⑫ 2人の時間
おじいちゃんは集中治療室を出て個室に移された。窓の外から明るい陽射しが差し込み、プラタナスの木の向こうには噴水のある公園が見える。
ベッドでゆっくりお茶を飲むおじいちゃんの手を支えて湯呑を受け取る。おじいちゃんはベッドに横たわると息を吐いた。痩せて窪んだ眼が、痛々しい。私は洗面所で洗い物をして水切りかごに置くと、笑顔を作る準備をして振り向いた。
「 昨日オペレッタを調馬したんだけど、すごく脚の動きが良くてね、退院したら、おじいちゃんにしっかり動かしてもらって夏の暑い時期に向けてスタミナをつけなきゃ。本当に、いい馬だよ」
「 他の馬は、もう次の牧場へ移動していったのかい」
私は口ごもった。最後まで残っていた馬は一昨日馬運車が来て運んで行った。厩舎に残ったのは、オペレッタだけだ。
「 午前中に馬主の田村さんが来て挨拶してくれたよ。馬は生き物だから、ってな… 俺が戻っても、すぐに仕事は再開できないとわかっての決断だから許してくれと言われたら,何も言えなかった」
「でもみんなで一斉に契約を打ち切るなんてひどい。私じゃ信用できないって言ってるのと同じだよ」
「仕方ない。馬の世界は男社会だ。高校を出たばかりの青葉に仕事を任せる訳にはいかないよ」
「悔しい…]
おじいちゃんは私の手をそっと握った。父さんが生きていた頃の北岡牧場は厩舎いっぱいに馬がいた。まだ小さかった私は、忙しく出入りする馬の間を跳ねて走って、馬たちを理解し愛することを覚えた。
「馬は本当に信用している人間しか乗せてくれない。青葉、馬に愛される乗り手になりなさい。それが調教師への第一歩だよ」
父さんはいつも私にそう言っていた。でも周りの大人たちは私を何もできない18歳の子供だと思っている。どうやったら、この思いが通じるんだろう。じれったいを通り越して、虚しさが胸を塞ぐ。
「青葉、そんなに落ち込むんじゃない。オペレッタがいるじゃないか。あの子は必ずいい馬に育つ。じいちゃんとふたりでオペレッタをスターホースにしてやろう」
おじいちゃんは笑った。私は目に浮かんだ涙をごしごし拭くとおじいちゃんの手を強く握った。泣いてはいけない。同じ生きるなら、泣くより笑った方がいい。明日は必ずいいことがある。私にはおじいちゃんとオペレッタがいる。負けるもんか。
「おじいちゃん、ちゃんと回復してから戻ってきてね。それまで私がオペレッタの面倒を見るから大丈夫だよ」
「ありがとう、青葉は、いい子だよ」
私はおじいちゃんの顔に手を当ててほほ笑む。そうだ、笑うんだ。そうすれば嫌なことは遠くへ流れていく。素敵な家族がいてよかった。
神様、私に家族をくれて、ありがとう。