⑬ 雄太と恭平の過去②&夜明けと共に
午後11時を回った品川駅の出口は祝日のせいもあり、平素の賑わいもなくまばらな人影が通りを行き来するだけだった。客待ちのタクシーの長い列の上に見事な満月が浮かんでいる。駅から数百メートル離れた小高い丘に高い塀に囲まれた豪邸が見え、淡い月の光がその輪郭をぼんやり照らしている。
豪邸の大きな玄関の前に250ccのバイクがエンジンをかけたまま止めてあった。樫の重厚な扉が開き、古びたライダーズジャケットを着た雄太がヘルメットを抱えて出てくると後を追うように数人の女たちが飛び出てきた。
「 雄太様、お願いです、旦那様ともう一度お話をしてください」
「話すことはもうない。大学の退学届さえちゃんと出してくれたらいいだけだ。それだけお前から伝えておけ」
「雄太様がいなくなったら、進藤家がどうなるかおわかりですか!」
「知らねえよ。親父が愛人作って男が生まれるまでがんばりゃいいんだ」
「雄太様……!」
「今日で20歳だ。敷かれたレールの上は歩かない。俺は、俺の生きる道を自分で見つける。世話になったな」
雄太はバイクにまたがると、思い切りアクセルを回した。轟音が女たちの叫び声をかき消し、バイクと雄太はあっという間に緑の生い茂る道を国道に向かって駆け下りていく。呆然と見送る女たちは霞んでいくバイクのエンジン音を別れの名残代わりに受け止めるしかなかった。
麻布の裏通りにあるバーはすでに閉店の看板がかかっていた。電気が消え、入り口のドアが開き恭平が出てくる。カギを閉め暗い通りを歩き始めると、程なく電柱にもたれてタバコを吸う雄太の姿が見えた。恭平が近づくと雄太はタバコを足でもみ消し、照れたような笑顔を向けた。
「…… 本当に、家を出たの?」
「長かった。あの家の敷居は二度と跨がない」
雄太と恭平は幾度となく互いの生い立ちについて語り合っていた。どちらかと言えば雄太の愚痴を恭平が聞いてやる方が多かった。だから恭平は父親と縁を切った雄太に説教じみた話や同情を装う言葉をかける気にはなれなかった。
「誕生日のお祝いしないと」
「よせよ。子供じゃあるまいし」
「俺たちにとって大事な日だよ」
雄太は言葉に反応して目を伏せた。バイクのハンドルにかかっている2つのヘルメットのうち1つを恭平に渡す。
「海、いこうぜ」
返事の代わりに、恭平はすばやくヘルメットをかぶる。2人はバイクにまたがると、一瞬で暗がりの奥に吸い込まれて、消えていった。
晴海ふ頭に着いた時にはすでに日付は変わっていた。深夜の東京湾は埠頭の明かりが水面を照らす以外は音もなく、波間をかいくぐる風はもう初夏の匂いがする。雄太と恭平は止めたバイクに背を向けて並んで座り、黙って暗い海を見つめていた。
「これから、どうするの」
恭平が沈黙に耐えかねて口を開いた。
「仕事はもう決めてきた。バイトしてた乗馬クラブの社長がインストラクター見習いで雇ってくれるんだ」
「乗馬なんて、雄太できるの」
「馬はいいぜ。あいつら、ちゃんと人を見てるんだ。金も言い訳も通用しないから付き合いやすい」
「楽しそうだね」
「恭平は、楽しくないのか」
「別に…やりたい仕事もないしさ」
「調理師の資格取るんだろ。なんのために専門学校いったんだよ」
「そっちの世界には行かないよ」
会話はそこで途切れた。短い沈黙の間に雄太がポケットのタバコに手を伸ばした。恭平は迷いながらも思い切って口を開いた。
「今日から、どこで暮らすの」
「仕事場の敷地に寮があるからそこに住む。金が貯まったら、アパートを借りる。八王子ならクラブにも近いし賃料も安いからその線で計画してるんだ」
俺のところに来ればいいのに、と言いかけて恭平は言葉を飲んだ。雄太の気持ちはわかっている。親元を飛び出して自立を目指すと言いながら、のうのうと友人のアパートに転がり込むようなことは出来ない。金持ちの跡取りというフラグを剥がして一人の男として一から歴史を刻みたい。 わかっているけど、切なくて辛い。雄太が自分一人を置いて遠くに行こうとしているようで寂しい。だが、そんな本音は口に出して言える訳がない。恭平は暗い海を見て唇を噛んだ。
「 恭平、さっき今日は俺たちにとって大切な日だって言ってたけど、あれどういうこと?」
「ああ、…深い意味はないけど、雄太が先に20歳になったから友達としてお祝いしないといけないかなって…」
