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元奴隷の少女と怪物男の血にまみれた日々  作者: 桐城シロウ
第二章 触れたい、暴きたい、その全部を
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18.彼女を死なせる覚悟と甘い夜

 





 家に帰ると、すぐにぎゅうっと強く抱き締められた。戸惑って、彼の黒いニットを握り締める。



「あの? エリオットさん?」

「もう帰ってこないかと思った、良かった……」



 じゃあ、引き止めたら良かったのに。深く溜め息を吐いて、改めて抱き締め返す。こういうところが本当にずるいな。



「ねえ、エリオットさん。好きよ、大好き」

「……前は頑なに、そう言ってくれなかったくせにな?」

「今は好きだもん。だから伝える」

「やめろ……分かって言ってるんだろ? お前のことだから」



 ふいに離れて、淋しそうな微笑みを浮かべる。そういえば、会った頃と比べ物にならないぐらい、表情が豊かになった。いつもいつも、憂鬱そうな顔をしていたのに。



「飯が出来てるぞ。食うだろ?」

「あ、うん。ありがとう」

「今日はお前の好きなチキンとトマトの……おい」



 背中にぎゅっと抱き付くと、嫌そうな声を出す。このまま、何もかもを忘れて私に溺れてくれたらいいのに。何も考えないで、私の傍にいて。



「ねえ、エリオットさん?」

「嫌な予感しかしないから逃げる……!!」

「逃がすわけないでしょ? 馬鹿じゃない?」

「ソフィー、手放したいんだ。手遅れになる前に」



 分かってる。分かってるけど、嬉しくない。最善なのかもしれないけど、幸福じゃない。彼がそっと、私の腕に手を添える。



「私の幸せはエリオットさんといることなの」

「数年も経てば、その気持ちも薄れる。だから……」



 こちらを振り返ったエリオットの手を掴み、じっと見上げる。強烈なエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、エリオットがたじろいだ。



「じゃあ、エリオットさんは? 薄れるの?」

「薄れは……しないだろうな。でも、いい。苦しくても何でも。死ななければそれでいい。あんな惨い死に方さえしなければ」

「でも!」

「頼む、ソフィー。許してくれ、頼む」

「許さない! 絶対に許さない!!」

「ソフィー」



 途方に暮れた声を出して、眉を下げている。ああ、好きなのに。誰かがエリオットさんと一緒に暮らして、この美しくて赤い瞳を見上げるかと思うと、吐きそうになった。傍にいてほしいだけなのに、ままならない。



「ねぇ、なんで私のためにって言って、私のことを傷付けるの?」

「死ぬよりかはましだから」

「死ぬ方がましだって、そう言ったら?」

「切りが無いな……とりあえず、コートを脱げ。もう」



 エリオットが両手を伸ばして、黒い丸ボタンを外した。俯いていると、軽く溜め息を吐いて一つずつ外していく。



「俺はお前のことが大事なんだ。これから先、ずっと守ると保証出来ない。もし、俺が風邪を引いたら? 怪我をしたら?」

「怪我はほら、結び付いてしまえばどうとでもなるでしょう?」

「……病気にはなる。完璧に不死身になれるわけじゃないんだ」

「でも、一緒にいたいの。可能性の話なんかしないで。だって、もしも私に帰る家が無かったとしたら?」

「それだって、可能性の話だろ? ……そりゃ、俺だってお前と一緒にいたいが」



 ここで言うべきか。怖かったけど、思い切って口に出してみる。



「貴方のお父さんに今日、会ったの」

「は? 俺の、父に? なんで」

「探しに来ていたのよ、貴方のこと。わざわざ足を運んで、この世界に」

「嘘だろ。信じられない……」

「腹違いの弟さんが亡くなったんですって。経営者がいないんですって!」

「……お前、それ、絶対にキレただろ」

「さぁね。知らない」



 私のコートを脱がせながら、また深く溜め息を吐く。でも、心なしか、その息は震えていた。見上げてみると、私のコートを腕にかけて複雑そうな顔をしている。



「今さら……弟が死んだからか」

「そう。戻らない? 死ぬほど腹が立つけどね」

「そこに俺の幸せがあるとは、到底思えないな……」



 そんなことを呟きながら、廊下の奥へと進んで、リビングのドアを開ける。後ろ手で、ちょっとだけ開けてくれているのが彼らしい。笑って、横にあるバスルームに入って蛇口をひねる。



