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元奴隷の少女と怪物男の血にまみれた日々  作者: 桐城シロウ
第一章 それは歪んだ執着から始まって
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3.貴方は強くて脆い人

流血描写があります、ご注意下さい。

 














 どうして彼は私を連れて出るのだろう。



(家にいれば安全だって、そう言っていたのに)



 彼がとある男の首を締め上げている。眉一つ動かさず、そのまま首をごきっとへし折ってしまった。どうっと男が倒れ、絶命する。血の匂いに酔ったのかエリオットがふーっ、ふーっと獣のような呼吸を繰り返している。



「ちょっと……ちょっとだけ待ってくれ、ソフィー……今、頭を打ち付けて正気に戻るから」

「えっ? 頭を打ち付けて……?」



 言うが早いが、コンクリートの壁にがんっと自分の頭を打ち付ける。ぎりりと歯を食い縛って、足元に転がっている死体をぐしゃっと踏み潰した。内臓や血が飛び散って、生臭い匂いが漂う。彼は強い。強いが、脆い。弱い人だ。



「落ち着いて、エリオットさん……」

「やめろ、離れろ。()()()()()? 怖いんだ、俺は。お前に嫌われて逃げられるのが……」



 両手で黒髪頭を抱え、低く呻く。そのままべったりと血がこびりついた壁に頭を打ちつけ、それを何度も何度も繰り返す。いつものマントを被ったソフィーは深い溜め息を吐いて、息を吸い込んだ。こうするしかないから。



「今すぐにやめなさい、エリオット! もう正気に戻っているでしょう? それにね!? ()()()()()()怖くて心配なの! 私のためにやめて、もうそれ以上自分のことを傷付けないで!」



 ぴたりと彼の動きが止まって、こちらを振り返る。形の良い額からだらだらと赤い血が流れていた。そして呆然とした顔をしている。ああ、悔しい。



 今まで誰も貴方のことをそんな風にして、気にかけなかったのか。



 その衝動に身を任せて、エリオットを抱き締める。分かりにくい男、守ろうとするあまりに自分を傷付けて、正気を失ってそうやって女の子達は彼から逃げてゆく。「信用しきれない」と、皆馬鹿な顔をして彼から去ってゆく。そして、殺されたのだ。最もおぞましい方法で。



「大丈夫、大丈夫、エリオットさん……私だけは貴方を信じる。来年もそのまた来年も貴方の傍にいる。ずっとずっといる、もう怖くないからね? 私は、むぐっ」

「頼む。もうそれ以上、何も言わないでくれ…………ソフィー」



 最後の音は酷く優しかった。ぎゅうっと抱き締められ、血の匂いに顔を顰める。今日の彼は黒いタンクトップとデニム姿だが、寒くないんだろうか。吐く息は白く、こちらを見つめる瞳は真っ赤でストロベリーのよう。



「ソフィー、悪いな……だから俺はいつも死なせるのか」

「貴方のせいじゃなくて、あの子達の自業自得でしょう? 貴方はなんにも悪くない、大体ね? 他のやつらの甘言に惑わされて、」

「やめてくれ、まだ一週間と経ってないんだ……あの子が死んでから」



 一週間も経っていない? そうだ、軽く聞き流していたけど彼はそう言っていた。思わず立ち止まる。辺りには灰色のコンクリートの壁が張り巡らされ、足元には犬の骨やティッシュが散乱していた。



「……正確にはいつ死んだの?」

「五日前に死んだ。二日後、すぐにお前を迎え入れた……あの子は、お前が今寝起きしている部屋を使ってた。痕跡があるだろう?」



 その言葉に吐きそうになった。生々しかったからだ。



「じゃあ、あの可愛らしいベットカバーとかスリッパとかも全部全部?」

「そうだ……洗濯済みだから安心しろ。嫌なら買い替えに行くか? 金ならある」



 私の頭をぽんぽんと優しく撫で、寄り添ってくれる。それでも辺りを警戒しているのか、ひりつくような警戒心がほんのりと漂ってくる。浅く息を吸い込み、自分の胸元を押さえた。



