章が終わったところで切れた。


 静寂が再び室内を支配する。窓の外に広がる街並みは灼熱に晒されて、今にも燃えだしそうに赤く火照っていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