(考える時間が必要だろうから……)



 きっと、今は彼の傍に居ない方がいい。動揺していないように見えて、すごく動揺しているから。石鹸を泡立てて、ゆっくりと手を洗っていたら、ドアを開けて「なぁ、ソフィー?」と話しかけてくる。



「なぁに? どうしたの」

「俺の父親は……その、瀕死とか?」

「元気そうに見えたけど? ぴちぴちだった」

「そうか。ならいい」



 ぱたんと、ドアが閉まる。それを見て、思わず溜め息を吐いてしまった。あんなのでも父親は父親だ。きっと、恋しいんだろう。泡だらけになった自分の手を見て、考え込む。



(私のお父さんは……まぁ、間抜けだしな。まだまだかかるかも?)



 ザイールが「どうする? 連絡しておく?」って聞いてくれたけど。断っておいた。でも、彼のことだからこっそり連絡してそうだ。



「許さないわよ、エリオットさん……許さないからね、絶対に。私は」

「怖いからやめろって……」

「いたの? 気付かなかった」



 ドアの隙間から、こっそりこちらを窺いながら、気まずそうな顔をする。



「まだ、その、かかるかなと思ってさ」

「……淋しかったんでしょ、絶対」

「いいや、別に」

「はい、嘘。分かるって言ってるのに」

「やっぱり敵わないな、お前には」



 ドアを完全に開けて、そこへもたれて笑う。黒いニットの上から、薄汚れてくたくたになった、ベージュのエプロンを着ていた。優しげに細められた真っ赤な瞳を見て、触れたくなる。ああ、何も気にせずに、私の傍にいてくれたらいいのに。石鹸の泡が所々残っていたけど、気にならなかった。手を濡らしたまま、彼の下へ行く。赤い瞳を丸くして、「どうしたんだ? ソフィー」と聞いてきた。



「ねぇ、私」

「……逃げた方がいいパターンだな、これは」

「好きなの。エリオットさんのことが。だから、」

「よし、逃げる! 悪いな、ソフィー」



 デニムのポケットから、またあの手錠を出そうとする。咄嗟に息を止めて、その手から手錠を奪った。動揺する彼の手首にそれを、がしゃんとはめる。くあぁっと、青い炎を吐いているドラゴンが現れた。



「あっ!?」

「絞め殺されたニワトリみたいな声だったわね、今の」

「おい……まさか、嘘だろう?」

「足。切断でもしてやろうかしら?」

「ソフィー」



 私が言い出したら聞かないことを知っているからか、ゆっくりと青ざめる。でも、分かっている筈だ。目的はそれじゃないって。自分のブラウスのボタンを外しながら、話しかける。



「ねぇ、エリオットさん? さっき、私のコートのボタンじゃなくて、このブラウスのボタンを外してくれたら良かったのに」

「……」

「逃げないの! だめ! こらっ!」



 手錠を付けたまま、くるりと無言で背を向ける。私がもたもたしていると、必死でドアを肩でこじ開けて、走って逃げていった。何よ、私にそうやって挑むつもりなの?



「いい度胸じゃない……!! 逃げ場なんてこれっぽちも無いのに!」

「頼む! ソフィー、来ないでくれ! ああ、くそ! 買うんじゃなかった、これ!!」

「買って良かったって言ってたじゃない、この間は!」

「鍵、鍵……!!」



 そうはさせるか。自分の部屋に入って、ライティングビューローの引き出しを開けようとしているエリオットに飛びついて、引き剥がす。



「わっ!? やめろ、離せよ!?」

「本気で抵抗するの、なんで!? それでも私の彼氏なの!?」

「つい数週間前なら喜んでいたところだが! 今はちっとも嬉しくないな!」

「なんで!? 前は思ってたんじゃないの!? 私とずっと一緒にいたいって、そう!」

「ああ、思っていたさ。強くな!」

「いたっ……」



 ぐっと、肩を掴まれた。じゃらりと鎖が音を立て、指先がブラウスに食い込む。見上げてみると、辛そうに息を荒げていた。「仕方が無いだろう?」と、そう言っているみたいだ。