「変な音がすると思ったら。……残ってたりして? 彼女」

「それはいいな、是非とも会いたい……会って謝りたい。俺のせいだ、全部全部。俺が彼女を死なせたんだ……」



 違うと言っているのに、頑なに認めようとしない。そのまま隅の方に積み上げられていた木箱に近寄り、がこんと蓋を開ける。



「全員殺した。出て来い。安全だ」

「エリオットさん、それだけはちょっと……」



 黒い鞄をしっかりと両腕に抱えた、博打師のような見た目の初老男が出てくる。ぎょろぎょろと神経質に黒い瞳を動かし、黄ばんだ歯を見せて笑った。この男は流石に黒いコートを着ている。



「流石は怪物だ、任せて良かった……」

「あちらの世界に戻っても上手く行く保証は無いがな……それでも逃げるのか、クリス」

「ああ、逃げる。この金持ってりゃ、何かと口を聞いて貰えるんだ。それに俺はあのブライアンの右腕だったんだぜ? あいつも俺だけは頼って、」

「御託はいい。さっさと出ろ。殺されるぞ?」

「へいへい、あ~あ……」



 今日の仕事はこの男の護衛だ。家にいたいと言ったのだが、聞き入れて貰えなかった。男と話しているエリオットを見つめ、考えを巡らせる。



(どちらかと言うと、私を置いていくのを怖がっていた。一体どうして? 安全だと言ったのは貴方なのに……)



 彼ははっきりと「ここにいれば誰も襲ってこない。誰も侵入出来ない」と言ったのだ。魔術でも張り巡らせているのかと聞けば黙っていた。嘘が吐けない男だった、彼は。



(一体、何を隠しているんだろう? 私に……何故私を買ったのかも聞いていない。足手まといになるだけなのに、この終わった世界では)



 男ならまだしも女だ。使い勝手が悪い。性欲処理に使う訳でもない。マントの前を閉じて黙々と歩き、何となく二人の会話に耳を澄ませる。



「協力者がいるんだったか? ゲートの近くまで護衛する予定だが……」

「ああ、そっからは流石に自分でやるよ。お前に全部全部任せてると、金がかかってしゃあねぇや」

「そうか……気をつけろよ、クリス。あの辺りは特に治安が悪い……」



 彼はそれっきり黙り込んでしまった。クリスという男も黙り込み、札束が詰まった黒い鞄を抱えて歩く。どこまでも灰色の壁が続いて、曲がって、腐乱死体を乗り越えてカラスの鳴き声に怯えて警戒して、襲ってきた男達を殺してゲートへと向かう。



 エリオットが遠くの方にそびえ立ったゲート────それは水晶のようなもので出来た、赤く煌く両開きの扉だった────を見つめ、ほっとしたように息を吐く。



「あれだな、相変わらずよく目立つ……じゃあな、クリス。死ぬなよ」

「へいへい、よくわかんねぇ男だな。お前は。ああ、そうだ。嬢ちゃんにこれをやろう。プレゼント」

「嫌な予感しかしないし、別に欲しくないんだけど……?」



 でも、貰えるのなら貰っておく。手を差し出すと、ころりんと真珠のイヤリングが転がり落ちてきた。可愛い。意外と趣味がいい。思わず声が弾んでしまう。



「いいの? 高いんじゃないの? これ! 綺麗……」

「俺の娘にやろうと思ってたものでね……へっ、突き返されちまった。いらないんだってよ、俺からのプレゼントは」

「そう。じゃ、有難く貰っておくわ……ありがとう、クリス」



 にっと嬉しそうに笑って、汚い手でこちらの頭を撫でる。やめて欲しい、汚い……。私が嫌な顔をしていることに気が付いたのか、彼がその手を掴んで振り払う。



「やめてくれ、俺のだ。そういうことはどっか他の女にするんだな」

「へいへい、あ~あ、うるせぇ……じゃあな、エリオット。お前もその嬢ちゃんをしっかり守れよ」

「ああ、言われなくても分かってる……ありがとう」



 優しく私の髪を梳かし、低く笑う。穏やかな笑みを浮かべているような気がして、その顔を見てみたかったが耐える。クリスがゴミの上をよろよろと歩き、不気味に赤く光っているゲートへと向かってゆく。



