7.それは愛情じゃなくて欲望だった
少しだけ流血描写があります、ご注意ください。
ソフィーが俺のことを警戒しているような気がする。
(まぁ、当然か。それも)
相手の男から奪い取った銃でそいつの頭を打ち抜き、がんと鼓膜を叩くような音に眉を顰める。何かと鋭敏だから慣れない。黒いショートコートを羽織ったエリオットが、ゴミ溜めにゆっくりと広がってゆく赤い血液を眺め、後ろを振り返る。
「ソフィー、いいぞ。死んだ。ああ、ちょっと待て。あまりお前に死体を見せたくない。俺がそっちに行く」
「そう? 慣れたから別にいいのに」
「慣れるなと言ったよな? 俺は」
彼女いわく、俺の考えは甘いらしい。他にもごろごろと転がっている死体を乗り越え、空き缶やら服が積み重なったゴミを踏みしめて彼女の下へ行く。真っ赤なマントを羽織って、強烈なエメラルドグリーンの瞳でこちらを見上げていた。その真っ直ぐな視線に酔って近付いて、彼女の冷たい頬に触れる。
ちらほらと白い雪が舞って、冬の浅い陽射しが彼女の茶髪を照らしていた。
「……ソフィー」
「また誰かに襲われても知らないわよ、エリオットさん」
「大丈夫だ、全員殺したから。また襲いかかってきたら殺せばいいし……」
今日は背に負った麻薬を、人に届けるだけの簡単な仕事だから。ソフィーが少しだけ悔しそうな顔をしてから俯いた。その頬は林檎のように赤い。どうしてだろう、彼女を尊重してやりたいと思っているのに滅茶苦茶にしてやりたいと思うのは。彼女の何もかもを踏み躙って、滅茶苦茶に犯してやりたいと思うのは。
その考えに唾を飲み込み、犯す代わりに髪の毛を優しく梳かした。
「早く帰ろうな、ソフィー……疲れただろう? 可哀想に」
「っだから! 耳元で囁かないでって! 何度もそう言ってるでしょう!?」
「悪い。赤い顔をしているお前が可愛くって、つい」
「はー……だから真顔で言わないでって、そういうことは何度も……」
いつも生意気でせせら笑っている彼女が、十七歳の少女らしく照れているものだからつい。もっともっといじめたいと思ってしまうし、触れたいと思ってしまう。
何となく彼女の髪を梳かし、こちらを絶対に見ようとしない赤い顔を見つめた。欲が出て、唾を飲み込む。ああ、そうだ。アーネストと俺は一緒なのかもしれない。断崖絶壁の端で後退るかのように、何とか理性を保っている。ああ、あいつと同じ存在にはなりたくないのに。
それでも、耐え切れずに問いかけてしまう。どうしてだろう、どうして彼女といるとこうも理性のたがが外れそうになるんだろう。彼女にまるで、バールでこじ開けられているみたいだ。欲望の蓋を。
「ソフィー、キスしてもいいか?」
「頬になら。どうぞ?」
「あと他には? どこにキスしてもいい?」
「んー、手と額と。後は……」
彼女が言い終わらないうちに、ちゅっと柔らかな頬にキスをする。びくりと肩を揺らし、赤い顔でこちらを見上げてきた。ああ、堪らないな。制御出来なさそうだ。
「あと他には? 手か」
「えっ、ちょっ」
戸惑う彼女の細い手を取って、指先にキスをする。あとは額にならしてもいいと言っていたから、その前髪を掻き分けてキスをする。ああ、止まらないな。今すぐ服を剥いで全身にキスしてやりたくなる。彼女の白い肌に赤い痕を、点々と付けて自分だけのものにしたい。そうすることで満たされたい。ことごとく。
「ソフィー。あとは? あとはどこにならキスしてもいいんだ?」
「……爪先って言ったら?」
「家に帰ってからする。ベッドの上で」
「やっぱり却下。ほら、早く届けに行きましょ? 売人がヨダレ垂らして待ってるわよ」
「物足りない。待たせとけ、そんな奴は」
もっともっと欲しい。もっともっと彼女が欲しい。その甘い言葉も白い肌も全部全部、俺だけのものに出来たらいいのに。彼女が澄んだエメラルドグリーンの瞳でこちらを見上げ、俺の胸元を押した。
「エリオットさん、落ち着いて。……怖いから。分かるでしょう?」
「ああ、分かるな……ごめん」
俺もかつて、無理矢理犯されたことがあるのに。その恐怖感も嫌悪感も、嫌と言うほどよく分かっている筈なのに。どうにも、彼女を前にすると理性が吹っ飛ぶそうになる。ちらほらと白い雪が舞う中で、彼女と手を繋いでゴミの上を歩いた。灰色の雲に覆われた空が眩しい光を湛えて落とし、辺りを白く明るく照らしてゆく。
