18.彼女を死なせる覚悟と甘い夜
家に帰ると、すぐにぎゅうっと強く抱き締められた。戸惑って、彼の黒いニットを握り締める。
「あの? エリオットさん?」
「もう帰ってこないかと思った、良かった……」
じゃあ、引き止めたら良かったのに。深く溜め息を吐いて、改めて抱き締め返す。こういうところが本当にずるいな。
「ねえ、エリオットさん。好きよ、大好き」
「……前は頑なに、そう言ってくれなかったくせにな?」
「今は好きだもん。だから伝える」
「やめろ……分かって言ってるんだろ? お前のことだから」
ふいに離れて、淋しそうな微笑みを浮かべる。そういえば、会った頃と比べ物にならないぐらい、表情が豊かになった。いつもいつも、憂鬱そうな顔をしていたのに。
「飯が出来てるぞ。食うだろ?」
「あ、うん。ありがとう」
「今日はお前の好きなチキンとトマトの……おい」
背中にぎゅっと抱き付くと、嫌そうな声を出す。このまま、何もかもを忘れて私に溺れてくれたらいいのに。何も考えないで、私の傍にいて。
「ねえ、エリオットさん?」
「嫌な予感しかしないから逃げる……!!」
「逃がすわけないでしょ? 馬鹿じゃない?」
「ソフィー、手放したいんだ。手遅れになる前に」
分かってる。分かってるけど、嬉しくない。最善なのかもしれないけど、幸福じゃない。彼がそっと、私の腕に手を添える。
「私の幸せはエリオットさんといることなの」
「数年も経てば、その気持ちも薄れる。だから……」
こちらを振り返ったエリオットの手を掴み、じっと見上げる。強烈なエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、エリオットがたじろいだ。
「じゃあ、エリオットさんは? 薄れるの?」
「薄れは……しないだろうな。でも、いい。苦しくても何でも。死ななければそれでいい。あんな惨い死に方さえしなければ」
「でも!」
「頼む、ソフィー。許してくれ、頼む」
「許さない! 絶対に許さない!!」
「ソフィー」
途方に暮れた声を出して、眉を下げている。ああ、好きなのに。誰かがエリオットさんと一緒に暮らして、この美しくて赤い瞳を見上げるかと思うと、吐きそうになった。傍にいてほしいだけなのに、ままならない。
「ねぇ、なんで私のためにって言って、私のことを傷付けるの?」
「死ぬよりかはましだから」
「死ぬ方がましだって、そう言ったら?」
「切りが無いな……とりあえず、コートを脱げ。もう」
エリオットが両手を伸ばして、黒い丸ボタンを外した。俯いていると、軽く溜め息を吐いて一つずつ外していく。
「俺はお前のことが大事なんだ。これから先、ずっと守ると保証出来ない。もし、俺が風邪を引いたら? 怪我をしたら?」
「怪我はほら、結び付いてしまえばどうとでもなるでしょう?」
「……病気にはなる。完璧に不死身になれるわけじゃないんだ」
「でも、一緒にいたいの。可能性の話なんかしないで。だって、もしも私に帰る家が無かったとしたら?」
「それだって、可能性の話だろ? ……そりゃ、俺だってお前と一緒にいたいが」
ここで言うべきか。怖かったけど、思い切って口に出してみる。
「貴方のお父さんに今日、会ったの」
「は? 俺の、父に? なんで」
「探しに来ていたのよ、貴方のこと。わざわざ足を運んで、この世界に」
「嘘だろ。信じられない……」
「腹違いの弟さんが亡くなったんですって。経営者がいないんですって!」
「……お前、それ、絶対にキレただろ」
「さぁね。知らない」
私のコートを脱がせながら、また深く溜め息を吐く。でも、心なしか、その息は震えていた。見上げてみると、私のコートを腕にかけて複雑そうな顔をしている。
「今さら……弟が死んだからか」
「そう。戻らない? 死ぬほど腹が立つけどね」
「そこに俺の幸せがあるとは、到底思えないな……」
そんなことを呟きながら、廊下の奥へと進んで、リビングのドアを開ける。後ろ手で、ちょっとだけ開けてくれているのが彼らしい。笑って、横にあるバスルームに入って蛇口をひねる。
(考える時間が必要だろうから……)
きっと、今は彼の傍に居ない方がいい。動揺していないように見えて、すごく動揺しているから。石鹸を泡立てて、ゆっくりと手を洗っていたら、ドアを開けて「なぁ、ソフィー?」と話しかけてくる。
「なぁに? どうしたの」
「俺の父親は……その、瀕死とか?」
「元気そうに見えたけど? ぴちぴちだった」
「そうか。ならいい」
ぱたんと、ドアが閉まる。それを見て、思わず溜め息を吐いてしまった。あんなのでも父親は父親だ。きっと、恋しいんだろう。泡だらけになった自分の手を見て、考え込む。
(私のお父さんは……まぁ、間抜けだしな。まだまだかかるかも?)