「あれが開くのは……一ヵ月後よね?」

「ああ、それまでこの近くで潜伏するらしい。行くぞ、ソフィー。また襲われたらたまらない……」



 月に一度、普通の世界へのゲートが開く。この終わった世界は人外者の王が伴侶を亡くした時に暴れて作ったものらしく、不安定だ。魔術が使えない場所もあるし、魔力が吸い取られる場所もある。そして人を食らう魔生物や金等級人外者が闊歩(かっぽ)し、普通の世界から逃れてきたマフィアや犯罪者がたむろして殺し合いを始める。



 ここは無法地帯、“終わった世界”と呼ばれる無法地帯。



(うっ、寒い……風が出てきたな)



 くしゅんとくしゃみをすると、エリオットがそっとこちらの手を握り締めてきた。温かい。いや、温かいというよりも熱い。体温が高いのか。



「寒くないの? エリオットさん? 冷えてきたのに……」

「日が暮れる前に帰ろう、ソフィー……しっかり掴まってろ」

「えっ!? ちょっ、また誰かきたの!?」



 言うが早いが彼がひょいっと私を抱き上げ、ゴミを踏みしめて走り出す。いくつものゴミ山や人の死体を乗り越えて走ってゆく彼の肩にしがみつき、上を見上げてみると、空の端の方が赤く染まっていた。夕方が深まるにつれて空気もきんと冷えてゆく。はっと息を吐き出すと、白く流れていった。彼の肩に掴まり、流れてゆく景色を見つめる。



「エリオットさん……疲れないの?」

「ああ、疲れない。俺は疲れない」



 不思議な言葉だった。まるで自分だけは違うのだと、そう言わんばかりに。少しだけ迷ってからエリオットの熱い肩に顔を埋め、しがみついた。全速力で走っているが呼吸一つ乱さない。それどころか平然と喋っている。



「ねぇ、エリオットさん……みんな、無神経に貴方のことを怪物って言うけど。嫌ならそう言えばいいんじゃない?」

「嫌じゃない。お前がいるから、お前が全部理解してくれるから、ソフィー……」



 そんな風に呟かれると、まるで自分がとんでもなく貴重で尊いものに思えてくる。彼はいつもそうだった。途轍もなく大事に私の名前を呟く。



(お母さんが付けてくれた名前だから……良かった)



 痛みに目を閉じ、彼の熱い肩に頬擦りをして眠る。きっと疲れているのがばれたんだろう。四時間ほど歩いて歩いて、襲いかかってくる男達から逃げ惑っていたから。



「ありがとう、エリオットさん……おやすみ、少しだけ眠るわ」

「ああ。お前を太らせなきゃ駄目だからな……昨日たらふく食わせたのに。無駄だったな、今度ポテトチップスでも買ってくるか……」



 やけに饒舌(じょうぜつ)だ。そして心なしか嬉しそう。貰ったイヤリングのこと、名も知らぬ男達の断末魔を思い返して眠った。今日は本当に、色んなことがあった。



(あ……誰かの悲鳴が聞こえる。でも大丈夫、エリオットさんが守ってくれるから……)



 彼がいるのなら大丈夫。たとえあの悲鳴が誰かの断末魔だったとしても。不思議な安心感に包まれて眠った。眠りに落ちる直前に見たものは、ゴミが高く積み上げられている街の空の端が赤く染まってゆく光景だった。

