「ソフィー、もうすぐ魔術祝祭だな。どうする? 何をする……?」
「そうね、ご馳走でも作る? ああ、でも。本当はそれまでには帰りたかったんだけど……」
お前も俺を置いて行くのか、ソフィー。お前は生きているのに俺を置いて行くのか。どうしたらいいんだろう、この突然やって来た幸福を。
(初めて、まともに見て貰えた……)
今までの少女は怯えるばかりだった。勿論、優しい時間もあった。でもみんな、どことなく怯えていた。怯えられながら「ありがとう」と言われても、心は乾いてゆくばかりで。そしてみんなみんな、殺される寸前に俺のことを信頼した。
ああ、この人の言うことは何も間違っていないのだと。絶望して悟って、俺に謝ろうとその口を開いた。「ごめんなさい、エリオットさん。私のことを許して」と、そう言って死んでいった少女のなんと多いことか。くちびるを噛み締め、彼女の手を握り締めた。
いっそ殺してやりたいと思うのに、それをするには愛おしすぎる。彼女には生きていて欲しい。生きて笑っていて欲しい。そう思うのにたまに、彼女の髪の毛を引っ掴んで後ろから犯してやりたいと思うのは一体どうしてなのか。絶対にしない、絶対にしない。許しちゃ駄目だ、そんなおぞましいことは。
でも、その言葉も滑ってゆく。心が伴っていない。やめた方がいいことだからやめろと、どこかで俺が呟いている。そうじゃないだろう、そうじゃ。彼女が傷付いてしまうというのに。
「ねぇ、エリオットさん?」
「……何だ?」
「貴方も私と一緒に帰る? あちらのまともな世界に行って暮らす?」
「無理だ……ここ以外で暮らしたことがない」
無理だ、そんなことは出来ない。でも、そんな風に提案されたことが嬉しかった。彼女が少しでも、俺を置いて行きたくないと思ってくれているような気がして。その冷たい手を握り締め、はっと白い息を吐く。
「でも……あちらの世界では誰も襲ってこないのか?」
「襲ってこないよ。逮捕されるから、そういう人は警察に」
「そうか、警察がいるのか……」
そうだ、そんな存在もあった。昔すぎてよく思い出せない。あの時暮らしていた屋敷はどうなったんだろう。きっとあのまま、ずっと穏やかなままで。俺の異母兄弟と父がそこで暮らしているんだろう。ふいに亡くなった母が笑顔で「エリオット」と柔らかく呟いていたことを思い出し、胸の奥が締め付けられる。
「ねぇ、エリオットさん? 来る気は無い……?」
「無い。それにお前の父親も……俺なんかがお前の傍にいたら鬱陶しいだろう? 俺はここにいたいんじゃなくて、お前の傍にいたいんだ。分かるか?」
「うーん……そうね、一緒に暮らすのは非現実的だしね……」
相変わらず鋭い。その言葉が胸に突き刺さって苦しい。抜けない。たまに何もかも全ての苦しみを洗い流すような言葉をくれるのに、優しく笑いかけてくれるのに。彼女は時折、本当に残酷だ。こんな状態でどうやって執着を無くせると言うのか。よく分からない、出来ない。そんなことは。
「……あそこだな。渡してくる。ええっと」
「途中で離れるから。それでいいでしょ?」
「ああ、悪いな。じゃあ行くか……」
彼が売人と話している間、薄汚れた煉瓦壁に背中を預けて待つ。その短い黒髪を何となく眺めていると、ぬっと白い手が現れて私の口を塞いだ。
「っ!」
「しーっ……大丈夫。浚う気も殺す気も無いから。俺はね、君のことを助けに来たんだよ」
「私のことを? 一体どういう意味?」
その手を振り払い、振り返ってみると優しげな男が立っていた。柔らかな灰髪に黒いロングコートを着た男は、温和な美形といった感じだが。その灰色の瞳は虚ろで、笑みもどことなく歪んでいる。
(性格が悪いな、この男。腹黒い。意地が悪い。そして有能そうに見えるけど、不測の事態には弱い。小物臭が漂っている。でも、部下を平気で見殺しにするタイプだろうな……)
一瞬で、その性格を分析して身構える。こういった男にはあからさまな警戒心を見せておいた方がいい。案の定、私が身構えたのを見て優しく笑った。
「大丈夫……そんなに警戒しなくても。ほら? ナイフも銃も持ってないよ?」
「分からない。隠し持っているのかもしれない……」
「うん、そうだね。この終わった世界で生き抜くには、そんな賢さと疑り深さが必要だ」