「俺は……俺はあの時、確かにお前のことが好きだった! いいや、好きだと勘違いしていた」

「何を? 好きじゃないって? もう?」

「頼む、泣かないでくれ……違うんだ。俺はただ、お前を大事に出来ていなくて」

「だからあの時は、本当に好きじゃなかったって?」

「そうだ、生きているだけでいい……あの時は、傍で死んで欲しいと、そう思っていた。俺の傍で。どこへも行かず、ここで死んでくれたらいいのにって、そう思っていたんだ。最低だろ? 俺」

「最低じゃない……だって、私は今、そう考えているもの。エリオットさんと同じことを」



 滲み出てきた涙を拭って、睨みつける。エリオットが戸惑って、苦しそうな顔をしていた。



「ねぇ、帰りましょうよ? それが出来ないのなら、この世界で私と一緒に死んで。他の誰とも生きていかないで」

「ソフィー」

「帰りたくないんでしょう? でも、私もいるから。あっちの世界に帰って、デートしようよ……行きたいところ、やりたいこと。沢山あるのに?」



 彼の腕の中に入って、ぎゅっと抱き締める。手錠が邪魔だ。外してからの方が良かったかも。彼はただ黙って、私の背中に手を添えていた。



「馴染めると思うか? 俺」

「努力しましょ、私と一緒に。私だって、馴染める気がしないもの」

「なんでだよ……」

「こっちでの生活が長いから? もう腹が立つことがあっても、殴り飛ばせないし。暴力がコミュケーションってすっごく楽!」

「染まりすぎだろ……」

「ふふっ、でも、まぁ、いいんじゃない? 二人で努力しましょうよ、一緒に」

「話を、あっちと詰める必要がありそうだな……」



 そうだ。あの父親がまたエリオットを「いらない」と、そう言ってしまえば終わりだ。まだ危うい糸の上に、二人で立っている。でも、いつものことだった。それも。



「ねぇ、エリオットさん。約束したの、覚えてる?」

「覚えているが……どれだろうな? 沢山約束したからなぁ」

「そうね。私を守るために、腕を切り落とさないで。あと、朝ご飯に玉子は必須。買ってくるのは、苺かマーマレード」

「あと、しなびたレタスだけは絶対に出さないで、だったか?」

「そうね。あとは? 覚えてる?」

「あとは……そうだな。出来れば、夜寝る前に子守歌を歌って欲しい。手を繋いで欲しい。悪夢にうなされていたら、起こして欲しい」

「沢山覚えてくれてるじゃない。ありがとう」



 どこか楽しそうな様子で、彼が私のことをぎゅっと抱き締める。笑って、抱き締め返していた。強欲と言われようとも、望んだものは全て手に入れてしまいたい。



「あとはそうだな? 私を抱く気になったら、教えて欲しい。だったか? それもあったな……」

「残念。もう一つだけあるの。一番大事なやつが。当ててみて、エリオットさん」



 私の首筋にキスをしてきた彼をたしなめ、笑う。すると不思議そうな顔をして、顔を覗き込んできた。



「あと他に? あっ」

「思い出した?」

「……ちょうど、鍋に火をかけていることをな」

「ちょっと、大丈夫?」

「まぁ、スープだし。弱火だし大丈夫」

「で? 約束は?」

「まぁ、そう拗ねるなよ。ソフィー……あれだろ? 俺のことを好きになったら、一生傍にいてくれるってやつだろ?」

「そう、大正解よ。エリオットさん」



 どうやら彼はようやく、諦めて私と一緒にいることにしたらしい。するりとブラウスの中に手を入れ、背中を撫で上げ、熱っぽい瞳で見つめてくる。



「……いいの? 諦めてくれるの?」

「ああ。お前がしたいようにするのが一番だ」

「幸福の押し付け、やめてくれる?」

「……後悔するだろうな、俺は絶対に。でも、いい。お前がいいと言うのなら、もうそれでいい」



 全部を飲み干して、我慢すると言ってくれている。幻獣はみんなこうなんだろうか? よく分からない。でも、思わず息が止まるぐらい、その赤い瞳は熱を帯びていた。惹き込まれる、殺される。そんな、ありもしないことが頭を過ぎっていった。