 家に帰ってドアを開け、ソフィーを降ろす。彼女はむにゃむにゃと眠たそうに目元を擦り、エメラルドグリーンの瞳で見上げてきた。



「エリオットさん? ありがとう、ごめんさい……」

「風呂を沸かすから入れ。その間に何か作っておく」

「ん、ありがとうございます……」



 寝ぼけているのか廊下をとことこと歩き出し、自分の部屋のドアを開けて入ってゆく。それを見てどっと力が抜けた。良かった、今日も生きていた。



(あの時……弾丸が頬を掠っていたな。ソフィーが死ぬかと思った……)



 強がっているのか、ソフィーは獰猛に笑って「かすり傷だし、大したことないわ。相手の男も貴方が殺してくれたし?」と言っていた。強がりでないといいが、本当に。自分の手を見つめると、血がこびりついて茶色くひび割れていた。ぎゅっと握り締め、考え込む。



「ソフィー……お前は、一体どれだけ」



 俺の傍にいてくれるんだろう。彼女が死んで、部屋の隅で膝を抱えて泣く日が来るのかと思うと胸が苦しかった。耐えれるのだろうか、俺は。その苦しみに。そう考えていると、きいっと音を立ててドアが開く。不思議そうな表情のソフィーがひょっこりと顔を出し、こちらへとやってくる。



「エリオットさん? そこで何をしているの? 先お風呂入ってくる?」

「いや……ああ、つけたんだな。それ」

「うん、折角貰ったものだし。どう? 似合う?」



 白い丸襟付きの青いワンピースを着て、先程貰った真珠のイヤリングをつけて笑う。彼女の茶髪が揺れ動き、それを見て思わず触れたくなってしまう。しかし、苛立ちが勝る。手を伸ばしてそのイヤリングを奪い取った。



「ああ、よく似合っている。風呂入ってこい」

「まだ沸いてないでしょ、沸かしてくる。あと何で取ったの? 返してくれない?」



 ころころと愉快そうに笑って、そのエメラルドグリーンの瞳を細める。柔らかな茶髪も細すぎる体も眩しくて、ぼんやりと彼女を見つめていた。ぎゅっとイヤリングを握り締める。血がつくかもしれないが、どうだって良かった。何もかも。



「嫌だ。後で返す……俺も着替えてくる」

「もしかして嫉妬? 大丈夫。エリオットさんが一番好きだから」

「それは光栄だな、ありがとう。風呂を沸かして入ってこい」

「拗ねなくてもいいのに。あからさまよね、本当」

「うるさい、十七歳のガキが」



 言い捨てて、自分の部屋のドアを開けて入る。ぷんと埃の匂いが漂い、散乱した服を乗り越えてライティングビューローに辿り着く。その扉を前に倒して、滑らかな木肌のデスクを出した。そこに先程のイヤリングを置くと、僅かにことんと音が鳴る。



「俺も、買って贈った方がいいんだろうな……」



 頼まれていないが、そんなことを考えて呟く。俺は一体どうすればいいんだろう。



(彼女を失った時のダメージが大きい……このままだと)



 このままだと壊れてしまう、いつか。俺が。彼女が死ぬことしか考えられない、恐ろしい。それでも今日も彼女は笑っている。楽しそうに、何の不安もなく。それが恐ろしかった。いつかお前も俺を置いて行くのにどうしてだと声を荒げ、掴みかかりたくなった。



「正気を……保たなくては」



 服を脱いで、Tシャツとスウェットのズボンを履く。手を洗った方が良かったことに気が付いたが、面倒になってドアを開けてリビングへと向かう。彼女は早速ソファーで寝そべり、本を片手にばりばりとビスケットを食べていた。俺が買い与えたバターと蜂蜜のビスケットを齧っている。



「あ、エリオットさん。エリオットさんも食べる? あとお風呂沸かしといたから~」

「……いい。いらない。手を洗ってくる……」

「はーい、じゃ。残しとくね~」



 何故、あんなにも寛げるんだろう……。何だかがっくりときて、バスルームへと向かう。白い壁にタイル床のバスルームは手狭で、薄汚れた便器と洗面台とバスタブが置いてあった。ごぼごぼと石鹸の泡が流れてゆくのを見つめ、また考え込む。距離を取りたいのか、近付きたいのか。それすらもよく分からなくて迷っている。



