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元奴隷の少女と怪物男の血にまみれた日々  作者: 桐城シロウ
第一章 それは歪んだ執着から始まって
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4.正気と狂気の狭間で

少しだけ流血描写があります、ご注意ください。

 










 不思議な愛おしさに包まれて目を覚ます。部屋の窓から朝日が射し込み、こちらの顔を照らした。



「ん……痛い。眠い……」

「大丈夫か? ソフィー。カーテン閉めるか……」



 優しくも低い声が聞こえてきて、そっと目蓋を持ち上げる。見ると半裸姿のエリオットが分厚いカーテンを閉め、ふうと息を吐いていた。短い黒髪が揺れ、真っ赤な瞳がこちらを捉える。



「おはよう。気分はどうだ? 随分とうなされてた……」

「えっ? そう? むしろ気分は良い方なんだけど……」



 まるでお湯にでも浸かっていたかのように、体がぽかぽかと温かい。起き上がって自分の手を見てみると、温かく湿っているような気がした。まるで誰かと長時間、手を繋いでいたみたいに。そのことに気が付き、何故か熱い涙が滲む。



「……エリオットさん。もしかして、私の手をずっと握っててくれたの?」

「もののついでだから気にするな。あと何も変なことはしてない」

「何? もののついでって……あと、そういうことはしないって知ってるから。貴方がそんな卑怯な人じゃないって知ってるから……」

「そうか。ならいい」



 短く答えて、部屋を横切ってクローゼットを開ける。冬服やコートがみっちりと詰まっていた。良かった、一応そんなのも持っているのか。もそもそと長袖シャツを取って着替えているエリオットをじっと見つめ、話しかける。



「ねぇ? どうしていつもコートとか着ないの? 寒くないの? それとも暑いとか?」

「お前はよく喋るな、ソフィー……まるでカナリヤのようだ。昔飼っていた……」

「あの……寒くない? どうしていつも黒いタンクトップ姿なの?」

「血で汚れるからだ。それに動き辛い。手間取っている間に殺される」

「そう…………そう」



 その言葉に息を飲み込む。そうか、コートなんか着ていたら飛んで跳ねてと出来ない。彼は獣人並みの凄まじい動きが出来る。それを最大限生かすため、そして私を生かすため。ぎゅっとシーツを握り締め、俯いた。どうやったら彼のことが守れるんだろう。私はあまりにも無力だ。



「ねぇ、エリオットさん……私にも武器をくれる? 護身用に……」

「そうだな、小さいナイフぐらいは持っていた方がいいか……悪いな、気が付かなかった」

「今までの女の子は? 持ってなかったの? それとも欲しがらなかった?」

「そのどちらでもない……刃物を渡せるような関係に無かった。そこまでの信頼は無い……」



 確かに刃物を持って、近付くのには信頼関係が必要だ。もしかして、今までの子達は彼が近付くだけで怯えて震えていたのだろうか。



「よくそんなので一緒に暮らしてたわね……辛かったでしょう、お疲れ様」

「……ああ、ありがとう。でもいいんだ、俺は。今は誰よりも分かってくれるお前がいるから……」



 茶色いタータンチェックのシャツを着た彼はいつもより優しげに見えて、不思議と胸が高鳴ってしまった。恋愛というよりも、美しい朝を迎えた時の高揚感によく似ている。ああ、そうか。私は嬉しかったんだ、手を繋いで貰って。エリオットが優しい笑みを浮かべ、腕を伸ばしてきた。不思議な衝動に駆られ、思いっきり彼のお腹へと抱きつく。




「どうした? ソフィー……怖い夢でも見たのか?」

「ううん、何でもない……ありがとう、エリオットさん。ありがとう……」



 胸が詰まってそれしか言えない。それでもエリオットは深く息を吐き、黙って背中を擦ってくれた。温かい手が私のごつごつとした背中を擦ってゆく。両目を閉じて、その手のひらに集中した。



「少し疲れが出たか……悪かったな。今日は仕事も入っていないし、二人でのんびりするか」

「うん……そうする。お腹空いた、ご飯が食べたいけどまだこうしてたいの……いい? エリオットさん」

「ああ、別に構わない。お前の好きなように、ソフィー」



 大した言葉じゃないのに、まるでお姫様扱いされているかのようだ。そう思うのは彼の言葉に優しさが滲んでいるから。分かりにくい、無骨な優しさが滲み出ているから。きっと他の人にはよく分からない、私にだけ分かる感情の発露。