ザイールが「どうする? 連絡しておく?」って聞いてくれたけど。断っておいた。でも、彼のことだからこっそり連絡してそうだ。
「許さないわよ、エリオットさん……許さないからね、絶対に。私は」
「怖いからやめろって……」
「いたの? 気付かなかった」
ドアの隙間から、こっそりこちらを窺いながら、気まずそうな顔をする。
「まだ、その、かかるかなと思ってさ」
「……淋しかったんでしょ、絶対」
「いいや、別に」
「はい、嘘。分かるって言ってるのに」
「やっぱり敵わないな、お前には」
ドアを完全に開けて、そこへもたれて笑う。黒いニットの上から、薄汚れてくたくたになった、ベージュのエプロンを着ていた。優しげに細められた真っ赤な瞳を見て、触れたくなる。ああ、何も気にせずに、私の傍にいてくれたらいいのに。石鹸の泡が所々残っていたけど、気にならなかった。手を濡らしたまま、彼の下へ行く。赤い瞳を丸くして、「どうしたんだ? ソフィー」と聞いてきた。
「ねぇ、私」
「……逃げた方がいいパターンだな、これは」
「好きなの。エリオットさんのことが。だから、」
「よし、逃げる! 悪いな、ソフィー」
デニムのポケットから、またあの手錠を出そうとする。咄嗟に息を止めて、その手から手錠を奪った。動揺する彼の手首にそれを、がしゃんとはめる。くあぁっと、青い炎を吐いているドラゴンが現れた。
「あっ!?」
「絞め殺されたニワトリみたいな声だったわね、今の」
「おい……まさか、嘘だろう?」
「足。切断でもしてやろうかしら?」
「ソフィー」
私が言い出したら聞かないことを知っているからか、ゆっくりと青ざめる。でも、分かっている筈だ。目的はそれじゃないって。自分のブラウスのボタンを外しながら、話しかける。
「ねぇ、エリオットさん? さっき、私のコートのボタンじゃなくて、このブラウスのボタンを外してくれたら良かったのに」
「……」
「逃げないの! だめ! こらっ!」
手錠を付けたまま、くるりと無言で背を向ける。私がもたもたしていると、必死でドアを肩でこじ開けて、走って逃げていった。何よ、私にそうやって挑むつもりなの?
「いい度胸じゃない……!! 逃げ場なんてこれっぽちも無いのに!」
「頼む! ソフィー、来ないでくれ! ああ、くそ! 買うんじゃなかった、これ!!」
「買って良かったって言ってたじゃない、この間は!」
「鍵、鍵……!!」
そうはさせるか。自分の部屋に入って、ライティングビューローの引き出しを開けようとしているエリオットに飛びついて、引き剥がす。
「わっ!? やめろ、離せよ!?」
「本気で抵抗するの、なんで!? それでも私の彼氏なの!?」
「つい数週間前なら喜んでいたところだが! 今はちっとも嬉しくないな!」
「なんで!? 前は思ってたんじゃないの!? 私とずっと一緒にいたいって、そう!」
「ああ、思っていたさ。強くな!」
「いたっ……」
ぐっと、肩を掴まれた。じゃらりと鎖が音を立て、指先がブラウスに食い込む。見上げてみると、辛そうに息を荒げていた。「仕方が無いだろう?」と、そう言っているみたいだ。
「俺は……俺はあの時、確かにお前のことが好きだった! いいや、好きだと勘違いしていた」
「何を? 好きじゃないって? もう?」
「頼む、泣かないでくれ……違うんだ。俺はただ、お前を大事に出来ていなくて」
「だからあの時は、本当に好きじゃなかったって?」
「そうだ、生きているだけでいい……あの時は、傍で死んで欲しいと、そう思っていた。俺の傍で。どこへも行かず、ここで死んでくれたらいいのにって、そう思っていたんだ。最低だろ? 俺」
「最低じゃない……だって、私は今、そう考えているもの。エリオットさんと同じことを」
