② 牧場の行方、そしてまだ見ぬ2人
「こんにちわ!北湖銀行の手島です!」
髪を七三に分けてスーツを着こなしたおっさんが厩舎の入り口に立っている。おっさんは歩き出すとポケットからハンカチを出し、しかめ面で鼻を覆った。余程厩舎の匂いが気に食わないらしい。注意深く上品に歩くのは、床の藁くずや砂がお高い靴につくのが嫌だからだ。馬たちは一斉にざわついた。緊張して耳を立てる子、怒って耳を寝かせる子がおっさんの姿を凝視している。
「北岡さん、以前お話した牧場の売却に件、検討してくださいましたか」
「何回頼まれてもお断りする。私はここから動く気はないからね」
「数キロ西で温泉が発掘されてから地価はウナギ上りでしてね。今なら融資した金額を差し引いても相当の売却益がありますよ。一度来店してお話させてくださいよお」
「金はちゃんと返済しているじゃないか。この牧場は青葉に継がせるために残す。帰ってくれ」
「お孫さんもそのうち結婚されますよ。ここの僅かな預託金じゃ花嫁支度も出来ないでしょう」
「青葉、家に帰って夕飯を作りなさい」
「おじいちゃん、怒ったら心臓の発作がまた…」
「いいから、早く行きなさい」
私はおっさんの横を俯いてすり抜け、馬たちの頭を撫でて厩舎を出た。おっさんの通り道は強い香水とタバコの匂いがマーキングされて吐き気を感じる。外へ出るとほっとして息をついた、坂道を下って母屋へ帰る途中空を見上げた。空にはまだ夕焼けの赤が残るが、気温の低さが夜の訪れを感じさせる。一日が終わろうとする一番寂しい時間だ。
おっさんの言う通り、確かにうちの牧場の経営は苦しい。預託していた馬主さんも馬を引き上げやり手調教師のいる牧場へ移っていった。おじいちゃんも心臓が悪いのに、ろくに病院にも行けてない。父さんが亡くなってから色々な人が離れていった。悔しい。早く役に立ちたいのに、高校生の私は何もできない。私は夕日に向かって唇を噛む。その時、一際甲高い馬の嘶きが響いた。オペレッタだ。スッと気持ちが緩んで思わず笑顔が浮かぶ。夜が来ればまた朝が来る。そうしたらまた馬たちの世話をして、学校で友達に会える。頑張ろう。頑張れば、必ず希望の光は見える。小学校の国語の本にも確かそう書いてあった。オペレッタはおじいちゃんが借金して買った馬だ。大切に育てて、道内一のスターホースにするんだ。私は少し心が楽になって、赤い夕陽を背に元気よく走り出した。
同じ頃、東京の空はまだ明るさを残していた。だが「帝国乗馬倶楽部」と刻印された、重厚な大理石の礎の立つ正門の向こうは,既にiいくつもの照明塔が広い馬場を照らしていた。
障害競技用のバーが並ぶ馬場の中央で、練習生らしき若者が青いポロシャツを着た指導員に詰め寄っている。指導員のシャツの胸に「進藤 雄太」と書かれたワッペンがあり、名前の下には主任を表す赤い縫い取りがほどこされていた。雄太は持っていた短鞭でいきなり若者の頬を2回打った。若者はうめいて倒れこみ、傍らに立つ馬は驚いて後ずさる。遠巻きに見ていた数人の練習生たちからは悲鳴が漏れた。
「何するんだ!こんなのパワハラじゃないか、訴えるぞ!」
「ふざけるな!障害飛べないのは馬の性能が低いなんて抜かすお前がおかしいんだろ!大学の馬術部でちやほやされたからって、いい気になるな!」
雄太は背こそ高いが、体は細く華奢で少年のような体型をしている。しかし目は怒りを超えた凄みに溢れ、ツーブロックに刈り上げた髪と日焼けした黒い肌が一段と威圧感を与えていた。
「教官だからって偉そうに…じゃああんたが見本で飛んでみろよ!」
青年を見下ろす雄太の顔がニヤリと笑った。
「模範演技は今日の日程に入ってないけど、最後にサービスしてやるよ」
雄太は傍らの馬に飛び乗ると手綱を握って脚を入れる。馬ははじかれたように上体を持ち上げ、駆歩で馬場の彼方へ走っていくと、そのまま定跡に沿って周回を始めた。雄太は徐々に馬のスピードを上げ、ツーポイントで前傾姿勢になった。馬の後ろ脚は勢いよく地面を蹴り、前脚のストライドは大きく伸びていく。つま先と手綱を持つ両手のみバランスを取っているにも関わらず、雄太の体は安定し、完全に馬と一体になっていた。雄太は馬のスピードを落とすと向きを変え、一番低い障害から順番に飛び始めた。踏み込みのタイミング、跳躍時の体重移動、着地から次の障害へ向かう脚扶助、すべてが完璧だった。雄太は最後のバーを飛び終わり、まだへたりこんでいる青年の目の前で馬を止めた。
「馬の性能じゃない、お前の能力低すぎて、馬に信用されてないだけだよ」
青年は顔を真っ赤にしたまま、その場を立ち去った。雄太は馬を降りる。
「10分休憩だ。やる気なくした奴はその間に帰れ。いいな」