「ありがとう。好きよ、エリオットさん。大好き。だから百歳まで長生きしてね」

「何だ? それは……この終わった世界でそんなことを言うのはお前ぐらいなもんだよ、ソフィー」



 あからさまに動揺している。面白い。ふふっと笑っていると、より強く抱き締めて私の肩にぎゅっと顔を埋めてくる。



「初めてだ、そんなことを言われたの……遠い昔にもしかしたら、そんなこともあったのかもしれないけどな」

「じゃあ何回でも言ってあげる。好きよ、エリオットさん。好き。だからちゃんと長生きして、んっ」

「そういうことは軽々しく言うんじゃない……やめろ」



 手で口を塞がれ、黙って頷く。彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。他の人から見たら沈鬱な表情をしているだけのように見えるんだろうけど、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「頼むからやめてくれ」と、そう言っているかのようだった。



「さ、飯でも食うか……お前もお前で着替えてこい。朝に幽霊は出ないだろうからな」

「分からないわよ、そう決め付けるのは危険だわ。もし出たら、大声できゃーって叫ぶから助けに来てくれる?」

「ああ、分かった。助けに行こう……幽霊なんてどう倒せばいいのかよく分からないがな」



 愉快そうに笑って、真っ赤な瞳でこちらを見つめてくる。それに笑い返して寝台から降りて、足元にあったスリッパを履く。もう怖くなかった、何も。
















 ばたんと部屋のドアが閉まって、両手で顔を覆う。どうしてああも、ぽんぽんとあんな台詞が吐けるんだろう。



「俺の気も、知らないで……」



 心臓がどくどくと鳴り響いている。嫌だ、恐ろしい。彼女が死ぬ瞬間を何度でも想像してしまう。俺は手を伸ばす、だが届かない。目の前で彼女が死んで、その命が失われる。俺のことが好きだと言っていたあの甘い声も何もかもが聞こえなくなって、ぶつりと途切れて真っ暗闇の部屋が広がる。



「頼むからどこにも行かないでくれ、ソフィー……」



 あの少女は俺に何をした。甘ったるい台詞を常に吐き、こちらを見上げて笑う。ビスケットをやった時の嬉しそうな笑顔、俺の手を握り締めて聖母のように笑っていた時の顔。狂っている、俺は。狂っている。執着と懇願が一緒くたになって死んでしまいそうだ。やめてくれ、頼むからこちらに入り込まないでくれ。



 俺に優しく笑いかけないでくれよ、ソフィー。自分の黒髪頭を掻き毟って息を吐き出す。ああ、恐ろしい。彼女が死ぬ瞬間ばかりを思い浮かべている。俺の心は悲鳴を上げていて、今にも張り裂けてしまいそうだ。



「ソフィー、ソフィー。絶対に死なせない、お前だけは何が何でも絶対に守らなくては……」



 じゃないと俺が生きていけない。毒のような少女を招き入れて飼ってしまった。後悔と喜びしかない。俺はどうすればいい、どう生きて行けばいい。致命的なものになってしまった、もう後戻りは出来ない。



『ありがとう。好きよ、エリオットさん。大好き。だから百歳まで長生きしてね』



 その言葉がどれだけ重たくて甘いのか。お前はきっと何も理解していない。その無神経さを恨むよ、ソフィー。俺は飢えた獣で何も手にしていない、何も手に出来ていない、皆が皆俺のことを裏切って逃げて死んでゆく。耳に()()断末魔が蘇って、歯を食い縛る。まともに息が吸えない、苦しい。



「許してくれ許してくれ、頼む……マリー、マリー、ソフィー……!!」



 ああ、許してくれ、許してくれ。俺の何が悪かった? 全部か、全部なのか。俺があの時ああしていたら、もっと上手く笑えていたら、もっと上手く立ち回れていたら。俺がもっともっと上手くやれば良かったのにそれが出来なかった、俺のせいだ、全部俺のせいだ。俺が全部全部悪い。だから皆死んでいったんだ、どの子も助けられずに目の前でレイプされて死んでいった!



