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⑭涙の誓い~悲しみに沈む青葉を容赦なく追い詰める非情の嵐。青葉は立ち向かえるか?~

北海道には梅雨がない。なのに今年の6月は細い雨がしとしと降る日が多くて、あの爽やかな青い空と澄んだ空気がやたらと恋しくなる。


私は小高い丘の上にある墓地に立ち、小さなお墓の前でずっと手を合わせている。供えた黄色と白の小菊の花は、もう雨に打たれて寂しげに下を向き始めた。どうして私はこんなところにいるのか、今でも時折わからなくなり一際考えた末に辛い現実が音もなく覆いかぶさってくるのを受け入れる。


 おじいちゃんは退院した1週間後、厩舎で発作を起こしそのまま息絶えた。


「もう大丈夫、私が帰ってきたら馬主もすぐ戻って来る。青葉、心配かけて悪かったな」


おじいちゃんは驚くほど元気で活き活きしていた。私は安心した半面、何か不安で素直に喜べなかった。


「無理、しないでね。馬はオペレッタしかいないし、まだリハビリに通わないといけないんだから」


おじいちゃんは私の言葉を聞き流して厩舎のあちこちをうれしそうに歩き回っては、あれこれ私に指図する。鞍のトレーニングがまだ途中のオペレッタを馬場に連れ出し、ゆっくり馬曳きするおじいちゃんは以前とまったく変わりがない。でも日も落ちて家に戻って来ると、その顔には明らかに疲労が滲んでいた。ちゃぶ台に座って背を丸めたおじいちゃんの肩をそっと撫でるとおじいちゃんは嬉しそうに私の手を握った。


「なあ、青葉、お前ボーイフレンドはいないのか」


「いないよ、そんな暇も興味もないから」


「牧場組合長の加藤さんが年頃の牧場関係者を紹介してくれるそうなんだが、お願いしてもいいかい」


「嫌よ!結婚なんかしたくない。調教師になることしか今は考えたくないの」


「…心配なんだよ。青葉の将来がどうなるのか、入院していてもそのことばかりが気になってたまらなかったんだ」


「私はまだ18よ。おじいちゃんも帰ってきたし、しばらくはこのままでいさせてよ」


 私はおじいちゃんに抱きついたけど、ぎょっとした。一回りも小さくなった背中。


こんなに弱ってるんだ、私がしっかりしないと…


「おじいちゃん、今度高校の同級生がカラオケ大会で集まるからまた男の子たちと喋ったりしていい子がいないか聞いてみる。だから、もうちょっと待ってね」


「優しくて、青葉を大切にしてくれそうな人ならいつでもうちへ連れておいで」


「わかったよ。だからお薬を飲んでお風呂に早く入って」


 嘘だ。カラオケなんて口からのでまかせ。でもそういっておじいちゃんを安心させることが出来たらそれで良かった。


 私も、おじいちゃんが退院してから何となく落ち着かない毎日で疲れている。安心したり、不安だったり、焦ったり、喜んだり、反対の感情が入り乱れて、どれが本当の自分なのかわからない。でも、もう少ししたらきっと落ち着くだろう。お医者さんも容体が安定したら少しづつ普通の生活にもどしていいと言ってたから、夏にはきっと生活のリズムもつかめる。そうすれば、調教師見習いとしてオペレッタの世話をおじいちゃんと二人で出来る。オペレッタはとても賢い。これから1年の成長期を乗り越えればかならずいい馬主さんに巡り合えるだろう。オペレッタは北岡牧場が蘇る日の、希望の光だ。新しい元気がもやもやした気持ちを押し切って、勇気が湧いてくる。


 おじいちゃんが寝床についた後、私は厩舎に行ってオペレッタの様子を見に行った。オペレッタは立ったまま静かに眠ってたけど私の気配を感じて目を覚まし小さな鳴き声をあげた。私はオペレッタの首を撫で、黒く大きい瞳を見つめた。


「明日は外回りしてかえって来たら一緒に馬場にでようね。お天気がいいから、しっかり砂浴びして遊ぼう。それまで、おじいちゃんをよろしくね」


明日は朝から忙しい。朝ごはんの支度をしてオペレッタに餌をあげたら町に出ていろいろ用事を済ませないと。もう子供じゃない。お父さんの代わりにこの家を支えるのは私だ。そう思うと気持ちが奮い立つ。


