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㉚ 聖なる大地~青葉の道を決める女帝緋呂子会長の言葉~

その人は目を開いた。黄色がかった薄茶色の不思議な色の瞳が私を見ている。


「 大丈夫 ?」


何と答えていいのかわからない。私の額にかかった髪を指で静かにはらうと、如月恭平という人は後ろを振り返った。大勢のスタッフが固唾を飲んでこちらを見ている。最前列に、あの男が立っている。顔面蒼白で、手には血のついた短鞭が…… 私はハッとした。


「 怪我してますよね、ごめんなさい…… !」


「 君が謝ることじゃない」


あの男が、如月恭平に近づいた。


「 恭平、 どうしてお前が…… 」


「 もうユウにこれ以上人を傷つけてほしくなかった 」


「 こんなことをして俺が喜ぶと思うか!」


「 俺はユウの一部、ユウは俺の一部。お互いの痛みは必ず伝わるよ 」


「 二人とも、そこまでよ 」


女会長が歩いてくる。皆、恐れおののくみたいに後ずさって道を空ける。こんな修羅場なのに表情ひとつ変えず優雅に扇子をひらめかせながら、私たちの前に立ちはだかった。人相が一気に変わったのは、あの男の方を向いた後だ。


「 主任進藤雄太。度重なる指導にも関わらず、暴言暴力行為をやめず新入社員に対する威嚇行為、職員への傷害を行い反省の色はなし。本日より、無期限の出勤停止を申し渡す。連絡があるまでは自宅で謹慎しなさい 」


「 …… めんどくせえ。クビにするなら今すぐ言えよ 」


「 それを決めるのは私よ。早く出ていきなさい 」


 進藤雄太と呼ばれた男は出口へ向かって歩いていった。誰も無言で、重たい空気が流れる。もう陽は暮れて、空は一面の闇に覆われていた。


「 如月は今すぐ医務室に行きなさい。人事部長、駅前の東海病院に電話して外科医をよこすよう言って。会長の依頼といえば飛んでくるはずよ」


「 会長、ご心配には及びません。怪我には慣れています。この程度なら自分で手当てできます」


「 愚か者! お前の心と体の健康など毛ほども心配していないわ。お前の容姿は、うちの倶楽部の重要資源。中途半端に傷物になられて商品価値が下がると困るのは私なの。早くお行き! 」


 一瞬、目の色が変わった。でもすぐに元の表情に戻ると、その人は暗い馬場の柵の向こうへ消えていった。私の腕にはまだ残り香がある。苦し気に閉じた目が、今もすぐそこにあるようで、切なくて息苦しい。


 会いたくて、恋焦がれた人にいきなり抱きしめられた…… でも、その人は怪我を負った。私が原因で。怒り、恐怖、驚き、後悔、あまりにたくさんの感情が一度にのしかかって、私の内面はパニックを起こしかけている。


「 採用よ。明日から働いてもらうわ 」


「 えっ?」


「 いい度胸をしているわね。進藤に初対面であそこまでいえるとは。気に入ったわ 」


「 でも、私、上司に当たる人にめちゃくちゃ言って、怒らせて、怪我までさせちゃいました 」


「 あの二人のことは気にしないでいいわ。早く仕事に慣れて、インストラクターとして一人前になりなさい 」


「 私、ここで働く自信はありません 」


会長は怪訝な顔で私を見た。


「 お金持ちの会員さんや上品な職員の人と上手くおしゃべりなんて出来ません。さっきの人が言ったみたいに、身の丈に合った生き方をした方が…いいと思います」


「 自信なんて根拠のない例えは捨てなさい。私が認めた、それがすべてなの 」


会長は閉じた扇子で地面を指した。


「 この倶楽部は聖なる大地。そして、私が神よ 」


そのまま、会長は馬場から出て行った。気づけば、他のスタッフの人たちは障害を片づけたり馬場を整地したり、忙しく働いている。


進藤雄太… 私を罵倒して鞭で打とうとした男。あれだけひどい言葉を浴びせかけられたのに、記憶に残っているのは一瞬だけ見せた、泣き出しそうな表情。一度も本当に人を愛したことがないと言った後の、子どものような悲し気な瞳が忘れられない。荒々しい言葉も仕草も、あの無垢な瞳を隠すための仮の姿なのか… そうだとしたら、私は彼の心を深くえぐったのかもしれない。そして、如月恭平さんとはどんな関係なのか…


何もわからない。どうしていいかもわからない。わかっているのは、私の明日から生きる場所は、この乗馬倶楽部だということだけだった。


夜風に灰色の砂が舞う。やっと私は歩き出した。どこをどう歩いていいのかも知らないまま、ただ皆が行きかう流れに紛れて居場所を探すしか術はなかった。





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