「……エリオットさん? 苦しいの? ごめんね? でも、きっと大丈夫だからね……」

「マリー?」



 そんな筈が無い。ふと顔を上げてみるが、そこには誰もいなかった。誰もいなくて、木の床板が朝日に照らされていた。熱い涙が滲んできて、そのまま泣いた。泣いて泣いて胸元を掻き毟る。



「ごめんごめん、俺が悪かったんだ……ごめん。もっと上手くやれていれば良かったのに。苦しかっただろう、痛かっただろう? お前は蜘蛛を見ても悲鳴を上げていたのに、どれほど、どれほど怖かったことか……」



 涙が溢れ出てきて止まらない。ごめんごめん、苦しかっただろうに。見知らぬ男達に服を剥がされて陵辱されるのはどれほどの苦しみだったんだろう。守りたかった、守りたかったのに。



「エリオットさん? どうしたの!? 大丈夫!?」

「ソフィー? ああ、ソフィーか……」



 今度は彼女が俺の前で膝を突いて、背中を擦ってくれる。少なくとも今、彼女は生きている。怯えることも無く生きている。その瞳はがらんどうになっていない。



「ソフィー、ソフィー……悪いな、俺は」

「大丈夫……ゆっくりと息を吐いて吸って。私は貴方の味方だから、ずっとずっと傍にいるから……」



 ああ、こんなにも言葉が甘い。俺の欲しかった言葉ばかりが並んで、欲しくて欲しくて仕方が無くなる。もっと欲しい、もっと俺を見て欲しい。慰めて欲しい。その小さな細い肩にしがみついて泣いた。すると、ソフィーが俺のことをぎゅっと強く抱き締め返してくれた。吹けば飛びそうな程の小さな体なのに、俺よりも強い。頼もしい。



「ソフィー、ごめんな。俺は」

「いいの、ごめんなさい……貴方が人との交流に飢えていたことは知っていたのに。無神経に色んなことを言ってごめんなさい……エリオットさんの喜ぶ顔が見たかったの。ごめんなさい……」

「大丈夫、大丈夫だ……何もお前が謝るようなことはない。何も」



 ああ、波が引いてゆく。絶望と苦しみが引いていって、深く息を吸い込める。塩辛い涙で頬が濡れていた。そのまま荒く息を吸って吐いてとして、ソフィーの肩にしがみつく。温かい。肌寒い冬の朝に丁度良くて、その温度さえも恐ろしくて愛おしい。恋しかった。明日の朝にでも奪われてしまう熱だと理解しているから。



 後にはもう何も残らない、冷たい(むくろ)がただただ横たわっているばかりで。



「ごめんな、ソフィー……怖いんだ、俺は。お前が死ぬのが。とても怖い……」

「大丈夫、死なないから。約束する。何が何でも生きて帰ってきて、貴方の傍にいるから。絶対に大丈夫……」



 決意に満ちた声で呟いて、俺の肩を抱く。ああ、分かっているのに。気休めだって、ただの慰めだって。何の保証も無い。それなのに少しだけ落ち着いた。息を深く吸い込んでから、離れる。



「ごめんな……ありがとう。落ち着いた」

「ふふっ、やっぱり何だか赤ん坊みたい。そうだ、エリオットさんって一体いくつなの?」

「二十……五だったか四だったか。忘れた」

「えっ? そんなに若かったの? もっとこう……二十七歳ぐらいかと」

「誕生日を祝うやつもいないからな……いつしか数えるのをやめた」



 黒髪頭を掻いてそう言えば、気の毒そうな笑みを浮かべていた。エメラルドグリーンの瞳が細まり、朝日に照らされて透き通っていた。パジャマから灰色のワンピースに着替えたソフィーが立ち上がって、俺の頭を撫でる。