それまでひらひらと振っていた両手を下げ、品良く体の前で手を組む。この男、今までもそうやって誰かを騙して殺してきたのか。そんな怒りを押し隠し、戸惑った表情を作って見上げる。
「貴方は一体誰? エリオットさんの知り合いなの……?」
「知り合いと言えば知り合いかな……可哀想に、君は何も知らないんだからね」
「何も知らない? それってどういう意味……?」
あーあ、やれやれ。怯えたか弱い少女の振りをするのも肩が凝る。自分でもうんざりするほどのぶりっ子っぷりだが、こうしておかなくては。同じ女では通用しないんだろうな、こういった演技も。何も知らない馬鹿な男が気の毒そうな表情で肩を竦め、溜め息を吐く。馬鹿はお前だ、馬鹿は。
「あいつは本当に性格が悪いからね……さも自分が悪い、守れなかったみたいなことを口にしているんだけど」
「だっ、だってそうじゃない? エリオットさんは本当に真面目で、優しくて責任感が強い人だから……」
顔を伏せて呟いてみると、男がおもむろに手袋を外して自分のポケットに突っ込み、こちらの頬をするりと撫でてきた。思わず「気持ち悪っ」と呟きそうになったが、何とか耐える。私はこういう勘違い男が一番嫌いだ。確かに美形なのかもしれないけど、気持ち悪すぎる。この俺かっこいいだろ感が耐えられない。吐き気がする。
(その点、エリオットさんは素晴らしい……。こんな気色悪い男よりもはるかに顔立ちが整っていて素敵なのに、真面目で驕り高ぶることが一切ない)
そして、彼の憂鬱そうな顔を見ているともっといじめたくなってしまう。もっともっと私のことで悩んで欲しいと言ってしまいたくなる。だからついつい、お風呂上がりに抱き付いたりしちゃうのだ。
「可哀想に。あれは全部エリオットの演技なんだよ……俺は君のような女の子を沢山知っている。みんな始めはあいつのことを信頼するんだけどね? でも最後は殺されて、」
「っ今までもそうやって! ……彼女達に近付いて殺してきたんですか?」
男が灰色の瞳を瞠って、私からすっと手を離す。もう駄目だった、限界だった。その黒いコートの胸倉を掴んでぎゅっと締め上げ、思いっきり下から睨みつけてやる。そうか、お前達のせいで彼女達が死んだのか。
「今までもそうやって嘘を吐いて騙してきたのか、何も知らない子達を!? 何も、何も知らずに生きてきた子達を!? そうやって!?」
「ちょっと待って、落ち着いて」
「っ落ち着けるものか! 今すぐその汚い口を閉じろ、汚らわしい! いいか、私は絶対に騙されたりなんてしない! お前達の口車に乗って家を抜け出したりなどしない!!」
「ソフィー、お前」
彼がいつの間にか背後に立って、私の腕を掴んでいた。きっと知り合いなのだろう、この男と。困惑している。でも、怒りがふつふつと湧き上がっていてどうすることも出来なかった。この男の胸倉から手なんて放せなかった。もっとだ、もっと。この男が不気味がるような口調と態度で、徹底的に叩きのめしてやる。
「そうか、お前達のせいで死んでいったのか! お前達がそんな下らないことを吹き込むから死んでいったんだ!!」
「何だ、お前は」
「今、私に力があってここに彼がいなければお前を八つ裂きにして殺してやるところだった! 許さない、絶対に許さない!!」
「ソフィー! 落ち着け、お前! 一体どうしたんだよ!?」
「もう二度と私の前に現れるな! その間抜け面を晒して来るな! 消えろ、汚らわしい!!」
正気を失った獣のように強く睨みつけ、ぜいぜいと息を荒げているとたじろいだ。ええ、勿論分かっていますとも。私だって、これが非常識な態度なんだって。
「エリオット……今回のはかなり毛色が違うな? そうか、ジャスパーが手を焼く訳だ……」
「やめろ……ソフィー、落ち着け。ソフィー!?」
きっと売人とはもう話が済んでいるだろう。だっと全速力で走ってゴミ山によじ登っていると、エリオットが後ろの方で「頼む、ソフィー! 俺を置いて行かないでくれよ!?」と叫ぶ。
ちらほらと、白い雪が舞っていた。息を荒げて走って走って、転びそうになったところで誰かが私の腕を掴む。彼だ、彼が私の腕を後ろから掴んでいた。
「ソフィー、ソフィー。待ってくれ、約束してくれただろう? 来年も、そのまた来年も俺の傍にいてくれるって……」
「ふう。あの男、もういない?」
「いないけど……」
「ごめんなさい、エリオットさん。全部演技だったの。ほら、頭がおかしい振りをしたら向こうも諦めてくれるでしょ? だってあの男、そういったことが大の苦手で」