怯え切った練習生を残して雄太は厩舎に向かい馬を連れて歩き出した。陽射しは西の端に翳り、白い照明だけが馬と雄太の短い影を映していた。
馬場の外で、一連の騒動を見ていた人影がゆっくり動いてその後を追っていく。ライトに映し出された顔は抜けるように白く、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳は潤むように光を跳ね返す。肩口より長く伸びた髪を後ろに束ねているが、両耳の横に垂れたほつれ毛が薄く品のある唇と釣り合って、淑女を思わせるような色気が漂う。だががっしりとした肩幅と均整のとれた体躯はまさに男性のものだった。雄太と同じく青いポロシャツの胸に赤い縫い取りのあるワッペン。「如月恭平」と書かれている。恭平は人気がなくなったのを確認すると早足で雄太に近寄った。
「ユウ、あまり新入社員をしごくと良くない。今月で3人目だ」
「気にしてないよ。どうせそのうち辞める奴らだろ」
「ユウの事を心配してるんだよ。また査問会議にかけられたら、会長ににらまれる」
「俺をクビにできると思うか?ここの障害部門を支えているのは俺だ。馬場は恭平だけどな」
「でも、暴力はよくない」
「俺からしごきを取ったら、何が残るんだ?」
尚も言おうとする恭平を制するように雄太は立ち止まる。
「今日俺当直なんだ。夜、来ないか」
恭平はたじろいで目を伏せた。背は拳一つ分恭平の方が高いが、豪気な雄太の前では、なんとも頼りなくか細い。
「歯をちゃんと磨いて待ってるからよ」
恭平の顔にすり寄せるように笑いを向けると、雄太は去った。
後ろ姿を目で追う恭平は、困惑と同時に口元には艶を含んだ笑みを浮かべていた。
青葉は風呂上りの頭を拭きながら居間に入ってきた。昔ながらのちゃぶ台で、祥三は通帳や帳面をにらみながら電卓を叩いている。
「おじいちゃん、今月もやりくり大変なの」
「青葉は気にしないでいいから寝なさい」
「ねえ、私バイトしてもいいよ。友達が総菜売り場で働いてるからそこならいつでも入れるし」
「卒業するまでは真面目に勉強しなさい。金は使えばなくなる。でも知識は頭に入れば誰も取り去る事はできん」
「あいつが言ってた温泉の話、学校でも話題になってたよ。本土から客が来れば、何億もお金が落ちるから村に残れって親から言われたって」
「観光客なんて…そんな簡単にこんな辺鄙な山奥に来る訳がない。どいつもこいつも商売人と金貸しに騙されて」
「仕事があれば、村の人口も増えるからそれもいいかな思うけど」
「外部からくる連中なんてろくなもんじゃない。お前の父さんだって、観光客のせいで命を落としたんだ」
おじいちゃんの声が震えた。私はおじいちゃんの背中にしがみついた。温かい。
「私が牧場を継いで楽をさせてあげる。待ってて」
「ありがとう。青葉が生まれてくれて本当に良かった」
私は幸せだ。大好きな家族に恵まれて友達もいて、夢もある。いつまでもこうしていたい。天国のお父さん、心配しないで見守ってね。
帝国乗馬倶楽部の夜は静まり返って静寂が敷地全体を覆っていた。
100頭以上の馬を収容する厩舎の列の一角に、馬に与える飼い葉を収納する倉庫がありそこだけ淡い明りがついた窓が見える。
飼葉を敷き詰めた床に敷いた毛布の上で、雄太と恭平はゆっくり体を絡ませていた。私服に着替えた恭平のシャツのボタンを外しながら、雄太は軽い接吻を繰り返す。肩口から次第に露わになる恭平の裸体は白く滑らかで、鍛え上げられた筋肉の雄々しさすら忘れさせる。恥じらい体を軽くくねらせる恭平を無視して、雄太はシャツを床に投げ落とした。
「俺だけ脱がせて…ひどい…」
「こっちはまだ仕事中。シャワー浴びてないけど、勘弁な」
「雄太の汗の匂い、好きだよ」
「お前も汗まみれにしてやるよ」
雄太に乳首を舌で愛撫されると、恭平はのけぞって息を呑んだ。興奮で赤みを帯びた頬に乱れた髪をまとわせ声を押し殺す姿は、さらに雄太の嗜虐感を煽らせる。恭平のズボンのベルトを外すと、雄太は無遠慮に右手を押し込んだ。
「あうっ…!」
恭平は、たまらず叫び声を上げた。
「何だよ、早いな、もう臨戦態勢じゃないか」
「乱暴にしないで…」
雄太はポロシャツを脱ぎ捨て、恭平の唇を激しく貪った。恭平も深く応える。恭平の目が、涙でうっすらと潤むのを見て雄太はそっと指で拭った。
「絶対、お前だけは一人にしない」
恭平は両手を雄太の頬に当てた。雄太の目は限りなく優しい。
「約束するよ」
2人は強く抱きしめあった。天井の弱い蛍光灯の灯りに安らぎが溶けて混ざり、完全な裸体となった雄太と恭平の上にいつまでも降り注いでいった。
遠く離れた地で夜を迎えるこの2人の男と、いずれ数奇な運命の糸に手繰られ出会う日が訪れることを、まだ青葉は知る由もなかった。
続