6.その怪物男は敵であり、味方でもある
流血描写があります、ご注意ください。
「ソフィー、買い物に行くぞ。実入りが良い仕事が入って良かった……」
「……分かった、それじゃあ用意してくるね」
「ああ。この間買った防弾チョッキ、一応着ておいてくれ。まぁ、多分、襲われはしないだろうが……」
あれからというものの、彼は不安定だ。突然夜中に飛び起きたかと思うと低く呻き、背中を曲げて動こうとしない。ひたすら彼の頭を撫で、背中を擦っていると、いきなり腕を引っ張られて抱き締められた。落ち着くのか何度も「ごめん、ごめん」と呟きながら、毛布の中で私を抱き締める。
『あいつとはまるで違う、俺はお前にそんなことをしない、絶対に……』
『分かってるよ、大丈夫。分かってるよ……』
何度も何度も彼が望む言葉を与え、その頭を撫でて眠りにつく。なんて弱い人なんだろう、この人は。心の支えだった奴隷の少女を何度も目の前で殺され、泣きながら埋葬をする。この終わった世界を一望出来る場所に埋葬していた。どの子も丁寧に埋葬されていた。彼が憂鬱そうな顔で「この子は向日葵が好きだった、この子は百合が好きで」と言って、美しい造花を手向ける。生花は手に入らないから、せめてものと言って。
晴れ渡った青空の下で、彼が憂鬱そうに呟いた。冬の風は冷たく、コートの隙間からこちらの熱を奪い去ってゆく。
『なぁ、ソフィー……お前はどんな花が好きなんだ? 聞いておきたい』
ああ、そうか。彼は私が死ぬと思っている。何度も何度も、誰かが目の前で殺されてきたから。悔しかったので言わなかった。エリオットは綺麗な赤い瞳を歪ませ、「そうか」と呟いただけだった。
教えたくない、そんなの。私が死んだらどんな花を供えて欲しいかなんて。虫唾が走る。やだ。悲しくて苦しくて、私は無力な存在なんだと思い知る。
(何か……出来ないのかな。もっと私は他に)
出かける準備をしながらも考え込む。最近ようやく気が付いたことだが、彼はアウトドア派だ。家にいると落ち着かないらしい。いや、それとも私が甘えて膝に乗ってくることが嫌なんだろうか。とにかくも自分はべたべたと甘えてくるくせに、私がいざ甘えようと思ったら、慌てて逃げてゆく。ずるい、彼ばっかり私に甘えて。灰色のパーカーとデニムを着てドアを開け、リビングへと入る。
「っねえ! エリオットさん!? 私ばっかり損じゃない!? 私も甘えたいんだけど!?」
「えっ? ごっ、ごめん……?」
白いシャツにアーガイル柄のニットを着た彼がうろたえて、どうしようとでも言いたげに両手を彷徨わせた。可愛い。そんな顔を見ていると一気に気分が良くなったので、笑って許してやる。
「いいよ、じゃあちゃんとハグしてくれたら!」
「えっ? それはまた少し違って、」
「何で!? いいって言ったのに!」
「言ってない!! 俺が甘えるのとお前が甘えるのはその、何かちょっと違うんだ……!!」
「何が!? 人の首を折るより簡単でしょ!?」
「折る方が簡単だ!! とりあえず手に力を入れておけばいい!」
「あっ!? またそうやってすぐに逃げる!!」
笑って逃げるエリオットを追いかけて、その背中に抱きつく。エリオットが低く笑った。そしてこちらに向き直って腕を伸ばし、私の頬に手を添える。一瞬、よく分からなかった。どうして息が止まっているんだろう、私は。真っ赤な瞳が優しく細められ、私の頬を撫でてゆく。
「ふざけてないで用意してこい、ソフィー……どうした? 俺のことをじっと見つめて」
「……何でもない。着替えてくる。でもその前に」
「何だ? わっ」
「ハグね! 何で嫌がるかちっともよく理解出来ないけど!!」
「嫌というか……落ち着かないんだよ、色々とな」
苦笑して私の茶髪を撫で、「短く切り揃えた方がいいか……勿体無いけどな」と呟く。そこでふと、疑問に思った。私と彼の関係って何だろう? 間違っても恋人とかじゃない。とは言えども友人じゃない。兄のような存在だというには遠く、保護者というには味気が無さすぎる。
「仲間ともちょっと違うしな……」
「どうした? 何の話だ?」
「私とエリオットさんの関係。何だろうなと思って」
「……別に無理して決めなくてもいいだろ。そんなこと」
「いや、それは分かっているんだけど……」
野生の獣が甘えるみたいに、私の頬に手を添えて耳の上にキスを落としてくる。軽いリップ音を立てて私から離れ、満足そうな笑みを浮かべた。うん、やっぱり主人と奴隷という関係性がしっくりくる。