「待て、分からん……何を言っているんだ? お前は。演技? 頭のおかしい振り?」
「何だ、分からなかったの?」
「分かる訳ないだろ!? ちゃんと説明しろよ!」
「いたっ、酷い。拳骨……」
何故かごんと頭を殴られてしまった。全然痛くなかったけど。おそるおそる見上げてみると、真っ赤な瞳に涙を滲ませていた。うーん、どうやら私が悪いらしい……。
「あのね? あの男が実は悪者で……」
「何が……? 説明が下手くそすぎやしないか、お前」
「あら、酷い。でもね、あいつは敵なの。貴方の敵! 今までのね? 女の子が貴方から逃げたのもきっとあいつが原因よ、あいつが!」
「あいつが……? まさかそんな。有り得ない」
よほどショックだったのか、口元を引き攣らせて笑う。信用しない気だ、自分が苦しいから。真実を知ってしまったら、自分が深く傷付くから。腹が立って事の経緯を話してみると、黙って聞いていた。でも、虚ろな目をしていた。そして、おもむろに私の頭を撫でる。どうしてだろう、涙が出そうになった。
「もういい……お前が言うのなら、きっとそうなんだろうな。馬鹿だ、俺は……」
「私の言葉、信じてくれるの?」
優しくこちらの髪を梳かしてくる手も何もかも嫌いだ。甘えて縋ってしまいたくなるから。ぎゅっとくちびるを噛み締めて俯いていると、彼がまた私の頭を撫でてゆく。
「そうか、お前は。きっとさっきみたいに、空回りをしてきたんだろうな……」
「やめて、お願い。……ねぇ、何でだと思う? エリオットさんの言葉に泣きたくなるの」
「お前がまだ十七歳のガキで……そうだな、深く傷付いてきただろうからな」
「私、エリオットさんのそういうところが好きよ。大好き」
「またお前は、軽々しくそんなことを言って……」
耐え切れなくなってぼすんと抱き付くと、低く笑って抱き締めてくれた。そしてまた、いつもの優しい声で呟いてくれる。
「帰ろうか、ソフィー……帰ろうか」
家に帰ってお腹いっぱい食べて、シャワーを浴びて寝台に潜り込むと彼が溜め息を吐いた。
「……で? ソフィー。何でお前は毎晩毎晩、俺の部屋に来るんだよ……」
「いい加減、諦めた方がいいと思う。エリオットさんは!」
「自覚してないのか」
「何を?」
「こっちの話。退け」
「ちょっと、酷い……」
また今夜もぐいぐいと押しのけられ、寝台から追い出されそうになる。でも、魔法の呪文を知っているのだ。魔法の呪文を。
「ねぇ、エリオットさん?」
「何だ? その手に乗らな……」
「傍にいて欲しいのに、いてくれないの?」
「だから……」
そこで黙り込んでしまう。そして私を押しのけ、のそのそと毛布に潜り込む。不貞腐れて、私に背を向けて寝転がっていた。ああ、彼のこういうところが好きだ。結局はちゃんと折れて、私の我が儘を沢山聞いてくれる。同じようにのそのそと毛布に潜り込み、その温かいふくらはぎに冷たい足先をひたっと引っ付けた。
「おい……」
「ねぇ、エリオットさん。……私のこと、不気味じゃない? どうして信じてくれるの?」
「お前がそんな、下らない嘘を吐く人間だとは思ってないから……」
「分からない、嘘かもしれない」
「ソフィー、何を拗ねているんだ? いや、怖いのか。お前も、人が離れてゆくことが……」
そうだ、怖い。彼のに比べると、ちっぽけでささやかな悩みなんだけど。ぐすんと鼻を鳴らして、彼の背中にしがみついた。何故か機嫌良く笑ってこちらを振り返り、ぎゅっと私を抱き締める。そしてまた、いつものように優しく優しく髪を梳かしてくれる。
「大丈夫だよ、ソフィー……俺もお前のことを信じる。傍にいてやるから」
「本当に? 本当に? 傍にいてくれる? きらいになっちゃわない……?」
「ならないよ、大丈夫。なるもんか……たかだかあんなことで」
ああ、そうか。彼にとっては大したことがない出来事なんだな。そのことを頭のどこかで冷静に理解して、両目を閉じる。ふんわりと爽やかな、ジュニパーベリーとミントのような香りが漂った。少しだけ冬の清廉な水の香りと似ている。
「ありがとう。おやすみなさい、また明日……」
「ああ、おやすみなさい。また明日……でも、明日こそはちゃんと自分の部屋で寝るんだぞ?」
「……」
「おい、返事は?」
「ぐうぐう」
「はーあ、まったくもー……仕方が無いな」