友達として、いいや違う。自分の本当の気持ちを雄太に伝えたかった。出会って間もなく心の奥に芽生え始めた、淡い気持ちが育っていくのが、数少ない心の支えだった。感情をあまり表に出さない恭平とは対照的に、喜怒哀楽をストレートにぶつけてくる雄太は一見傲慢に見えるが、本当は寂しがりやで無償の愛を注いでくれる相手を探している。一緒に並んで歩かず必ず一歩前を歩くくせに、ふと振り返って輝くような笑顔を向ける。そのたびに恭平は愛しさと幸せを感じて胸がざわめいた。この日々がいつまで続くのか、雄太が去っていく日が来るなら、そのあと自分はどうなってしまうのか。恭平はチラと雄太を盗み見た。相変わらずまっすぐ海を見つめる横顔はわずかに緊張している。
「 何かプレゼントで欲しいもの、ある?」
「 いや、別に…… いいよ、照れくさいじゃん、やめとくよ」
恭平は、自分が同性愛者ということを早い段階で雄太にカミングアウトしていた。雄太は取り立てて驚くこともなく、以前と同じように恭平に接してきた。ただ、恭平のアパートに出入りはしても、泊まっていくことはなかった。恭平の気持ちが戸惑いながら変化していく間も、雄太の態度は一貫して変わらずその距離感が何度も恭平を不安にさせた。本当の気持ちを口にしたとたん、脆いバランスが一気に崩れそうでガラスのシーソーに乗ったまま恭平は届かない熱い視線を雄太に送り続けてきた。
雄太は腕時計を見た。
「送るよ。俺、明日から仕事なんだ」
頷いて恭平は立ち上がりヘルメットに手をかけた。笑おう。人生の門出を迎えた友人にエールを送らなくては。苦しい思いを抱えて生きることなど、とうの昔から慣れている。そう思いながら湿った海風で額に張り付いたほつれ毛をかきあげようとした瞬間、その腕を雄太がつかんだ。
ヘルメットが埠頭のコンクリートに転がり落ちる音と同時に、恭平は雄太に抱きしめられていた。
恭平は一瞬放心状態で棒立ちになったが、うなじに顔を埋める雄太の体温を感じ、ゆっくり両手を雄太の背中に回した。こんな夢を今まで何度も見た。もしかして夢かもしれない。回した手に力を籠めると、雄太がそれを上回る力で恭平を抱き寄せる。恭平の中で、パンという音がして何かが弾けた。
「 ごめん、どうしても家を出るまでは言わないと決めていたんだ」
「 ううん 、いいの 」
「 こういうの、苦手でさ、なんかどうやったらいいのかわかんなくて」
「何も言わないで」
雄太は顔を上げた。今までみたことのない柔和な表情がまっすく恭平を見ている。
「 バーのアルバイト、やめてほしいんだ。恭平が酔っ払いに品定めされていると思うと、腹が立って眠れない日もあった」
「 ……いつからそう思うようになったの」
「 わからない。でも、多分恭平と同じくらいの時から」
「 気づいてたんだね」
「 頑張って金貯めるから、2人で住める部屋を探す。それまで待っていてくれるか」
あまりの展開の速さに、恭平は何も言えずただ雄太を見つめていた。涙の粒で視界がぼやける。雄太は、ほほ笑んで指でそっと頬を伝う涙を拭った。
「恭平、愛している。お前のいない世界なんて俺にとって何の意味もない 」
「 20歳の誕生日プレゼント、こんな俺だけどもらってくれる?」
雄太の顔が輝くような笑顔に包まれた。恭平の潤んだ瞳がまっすぐにその顔を受け止めている。ぎこちない手つきで恭平の頬を撫でるとゆっくり雄太は恭平の唇を捉えた。重なり合った瞬間、ひときわ強い海風が2人の体に吹き付ける。
風に押されて1つにつながった2人を祝福するかのように、遠くで船の汽笛が長く尾を引いた。
東の山の稜線がやっと赤く染まって朝の気配が顔を出してきた。
私はオペレッタに乗ってまだ薄暗い馬場をゆっくり並歩で歩いていく。日に日に暖かさが増して、馬の体に動きも軽快になっていく。鞍にも慣れてきたし、おじいちゃんが退院するころにはいまより仕上がった馬体になっているはずだ。たった1頭残った、私たちの馬。オペレッタの鹿毛の艶やかな馬体が朝日に光る。私は、その肩を撫でた。
必ず、オペレッタを立派に育てて、この北岡牧場を立て直す。私は負けない。いつか、一人前の調教師になっておじいちゃんと父さんの跡を継ぐ。
上る朝日が眩く馬場を照らす。私は手綱を軽く張って合図を送ると、オペレッタはゆっくり速歩で走り始めた。私は胸にこみ上げる熱い塊を受けて、背筋を伸ばし思い切り深呼吸をした。
見ていてください、神様。私たち家族を守って下さい。