(彼は気付いていないのかもしれないけど……多分、どこにも行けない私を支配して楽しんでいる)
どこにも行けない私を守って、食事を作って与えて、甲斐甲斐しくお世話をする。それなのに優しく手錠をかけられて、目隠しでもされているかのようだ。耳元で「どこにも行かないでくれ、お前しかいないんだ」と囁きながらも、私の全てをことごとく支配する。この辺りはそれなりに治安が良く、昼間なら一人でも歩けるのに物凄く嫌がる。依頼人と話していると割り込んでくるし、落ちていた新聞を拾った時だって「やめろ、そういうことは。無駄だから」と言って取り上げて捨ててしまう。
(いつか彼が、私の一番の敵になるのかもしれない……)
それでも、この弱った獣を慈しもう。私は今までの女の子達のように人でなしなんかじゃない。それに、歪んだ思考はぼろぼろに弱った精神から生み出される。なら、彼を正気に戻そう。私の手で健康にしよう。
「ほら、もういい加減に離れて? 出かけるんでしょう?」
「嫌か? こうして引っ付くの……」
「嫌じゃないけど。切りが無いから……」
「誰かと約束している訳じゃない。それに、まだ日も暮れない……」
エリオットが私の肩に手を置いて、首筋にキスをしてくる。そのまま髪の毛に顔を埋めて、「良かった、今日もお前が生きていて……」と呟く。照れ臭い。愛されているんじゃないかって錯覚してしまうから、本当にやめて欲しいのに。
「エリオットさん……ほら、それは貴方の自己満足だから。やめてくれる?」
「……そうだな、悪かった」
あ、酷く傷付けてしまった。
(しまった、もうちょっと加減するべきだった……一瞬で離れる言葉を思いついたんだけどな)
調整が難しい。エリオットが苦しく眉を顰めて、虚ろな眼差しで私の首筋を撫でた。それを見て胸の奥がずきりと痛む。照れ隠しだというには残酷だ。上手く行かないな、色々と。
「エリオットさん、私……必要以上にべたべたして欲しくないの。分かる?」
「分かる……ごめん、俺は。絶対にあいつのようにはなりたくなかったのに」
「違うの。嫌悪感じゃなくて……あー、恥ずかしいでしょ? 分かる?」
それに健全じゃないと言おうとしてやめた。傷付けてしまうからだ。エリオットが赤い瞳を瞠って、ふんわりと慈しみ深い微笑みを浮かべる。嬉しそうだった、物凄く。そんな風に笑う彼に手を伸ばすと、その手を絡め取って自分の頬に添える。彼の頬に手を添えながらも、その陽射しに透き通る赤い瞳を見つめていた。この感情は一体何だろう、胸の奥が詰まる。
「出かけるか、ソフィー……俺も着替えてくる。じゃあな、また後で」
「あっ、うん。はい……」
そのままリビングから廊下に出て、ドアがぱたんと閉まる。そのガラスが嵌めこまれたドアを見てはっと息を吐き、意味も無く床に座って膝を抱えた。
「何……何だろう、今の」
恋愛感情じゃない。のに心臓がばくばくと鳴っている。どうしようもなく綺麗な獣に触れた時のような高揚感と緊張、そして。
(もっと触れたいって思った。でも、キスとかじゃない。抱かれたいと思う訳じゃない……)
それよりもっと、心の深くて脆い部分にキスをしてみたいような。そうか、私は彼のもっと色んな表情が見てみたいと思ったんだ。口元に指先を押し付けて、ぎゅっと両目を閉じる。
「びっくりした……何だろ、これ。よく分からないな……」
唯一無二の存在になりたい。そう思ってしまうのは一体どうしてだろう。でも、恋人だと得られないような気がする。さっきのような瞬間は。
「着替えて、用意するかー……はーあ」
「ソフィー、襲われないだろうと言ったよな? 俺は」
「ええ、言っていたわね」
「訂正しておく。どうも昼間の店内でもこいつらは襲いかかってくるらしい。がっかりだ」
言うなりエリオットがひょいっと私を抱き上げ、買い物カートの上に乗せる。ぐっと持ち手を握り締め、そのまま全速力で突っ込んだ。驚く相手の前でぴたりと止まると、すかさずカートを乗り越えて相手を蹴って吹っ飛ばす。相変わらず凄まじい身体能力だ。獣人でもここまで身軽に動けない。慌てて真っ赤なマントを被り、膝を抱えて大人しくする。血が飛び散ってくるからだ。感染症とか怖いし、目に入ったら悲惨だし。
「一、二、三……五人か。すぐに終わるな」
「ってめぇ! この怪物め!!」