「負けてなんか、いられない」


心の中でつぶやくと、私は母屋に向かって歩き出した。




その翌日、お昼前に帰ってきた私が見つけた時、おじいちゃんはオペレッタの頭絡を握りしめたまま、厩舎の床に伏して冷たくなっていた。


おじいちゃんにしがみついて泣き崩れる私の背中を、オペレッタは何度も何度も鼻でさすってくれた。






「何ぼっとしてるんだよ、早くサインしてくれないと終わらないだろ、俺は忙しいんだ!」


私はハッとして顔を上げた。不機嫌そうに私をにらむ手島と、となりで気まずそうに顔色をうかがう組合長の加藤さんがいる。目の前におかれた山のような書類。銀行の応接室は塵ひとつなくきれいだけど、重たい空気にあふれて押しつぶされそうになる。私は黙って黙々と書類にサインを書き続けた。


「まあ手島さん、そんなに怒鳴らないでくださいよ」


「子供にはわからないだろうが、銀行が牧場を買わなかったら今頃この女はどうなってたかわからないんだ。爺さん共々、恩知らずにもほどがある」


「それは、銀行さんには私たち感謝してますよ。青葉ちゃんもよかったね。こちらがいい値段で引き取ってくれたから喜三郎さんの借金も返済できたんだよ」


私は何も言わなかった。この男はおじいちゃんが死んだ途端に態度が大きくなって、私の話も聞かずに勝手に牧場を売る話を進めていった。加藤さんが間に入ってくれたけど、まだ私は納得がいっていない。でも、未成年で身寄りのない私を守ってくれる人は誰もいなかった。自分は孤独だという現実が、否応もなく押し寄せてくる。誰が何のために作ったのかわからない書類に、ただサインをすることが今の私にできるすべてだった。


「とりあえず、来週中には物件を引き渡してもらうから早めに出ていく準備をしてもらうよ」


「そんなこと言っても、青葉ちゃんは行く当てもないし、次の仕事も決まってないんですよ。せめて来月までは待ってください」


「生活保護を申請したら一時住まいの場所は探してくれますよ。あと、温泉街の旅館で住み込みの仲居という手もあるし、それなら私がいくらでも紹介して…」


「結構です。自分で仕事は探します」


手島はせせら笑って煙草に火をつけた。怒りと悲しさでペンを持つ手が震えるのを必死でこらえる。加藤さんが、私の表情を心配そうにうかがっている。


「 女はすぐに落ちるとこまで落ちますからね。半年後に薄野の路地裏で立ってたなんて、笑い話にもならないから気を付けないと…」


最後のセリフを待たずに私は手島につかみかかった。右手に思い切り噛みついて左手で思い切り顔に爪を立てる。手島は悲鳴を上げてソファーから転がり落ちる。でも私は離れない。噛みついた右手に歯を食い込ませ、油臭い手島の頬をひっかき続ける。


「青葉ちゃん、やめなさい! 誰か、誰か来て!」


許さない、この男も、私とおじいちゃんとオペレッタを引き裂いたものすべてを許さない。ドアが開き人がなだれ込んできた。数人の男が私の腕や肩をつかんで引き離そうとするけど私は噛みついた手から口を離さない。


「た、助けて、食いちぎられる!」


手島はヒイヒイ言いながら私をふりほどこうとする。口の中に生臭い血の匂いが広がっていく。私は絶望の色の上に復讐の絵具を上塗りした喜びに浸る。でもこのままでは終わらない。必ずオペレッタと牧場を取り返す。


 無理やり私は引き離され、男たちにソファに押さえつけられた。


「 忘れない、絶対、絶対家族を取り返す! お前たちの思い通りにはならない!」


絶叫する私の口から血が飛び散り、白い書類を赤く染めていく。汚れていくクソみたいな書類の上に幻が浮かんでは消える。父さんが馬場を駆け抜ける姿、おじいちゃんと今で鮭鍋をつついた夜、馬たちとケンカしながらブラッシングした夏の夕方、オペレッタと一緒に見つめた夕日、


彼方から響く、オペレッタの狂ったような鳴き声。


その足元で、倒れてこと切れた、おじいちゃんの背中。


これは幻ではなくて、まぎれもない私の生きた証、体の一部。


体の奥から大きな火の玉のように湧き上がるエネルギーの熱が、私の冷えた体に力を与える。


これからどうなるかなんてわからない、でもこれだけはわかる、


私は生きる、生きて失ったものを取り返す。


悲しみでも喜びでも希望でもない、学校も大人も教えてくれなかった不思議な感情が、私を支える全て。


走れ、この気持ちが冷めて固まらないように、走るんだ 。





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