滲み出てきた涙を拭って、睨みつける。エリオットが戸惑って、苦しそうな顔をしていた。
「ねぇ、帰りましょうよ? それが出来ないのなら、この世界で私と一緒に死んで。他の誰とも生きていかないで」
「ソフィー」
「帰りたくないんでしょう? でも、私もいるから。あっちの世界に帰って、デートしようよ……行きたいところ、やりたいこと。沢山あるのに?」
彼の腕の中に入って、ぎゅっと抱き締める。手錠が邪魔だ。外してからの方が良かったかも。彼はただ黙って、私の背中に手を添えていた。
「馴染めると思うか? 俺」
「努力しましょ、私と一緒に。私だって、馴染める気がしないもの」
「なんでだよ……」
「こっちでの生活が長いから? もう腹が立つことがあっても、殴り飛ばせないし。暴力がコミュケーションってすっごく楽!」
「染まりすぎだろ……」
「ふふっ、でも、まぁ、いいんじゃない? 二人で努力しましょうよ、一緒に」
「話を、あっちと詰める必要がありそうだな……」
そうだ。あの父親がまたエリオットを「いらない」と、そう言ってしまえば終わりだ。まだ危うい糸の上に、二人で立っている。でも、いつものことだった。それも。
「ねぇ、エリオットさん。約束したの、覚えてる?」
「覚えているが……どれだろうな? 沢山約束したからなぁ」
「そうね。私を守るために、腕を切り落とさないで。あと、朝ご飯に玉子は必須。買ってくるのは、苺かマーマレード」
「あと、しなびたレタスだけは絶対に出さないで、だったか?」
「そうね。あとは? 覚えてる?」
「あとは……そうだな。出来れば、夜寝る前に子守歌を歌って欲しい。手を繋いで欲しい。悪夢にうなされていたら、起こして欲しい」
「沢山覚えてくれてるじゃない。ありがとう」
どこか楽しそうな様子で、彼が私のことをぎゅっと抱き締める。笑って、抱き締め返していた。強欲と言われようとも、望んだものは全て手に入れてしまいたい。
「あとはそうだな? 私を抱く気になったら、教えて欲しい。だったか? それもあったな……」
「残念。もう一つだけあるの。一番大事なやつが。当ててみて、エリオットさん」
私の首筋にキスをしてきた彼をたしなめ、笑う。すると不思議そうな顔をして、顔を覗き込んできた。
「あと他に? あっ」
「思い出した?」
「……ちょうど、鍋に火をかけていることをな」
「ちょっと、大丈夫?」
「まぁ、スープだし。弱火だし大丈夫」
「で? 約束は?」
「まぁ、そう拗ねるなよ。ソフィー……あれだろ? 俺のことを好きになったら、一生傍にいてくれるってやつだろ?」
「そう、大正解よ。エリオットさん」
どうやら彼はようやく、諦めて私と一緒にいることにしたらしい。するりとブラウスの中に手を入れ、背中を撫で上げ、熱っぽい瞳で見つめてくる。
「……いいの? 諦めてくれるの?」
「ああ。お前がしたいようにするのが一番だ」
「幸福の押し付け、やめてくれる?」
「……後悔するだろうな、俺は絶対に。でも、いい。お前がいいと言うのなら、もうそれでいい」
全部を飲み干して、我慢すると言ってくれている。幻獣はみんなこうなんだろうか? よく分からない。でも、思わず息が止まるぐらい、その赤い瞳は熱を帯びていた。惹き込まれる、殺される。そんな、ありもしないことが頭を過ぎっていった。
「なぁ? もう、待てとは言わないよな?」
「言わない……」
「俺を襲う気だったのに。可愛いな、今さら照れていて」
「ちょっと、んぅっ」
今まで抑えていたのが一気に爆発した、と言わんばかりの激しいキスをされていた。でも、私だってそうだ。ずっとずっと、心置きなく触れてみたかった。
「ソフィー、ソフィー……鍵は?」
「分かった、待ってて」