声に憎悪がこもっている。復讐かと考えて溜め息を吐いた。道理で、こんな昼間の店内で襲ってくる訳だ。偶然出会ってしまったんだろう。ふいに頭を掴まれ、引っ張られる。だけどすぐにそれが吹っ飛んで、「ぐぁっ……」とくぐもった声を出す。死んだな、あれ。淡々と考えつつも膝を抱える。下手に動いて彼の邪魔をしたくない。それに私は囮だ。
「ソフィー、逃げるぞ。触発されて他の奴等が寄ってきた」
「分かった。逃げましょう、冒険感が出て楽しいわね」
「何が? 俺は命がけで戦っているんだが?」
真っ赤なマントのフードをばさりと下ろして呟くと、エリオットが溜め息を吐きつつ走ってゆく。がらがらと広い店内に暴走する音が響き渡り、それに合わせて銃弾が飛んできた。照明がぱりんと割れる。破片が降り注ぐ中でエリオットが舌打ちをし、「全員殺すか、面倒臭い」と呟いた。
「このマント、目立つわね……血が目立たなくて良いと思ったんだけど」
「俺といる時点で何もかもが無駄だ。乞食のような格好をしようと、ウェディングドレスを着ようとな」
「それはそうかもしれないけど……」
ナイフを持って襲いかかってきた男を、彼がどこからか持ってきたバットで殴り飛ばす。横から私の肩を掴んできた男のことも、殴り飛ばして殺す。それをきっかけに、わっと一斉にたかってきた男達に向かって「しつこい!! 全員ぶっ殺すぞ!」と叫んでバットを振り回し、カートをぐるんと回して滅茶苦茶に殴って蹴ってとする。
「うーん、バットって便利なのね。意外と」
「上手く使えばな。金属バットがあって良かった。血で汚れたし、買いに行くか……」
「購入動機がそれって……」
「こういうのはきちんとしとかなきゃな。盗むのは良くない」
「殺人は……?」
「正当防衛だ。好きで殺してる訳じゃない」
「それもそうね、ごもっともだわ」
白い床にごろごろと寝転がっている男達を見て考え込む。内臓や脳みそが散らばっていなければ、まるで酔っ払って眠っているかのようだ。
「死体って。見慣れるのね……」
「あまり見るな……慣れるべきじゃない、本当は」
「そうなのかもしれないけど綺麗事でしょ、それは。見慣れておいた方がいい。いざ逃げなきゃいけないって時に死体を見て震えてちゃ、ちょっと何?」
「俺はお前のそういう所が嫌いだ……」
「はい? 別にこんなの大したことな……」
私の目元を隠していたエリオットが近付いてきて、「頼むから言わないでくれよ、そういうことは」と耳元で甘く囁きかけてくる。ああ、どうしてだろう。いちいち距離が近いし、たしなめられているだけなのに口説かれているみたいだ。
「ちょっと、分かったから! いちいち距離が近い! 離れて!」
「悪いな、お前の照れている顔が見たくって」
「そんな真顔で言われても……あーあ、もう」
いつものように私の頭を撫で、「さ、バットを買いに行くか。後は何が欲しい?」と尋ねてくる。悔しい。まんまとペースに乗せられているような気がする。エリオットの手を借りてカートのカゴから降り、ため息を吐いた。
「何かばっかみたい。私ばっかり戸惑って振り回されて」
「お前が俺を振り回しているよ、いっつもな」
「そう? そんな風には見えないけど? だって動揺とかしないし」
「ムラがあるな、お前の力は。相手の全てが分かるんじゃないのか?」
「見ないようにしてるの。……怖いから」
テーブルの上に置いてあるコップを見ないようにしているのと同じ。でも。自分の胸元を握り締めて考え込む。
(エリオットさんは……私にどろりとした目を向ける時がある。欲情しているんだろうな、私に)
お風呂上がりに牛乳を飲んでいる時、テーブルの下に落ちた雑誌を拾い上げた時。ふとした拍子に視線を感じて振り返ってみると、エリオットが佇んでいる。その仄暗い赤い瞳を見て悲しくなるのは、一体どうしてだろう。仕方が無いことなんだろうけど、こればっかりは。
「ねぇ? 恋人とか作る気ないの?」
「ぐっ……お前は突然、何を言い出したかと思えば」
「それか娼館へ行くとか。あるでしょ、この世界にはいっぱい────……むぐ」
「ひやひやさせられるな、いつも。はー……もう少し言葉を選んで欲しい。お願いだから」
彼は意外と繊細だ。口元を塞がれつつ、眉を顰める。絶対に私は何も悪くない。解決策を提示しただけだ。
「ぷはっ、あのね? 何も私に欲情するなって言ってる訳じゃないのよ。ただ」
「やめろ。後は何を買い足しに行く? ベットカバーが欲しいと言ってなかったか?」