「さ、ご飯食べましょ。エリオットさん。そして次の誕生日は祝いましょうね。面倒臭いから二十四ってことにして。二十五歳ね、次は。いつ?」

「……忘れた。確か……春の半ばだった気がする。知っている奴はいるが。会う気にはなれんな」

「じゃあまた私と決めて祝いましょう。大丈夫? 立てる?」

「ああ……立てる。ありがとう」



 彼女の細い手を取って立ち上がる。俺を見て彼女が笑い、朝日の中でその茶髪を揺らした。きらきらと陽に輝いている。そのエメラルドグリーンの瞳も白い肌も、何もかも。



「じゃあ食べに行きましょうか。今日の朝ご飯は何にする? エリオットさん」

「何にしようか、ソフィー……お前を太らせなきゃな、早く」

「ふふっ、そうね。二人でアイスでも食べちゃう? バナナがあったっけ、そう言えば」

「俺はコーンフレークにでもするからお前はアイスを食っとけ。後は昨日の残りだな……」













「もう……もうちょっと限界だ。出かけてくる……」

「えー? もう? 待って、エリオットさん。一体どこに行くの?」



 慌てて逃げ出そうとするエリオットのシャツの裾を引っ張って、引き止める。彼は情けない顔をして振り返り、私の手をじっと見下ろした。人肌が恋しいのでべったりと引っ付いてうたた寝をしていたのだが、限界が来てしまったらしく、逃げ出そうとしている。そうはいくものかと睨みつけてみたら、また弱り果てた顔をする。



「すぐに戻ってくる……とりあえずお前が引っ付いてこないところに行きたい」

「そんなに嫌だった? ごめんね? じゃあ私と一緒にお菓子作りでもする?」

「とにかくお前のいないところに行きたい、俺は……」



 そこでどかっとソファーに座り、両腕を組んで溜め息を吐く。どうも私が引っ付いていると居心地が悪いらしく、さっきからそわそわと落ち着かない。その隣に腰を下ろして、腕に腕を絡めて頭をこてんと預けると低く唸った。まるで人慣れしていない犬のよう。いや、どちらかと言うと獣か。野生の獣。



「やめろ……離れろ。これに一体何の意味がある?」

「私が嬉しい。落ち着くから!」

「やめろ、離れろ。もう怖い夢も見てないだろ、お前は……」

「それでもいいから引っ付きたいの! 少しぐらいいいでしょ!? 別にそれぐらい!」

「逆ギレかよ……はーあ、もう」



 そう言いつつ私の腕を振りほどこうとするので、必死にしがみつく。彼が眉を顰め、無言で私を引き剥がしにかかる。ああ、もう! まったくもう! 腹が立つ。これぐらいは許して欲しいのに、少しぐらい甘えたいのに!



「だーめっ! やーだっ! 甘えたいの、いいでしょ!? 別にちょっとぐらい!」

「だから何で甘えたいんだよ、そんなに……理解が出来ない。理解に苦しむ」

「それでもいいから! お願い、私の傍にいて……エリオットさん。またあの幽霊が出てきそうで怖いの……」



 その言葉に動きをぴたりと止め、深い深い溜め息を吐く。ちょろかった。意外と単純だ。彼が私の頭を渋々と撫で、さらりと茶髪を梳かしてゆく。



「もう出てこない……何となくだが。それに見た訳じゃないんだろう? ソフィー」

「そうだけど、でも。怖いの……だから引っ付きたいの。分かる? いや、分からなくても分かってよ、エリオットさん……」

「……仕方が無いな」



 その言葉を聞いて、全部を許してくれたのだと理解する。にっこりと笑って腕にもたれかかり、ふすんと息を吐いた。やっぱり彼は優しくて真面目な人だ。何だかんだ言ってこうやって許してくれる。



「ありがとう、エリオットさん。好きよ、大好き。はー、落ち着く……」

「俺にとっちゃ、地獄みたいなもんだけどな……はーあ」

「まぁまぁ、許してよ? ここでもうちょっとだけ寝たい……」

「さっきと同じでいいか、体勢」

「あっ、うん。お願いします……」



 何となく呟いただけで、本当にそうしたいと思った訳じゃないんだけど。彼が先程の柔らかい毛布を取り出して寝転がり、億劫そうな表情でぽんぽんと座面を叩く。笑っていると眉を顰めた。可愛い。



「……どうした? 早く寝ろ。お前が寝たら出かけてくるから、俺は……」

「大丈夫? 私がここで留守番してたらその……」

「すぐ帰ってくる。バリケートも作っておく。何も起きないように……」



 彼が大きく欠伸をして両目を閉じる。いそいそと脇の下に潜り込み、温かい毛布の中でしがみつく。フランネル素材の布地が心地良かった。ふくふくと柔らかく、次第に目蓋が重くなってゆく。ああ、そうか。私も怖かったんだ、ずっとずっと。



