⑩大人社会の洗礼
おじいちゃんが入院して3週間が過ぎた。私は、毎日一人で牧場の管理をしながら一日おきに病院へ見舞に行く。雪が雨に変わり、日中は6,7度まで気温は上がるけど相変わらず朝晩の冷え込みは厳しい。餌やり、厩舎の掃除、馬の運動に加えて飼料の買い付けや馬主さんからもらう預託料の管理、検診の日程作りや、今までおじいちゃんのやってくれていた業務も重なって、日没までに全部を終わらせようとしたらお昼を食べる時間もない。家に帰って座ってしまうと、もう立ち上がる元気もなくなるからとにかく家中のカギをかけてまずお風呂に飛び込む。友達から来たSNSの返事が書きたいけど、食事をしてこたつに横たわるとテレビをつけてぼんやり体の回復を待つ。月末が来たら病院代や今月分の売掛金を清算しないと…
ああ、体があと2つほしい。身一つでやっていくには、もう限界…
玄関の呼び鈴が鳴った。ジャージを羽織って玄関を開けると、郵便配達のおじさんが厚手の大きな封筒を差し出した。
「青葉ちゃん、喜三郎さんの具合はどう?」
「お陰様で話ができる位には回復してます。退院のめどはまだですけど」
「急にひとりになって大変だけど、無理しないでね」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
おじさんは微妙な表情で私を見て何かいいかけたけど、目をそらし目礼して戸を閉めた。まただ。最近近所の大人たちの様子がおかしい。新聞の集金にくるおばさん、よく行く八百屋の店長、みんなおじいちゃんが倒れた頃から、なんか少しよそよそしい。あの人達には何も関係ないのに…
封筒の宛名はおじいちゃんだけど差出人が書いていない。保険の書類じゃないし、畜産振興協会とかの封筒でもないし変だな。居間に帰ってハサミを出して封を切った。中にはA4の紙が4,5枚ごとにクリップで留めてあり8セットほど入っている。一番上の書類を何気なく見た瞬間、私は凍り付いた。
自馬預託契約終了申出書
馬主が預けている馬を引き上げる時に出す書類。合計8頭分、預かっている全ての馬だ。私はその場に座り込んだ。頭が混乱して訳がわからない。この3月いっぱいで終了するって、どういうこと?みんなずっとうちで調教して育ててきたのに…
私は書類を抱えて座り込んだ。おじいちゃんに相談しなきゃ、でも今のおじいちゃんに心配をかけるわけにはいかない。明日馬主さんと連絡を取って事情を聴かないと。いや、それとも誰かに相談していい方法を考えて…
ううん、相談できる相手なんて誰もいない。自分の牧場なんだから自分で解決しないと。どうしよう、どうしよう…
胸が息苦しい。思わず床にうずくまってあたりを見渡す。誰もいない。箪笥の上に置かれた父さんの写真と目が合った。父さんは優しく笑って私を見ている。
父さん、お願い、助けて… 父さん…
古い時計が時間を刻む音だけが響く。私はどうすることも出来ず、重い瞼を閉じて時が過ぎるのを待つしかなかった。