切なく催促されて、急いで取り出す。真鍮製の鍵を使って開けると、がちゃりと音を立てて床にこぼれ落ちた。それを何となく見ていると、「ソフィー」とまた呟いて、私の顎をくっと持ち上げる。
「好きだよ、ごめん。覚悟を決めれば良かったな、死なせる覚悟を」
「したの? でも、私は出来ないからずっと。死なないでね、エリオットさん」
「死ぬもんか。一度結び付いたら、滅多なことでは死なない……」
滅多なこと、か。彼の母親は白血病だった。病には勝てない。でも、そんなこと、気にしたって無駄だ。誰だってそうなんだから。いつかは突然死ぬ。エリオットが腰を掴んで、キスをしてきた。何度も何度も熱く、キスをしてくる。
「ねぇ、寝台に行かない?」
「……抱き上げるぞ、ソフィー」
「っふ、言わなくても大丈夫なのに。怖くないのに……」
エリオットも軽く笑って、ひょいと私を横抱きにする。そして、私を寝台へと乱暴に下ろした。余裕が無い、随分と。少しだけ怖くなる。
「ああ、ごめんな。ソフィー……っ火を止めてくるから。ちょっとだけ待ってろ。くそ!!」
「っふ、ふふふふふ……!!」
エプロンの紐を解いたエリオットが、心底悔しそうな顔で脱ぎ捨て、走り去って行く。少しだけほっとした。そうだ、この隙に。
(大丈夫、大丈夫……一瞬で終わるだろうから)
そしてきっと、彼のことが嫌いになっても逃げ出せない。いい、大丈夫だ。いつか殺されても。両目を閉じて、ばくばくする胸元を押さえていると、ばたばたと慌ただしく戻ってきた。
「気は変わってないよな!?」
「変わってない、流石に」
「なら良かった……ソフィー」
大事な小鳥を呼ぶみたいに、私の名前を優しく呟く。笑って両腕を広げると、まずは強く強く抱き締めてくれた。
「言ってくれ、ソフィー。その、怖くなったら……」
「……大丈夫。エリオットさんの気が変わったら嫌だもの」
「変わらないよ、一生変わらない……悪いな、人間とは違って重たいんだ。俺達は」
「大丈夫、覚悟してるから……」
ちゅと、額に柔らかくキスをされた。そのまま見つめ合ってから、笑って服を脱ぎ合う。きっともう大丈夫だ。大丈夫。私の手を固く握り締め、エリオットが息を荒げた。
「ごめん……大丈夫か?」
「大丈夫」
「そうだよな? お前は絶対に言わないよな……怖くても、痛くても」
目尻に浮かんだ涙をそっと、優しく舐め取った。熱い、熱い。何もかもが熱い。また耳元で「ソフィー、愛してる」と呟く。怖くて、逃げ出しそうになってしまった。でも、奥で深く繫がれている。
「スープ、きっと冷めてるね?」
「あとで、温め直して食べればいいだろ……お前はな」
軽く笑って、何度も首筋や胸元にキスをしてきた。てんてんと、赤い跡がついていくのを苦しそうに、嬉しそうに笑って見つめている。あ、分かった。欲しい言葉が。
「大丈夫……貴方はあの、アーネストと一緒じゃない。同意の上だから、ねっ?」
「そうだな。ああ、そうだな……」
途中から甘くちかちかと、意識が点滅し出した。脳みそが溶けるかと思った。喉の奥が詰まって、息もままならない。勝手に涙が流れ落ちてゆく。
「エリオットさん……!!」
「っは、可愛い。ソフィー、ソフィー……」
何度も何度も名前を呼ばれたし、私も呼んでいた。甘く酔ってただただ、肩にしがみついて動いていると、私の腰に手を回して囁く。
「言い忘れていたんだが……」
「なに? んっ、あ」
「俺達、幻獣はな? 庇護対象を虜にするために、ある匂いを出しているんだ……」
「もっと、それ。んっ、早く言って欲しかったんだけど?」
「大丈夫。気にしなくてもいい、別にソフィーが淫乱ってわけじゃないから……」
耳元でひっそりと愉快そうに、そんなことを囁いてくる。何だか、酷く悔しい夜だった。