「エリオットさん、ありがとう……ようやく落ち着いたみたい、私。ずっとずっと気を張り詰めていたから……」

「そうか。なら良かった。今までよく頑張ったな、ソフィー」



 そう言って、私のことをぎゅっと抱き締めてくれる。ああ、ずるいな。さっきまであんなに嫌がっていたくせに。しっかりと私を抱き締めて、すうすうと眠り始めるんだから。逞しい筋肉に覆われた両腕に安心して、深く息を吐いた。怖くない、守って貰ってる。どんなに頭がおかしくて恐ろしい奴が来ても、彼が全部全部どうにかしてくれるから大丈夫だ。



 そんなことを考えてうつらうつらしていると、私の体を抱き締めて呟いた。



「俺の方こそありがとう……信用してくれて。ありがとう」

「いいえ、どういたしまして……おやすみ。私が眠ってる間にどっか行ったら怒るからね? 行くのなら、ちゃんと行ってきますって言ってから行って……」

「……分かった。そうするよ、ソフィー。そうするよ……」



 彼にとってはそれが全てだった。信用して貰えること、それが一番嬉しいことで。そのことに思いを馳せると胸の奥が苦しくなった。一体どれほどの裏切りを経験してきたんだろう、彼は。ぎゅっと胸元にしがみつき、考える。彼の負担になるから、伝えはしない言葉を心の中で呟いた。



(大丈夫。私だけは貴方を信用してずっと傍にいるからね……エリオットさん)












 あの少女は一体何者だろう。目が覚めても不貞腐れてしがみついてくるソフィーを引き剥がして、黒いコートを羽織って出かける。流石に寒い上に、彼女がいないのならあの手が使えるから。



 こつこつと灰色の石畳の上を歩き、はっと白い息を吐き出す。何年か前にベルから貰ったマフラーを持ち上げ、顔を伏せた。彼女は赤茶色の髪と若葉色の瞳を持った少女で、舌足らずに俺のことを「エリオットさん」と呼んでいた。彼女もまた、俺を信用せずに死んでいった。



 ベルは両腕を吊り上げられて、そのまま一気に首を落とされた。あの絶望的な表情が忘れられない。口が動いて「ごめんなさい、エリオットさん」と言おうとしていた。過去の絶望に思いを馳せていたところで、ひゅーっと口笛が鳴り響く。咄嗟にポケットの中からナイフを取り出し、ざっと身構えて塀の上を見上げてみると、そこには一人の男が立っていた。



 ぎょろりと黒い瞳を動かし、にたぁっと不気味に笑う。



「よう……“怪物男”。どうした? あの嬢ちゃんは? 死んだのか?」

「いいや……まだ死んでいない。家に置いてきた……」

「ああ、そうか。何とも無用心なこって。それともあれか? 俺を殺すという合図か? それは」

「そうだ。丁度良かった……誰でもいいから殺したい気分だったんだ、俺は」



 手だけを黒く変化させて、塀の上にいる男へ飛びかかった。驚く男の首を掴み、そのまま塀の下へと叩き落とす。一瞬で終わったな、つまらない。ぐしゃりと内臓が赤く飛び散った死体を見下ろして、溜め息を吐く。白い息が昇り、目の前で消えていった。



「行くか……ジャスパーの店へ」












 ジャスパーに会いに行くと、あからさまに嫌そうな顔をした。「返品は受け付けませんからね?」と言いつつ、俺を奥の部屋へと案内する。広々としたデスクに帳簿や書類が積み重なり、埃っぽい。黒い壁と重厚な絨毯が敷かれた部屋には空っぽの檻とフラスコが転がっていて、ぱっと見は研究室のようにも見える。しかし、ここは一応執務室だった。近くにあった書類を持ち上げ、読み進めてゆく。



「どこだ? ソフィーを買った女の情報は」

「死にましたよ。話を聞くのは不可能かと」

「何故死んだ? どこぞの輩に殺されただけか? それとも」

「ご名答……あの女を欲しがっている物好きがいましてね。どうもそいつに殺されたようです」

「間一髪か。下手をしたらお前が殺されてたな」

「大丈夫ですよ。一応護衛もいますからね」



 低く笑って、黒いスーツ姿のジャスパーが足元の影を見つめる。それを無言で見つめてから、書類をばさりと投げ落とした。



「寄こせ、ありったけ。ソフィーについての情報を。家族は? いるのか? あとソフィーを狙っているのは男か女か? どっちだ?」

「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ。エリオットさぁん……貴方は上客だ。とびっきりのね?」