「なぁ? もう、待てとは言わないよな?」

「言わない……」

「俺を襲う気だったのに。可愛いな、今さら照れていて」

「ちょっと、んぅっ」



 今まで抑えていたのが一気に爆発した、と言わんばかりの激しいキスをされていた。でも、私だってそうだ。ずっとずっと、心置きなく触れてみたかった。



「ソフィー、ソフィー……鍵は?」

「分かった、待ってて」



 切なく催促されて、急いで取り出す。真鍮製の鍵を使って開けると、がちゃりと音を立てて床にこぼれ落ちた。それを何となく見ていると、「ソフィー」とまた呟いて、私の顎をくっと持ち上げる。



「好きだよ、ごめん。覚悟を決めれば良かったな、死なせる覚悟を」

「したの? でも、私は出来ないからずっと。死なないでね、エリオットさん」

「死ぬもんか。一度結び付いたら、滅多なことでは死なない……」



 滅多なこと、か。彼の母親は白血病だった。病には勝てない。でも、そんなこと、気にしたって無駄だ。誰だってそうなんだから。いつかは突然死ぬ。エリオットが腰を掴んで、キスをしてきた。何度も何度も熱く、キスをしてくる。



「ねぇ、寝台に行かない?」

「……抱き上げるぞ、ソフィー」

「っふ、言わなくても大丈夫なのに。怖くないのに……」



 エリオットも軽く笑って、ひょいと私を横抱きにする。そして、私を寝台へと乱暴に下ろした。余裕が無い、随分と。少しだけ怖くなる。



「ああ、ごめんな。ソフィー……っ火を止めてくるから。ちょっとだけ待ってろ。くそ!!」

「っふ、ふふふふふ……!!」



 エプロンの紐を解いたエリオットが、心底悔しそうな顔で脱ぎ捨て、走り去って行く。少しだけほっとした。そうだ、この隙に。



(大丈夫、大丈夫……一瞬で終わるだろうから)



 そしてきっと、彼のことが嫌いになっても逃げ出せない。いい、大丈夫だ。いつか殺されても。両目を閉じて、ばくばくする胸元を押さえていると、ばたばたと慌ただしく戻ってきた。



「気は変わってないよな!?」

「変わってない、流石に」

「なら良かった……ソフィー」



 大事な小鳥を呼ぶみたいに、私の名前を優しく呟く。笑って両腕を広げると、まずは強く強く抱き締めてくれた。



「言ってくれ、ソフィー。その、怖くなったら……」

「……大丈夫。エリオットさんの気が変わったら嫌だもの」

「変わらないよ、一生変わらない……悪いな、人間とは違って重たいんだ。俺達は」

「大丈夫、覚悟してるから……」



 ちゅと、額に柔らかくキスをされた。そのまま見つめ合ってから、笑って服を脱ぎ合う。きっともう大丈夫だ。大丈夫。私の手を固く握り締め、エリオットが息を荒げた。



「ごめん……大丈夫か?」

「大丈夫」

「そうだよな? お前は絶対に言わないよな……怖くても、痛くても」



 目尻に浮かんだ涙をそっと、優しく舐め取った。熱い、熱い。何もかもが熱い。また耳元で「ソフィー、愛してる」と呟く。怖くて、逃げ出しそうになってしまった。でも、奥で深く繫がれている。



「スープ、きっと冷めてるね?」

「あとで、温め直して食べればいいだろ……お前はな」



 軽く笑って、何度も首筋や胸元にキスをしてきた。てんてんと、赤い跡がついていくのを苦しそうに、嬉しそうに笑って見つめている。あ、分かった。欲しい言葉が。



「大丈夫……貴方はあの、アーネストと一緒じゃない。同意の上だから、ねっ?」

「そうだな。ああ、そうだな……」



 途中から甘くちかちかと、意識が点滅し出した。脳みそが溶けるかと思った。喉の奥が詰まって、息もままならない。勝手に涙が流れ落ちてゆく。



「エリオットさん……!!」

「っは、可愛い。ソフィー、ソフィー……」



 何度も何度も名前を呼ばれたし、私も呼んでいた。甘く酔ってただただ、肩にしがみついて動いていると、私の腰に手を回して囁く。



「言い忘れていたんだが……」

「なに? んっ、あ」

「俺達、幻獣はな? 庇護対象を虜にするために、ある匂いを出しているんだ……」

「もっと、それ。んっ、早く言って欲しかったんだけど?」

「大丈夫。気にしなくてもいい、別にソフィーが淫乱ってわけじゃないから……」



 耳元でひっそりと愉快そうに、そんなことを囁いてくる。何だか、酷く悔しい夜だった。




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