「うん、もう少しシンプルな花柄の。……今から買いに行く?」
「……トイレットペーパーを先に買いに行こう。あとはドレッシングもだな」
今この状態で寝具売り場には行きたくないらしい。ここは無法地帯の“終わった世界”だが、一応それなりに機能している。人間って何て図太いんだろう。
「ねぇ、でも、流石にショッピングモールとかはないよね……」
「それは無い。流石に。ぼろい家電製品を売っている店はあるが」
「そう。じゃ、諦めようっと」
「何が欲しいんだ? 服かコスメか?」
「アロマオイル。あと紅茶。ハーブの入浴剤とか癒し効果のあるものが欲しい」
「癒し効果……そういったものを扱っている男がいる。今度買いに行くか」
エリオットががんと乱暴にトイレットペーパーを突っ込み、溜め息を吐く。今日は黒いニットとデニムを着ていた。コートは邪魔になるからと言って着ていないが。まぁ、タンクトップをやめてくれてほっとした……。
「悪いな。ストレスが溜まるだろう、この日々は」
「ストレス……そうね、大抵は震えっぱなしだし」
「でも……いや、何でもない」
「お父さんが迎えに来るまではここにいるから心配しないで。大丈夫だから。ねっ?」
「……ああ。ありがとう、ソフィー」
父の話題を出すと、エリオットはいつも私に背を向ける。知られたくないのだ、怖がっていることを。
(しまったな……どう逃げ出す? ここから)
下手をすれば父を殺しかねない。いや、彼がそんなことをするとは思いたくないが。何せ相手は気が狂いかけの孤独な怪物男。私への執着が日々増している。
(うーん、難しい。本当に難しい。迎えが来るまで守って貰わなきゃ駄目だし……)
執着されないように優しくして、彼の妹のような存在になって穏やかに暮らす。無理。無理だな、絶対に。どう足掻いても執着される。
「ねぇ? 友達は? いないの?」
「一晩泊まっても俺の寝首を掻きそうにない男が……そうだな、三人ぐらいか? でも一週間は泊まれないな。どこかの曜日で殺されそうだ」
「それ、友達って言わない……信頼が置ける人でしょ。いや、それもちょっと違うかな」
「どうした? 急に。やっと俺に興味が沸いてきたのか?」
「うーん? 興味とかとはまたちょっと違うような気がする」
そう呟くと、エリオットが「何なんだ、お前は」と呟いて不貞腐れる。すぐ拗ねるんだから、もう……。
「エリオットさんが私に執着してるから。……やめて欲しいなと思って」
「……やめれるようなものじゃない。それに言ったじゃないか、お前は。来年もそのまた来年も、俺の傍にいるって……」
それまで商品棚を見ていたエリオットが振り返り、私の首に手を伸ばす。そのまま締め上げるのかと思いきや、優しく擦ってきた。ざらりと、硬い皮膚が首の上を滑ってゆく。戸惑って見上げてみると、虚ろな目をしていた。ああ、歪んでいるってきちんと理解しているんだな。一応は。
「なぁ? ソフィー……責任、取ってくれるよな?」
「なん、何の……? エリオットさん」
そこで私の首から手を離し、ぐっと近寄ってきて耳元で甘く深く囁く。
「俺を滅茶苦茶にした責任。なぁ? ソフィー……」
「っ覚えが無い、とはちょっと言い切れないわね……」
その逞しい胸元を押して、見上げてみると妖艶に笑って「顔が真っ赤だ。可愛い」と呟く。もしかして私を口説き落として傍に置いておく作戦なのか。そのつもりなのか。振り回されてばっかりで悔しいので、ぐいっとエリオットの胸元を掴んで引き寄せる。
「お友達になりましょ、エリオットさん。その方が健全だわ……」
「耳元で言う台詞じゃないな、ソフィー。もっと違う何かを期待したのに」
エリオットが私の頭に手を添えて、そのまま抱き締めてくる。誰もいないので、暫くの間そうしていた。食うか食われるかの戦いのような気がして笑ってしまう。
「じゃあ、もしも万が一。私が貴方のことを好きになって、貴方も私のことが好きになったら一生傍にいてあげる。それでいい?」
「いい。じゃあ、それで……」
体を離して見つめ合い、同時に笑う。この関係を何て表現したらいいんだろう、一体。敵のような味方のような、恋人のような宿敵のような。ただ一つ、分かっているのは。
(一歩間違えると滅茶苦茶になるな、これ……穏やかな関係を築かないと。彼とは)
薄氷の上で悪魔とステップを踏んで踊るような難しさだが。まぁ、いけるだろう。相手の欲しい言葉が分かる私ならば。