「うるさい。気が立っているんだ……殺すぞ。それかお前の腕を捥いで()やってもいい」

「狙っているのは男。ソフィーの家族は父親と後妻と、腹違いの妹。金にがめつい強欲な彼女の継母がわざわざこちらの世界に下りてきて、売り飛ばしたんですよ? 凄くないですか? ねぇ?」

「そうだな、凄いな。続きを言え、早く」



 この男の戯言(ざれごと)にいちいち腹を立てていたら進まない。舌打ちをして書類をぐしゃりと潰すと、ようやく話し出す。



「エリオット様。貴方が知りたいのはソフィーの力についてでしょう? 一目見ただけでその人物の何もかもを把握できる……」

「さぁ、どうだかな。俺についてはまだよく分かっていないようだが」

「あれ? まだばれてないんですか? 幸運ですね、エリオット様も」



 幸運と、そう言ってしまっていいのか。しかし彼女なら俺のことを分かってくれるような気がする。肯定して、「大したことないわ、そんなの」と言って笑い飛ばしてくれるような気がする。



「……ソフィーの力。魔術では無かった。魔力の立ち上がりが無い……」

「そうですね。そしてどうやら人外者の血も混じっていないようですよ? 先祖返りの可能性もありますが……まぁ、生まれ持った力でしょうね」

「父親は? 生きてる? 死んでる?」

「生きてますよ、ほら。写真。最近、終わった世界にやって来てソフィーという少女は知らないかと言って探し回っているそうです」

「何? ソフィーの父親が……?」



 差し出された写真を受け取って眺める。瓦礫の後ろから盗撮でもしたのか、横顔だけだったが。薄い金髪に青い瞳を持った男でトレンチコートを着ている。その表情は険しく、返り血が頬にこびりついていた。



「強いな……魔術師か? こいつは」

「まぁ、見ただけで分かりますよね。あからさまに堅気じゃない……何でもマフィアを追いかけ回している一等級国家魔術師の警察だそうで。厄介だ。殺す時はお気を付けて」

「ああ、気を付けよう……ばれないようにしないとな、ソフィーに」



 もう彼女を手放すことは出来ない。その顔写真を握り締め、びりびりに引き裂くと、ジャスパーが眉を顰めて「あんな女。どこがいいんだか……どいつもこいつも」と呟く。



「誰にも言うなよ、ジャスパー……ソフィーの父親のことを、探し回ってるってことを。言ったら殺すからな、八つ裂きにして」

「ああ、分かっていますよ。エリオット様。誰が好き好んで言うものか……あの女もあの女でせいぜい淋しがっていればいい。いい気味だよ」

「相性が悪いな、本当に。お前とソフィーは」



 ごめんな、ソフィー。お前を逃がしてやれない。お前の父親を殺してでもいいから、お前を手元に置いておきたい。



「俺の傍にいるよって言ったのはお前だよ、ソフィー……」



 寒い冬の始めの道路を歩いて渡って、白い息を吐き出す。見つけ次第殺そう、父親を。彼女を連れ去るような奴は全員死ねばいい。俺が殺してやる、全員。



「ああ、雪が……降ってきたな。道理で寒いと思った。どうしているかな、ソフィーは……」



 どんよりと重たく立ちこめた灰色の曇り空から、ちらほらと白い雪が舞い降りてきた。手をかざしてそれを拾い上げ、ゆっくりと手の上で溶けてゆく雪の結晶を見つめる。俺の手には血がこびりついていて、ひび割れていた。俺の血塗れの手が、雪の美しさを損なっているように見えた。



「ごめんな、ソフィー。きっと知れば俺のことを嫌いになるよな? お前に知られないようにしないとな……」




 走って家に帰ると、笑顔で出迎えてくれた。どうやら俺がいなくて淋しかったらしい。その細くて華奢な体を抱き上げ、愛おしく見つめる。



「おかえりなさい! エリオットさん! どうだった? お出かけは? 何をしに行ってたの?」

「ちょっとな、野暮用だ……大したことない」

「まっ、そう言うと思ったわ。エリオットさんのことだから。お昼ご飯はどうする? 何を食べる?」

「そうだな……ポトフでも作るか。野菜が余ってるから」



 俺のことを許してくれ、ソフィー。身勝手な願いだとは分かっているが、それでも願わざるを得ない。俺は何としてでも彼女に傍にいて欲しいんだ。誰を殺してでも、たとえ彼女に嫌われたとしても。











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