「飯食って。寝るか……」













 お風呂に入って、彼が作ってくれた骨付き羊肉とサラダとピラフを食べて寝台へと寝そべる。それでも何だか怖くて眠れなかった。昼間に聞いた銃声と断末魔が()()()()と脳みそを叩き、顔を火照らせてゆく。そして最も恐ろしいのはこの部屋が。そこまでを考えたところで、きいとドアが開くような音が鳴った。



 ばくばくと心臓が鳴って、起き上がって見てみたがドアは開いていない。何の音もしないし、何の変化も無い。ああ、でも。いるのなら言いたい、どうして彼のことを裏切ったのかって。



「ねぇ? どうして? マリーだっけ、貴女の名前……」



 馬鹿馬鹿しいかもしれない。でも、真っ暗闇の部屋に向かって話しかける。セミダブルの寝台には黄色い花柄のベットカバーがかけられ、彼の部屋のと同じライティングビューローにはクマのぬいぐるみやウサギのぬいぐるみが所狭しと置いてあった。



 可愛い棚には恋愛小説と日記。でも大したことは書いてなかったし、三日と続いてなかった。その丸っこい文字から人柄が読み取れる。



「ねぇ? 後悔しているんでしょう……? だからここにいる。天国にも行かずにここにいる。どうしてエリオットさんのことを裏切ったの? 貴女のせいで彼は、ちっとも私の言葉を信じてくれない……!!」




 返事は無い。風も揺らがない。真っ暗な部屋の中で俯いた。彼は一体、どれだけ傷付いてきたんだろう。今まで大事に大事に守ってきた少女が自分から逃げて、真夜中に家を抜け出して殺される。男達に犯されて殺されてゆく少女を見て、一番悲鳴を上げたかったのは彼でしょうに。許せない、どうしたって。



「信じれば良かったのに……分かるでしょう? 彼が優しい人だってことを。一緒に暮らしていたらそれぐらい……」



 ぎしりと、どこかで何かが鳴った。鳥肌が立つ。どうしよう、心細い。逃げようか? 血塗れの少女が後ろに立って、両手を伸ばしているような気がして背筋が寒くなった。恐ろしくなって寝台に寝そべる。でも、何も無かった。暗闇だけが広がっている。



「私は馬鹿じゃないの、貴女みたいに……私は彼の言葉を信じる。守る、貴女みたいな人でなしじゃない……」



 そうだ、人でなしじゃない。一番怖かったのは彼だ。守りたくて守りたくて仕方が無かったのに。それを全部全部、裏切って死んでいった。同情の余地は無い。怒りだけが腹の底でふつふつと渦巻いている。喉が熱かった、酷く。



「何で裏切ったの? 何で逃げたの? ばか、ばか……」



 ずしりと足元に猫が乗ってきた……ような気がする。いや、でも少女が寝台に手をかけたのかもしれない。思わず飛び起きて、腕を伸ばす。何も無い。さらりとした綿の生地があるだけだった。



「もう限界……!! エリオットさんのところに行こう」



 スリッパに足を入れて、だっと走ってドアを開ける。そこには真っ暗な廊下が広がっていた。誰かがそこに立っているような気がして、震える体で壁を伝ってエリオットの部屋のドアを叩いた。がちゃんとドアを開けて入ると、エリオットの声が響いてくる。



「どうした? 敵襲か?」

「あっ! 違うの、落ち着いて……銃を置いて」



 奪われたり暴発したら嫌だと言って、普段は銃を持ち歩いていないが。寝台の近くに置いて眠っているらしく、私に銃口を向けていた。ほっと息を吐いて下ろし、首を傾げる。



「じゃあ、どうした? そんなに慌てて。虫でも出たのか」

「出たのは多分、幽霊だと思う……怖かった」



 彼は寝台にランプを持ち込んで地図を見ていたらしく、黒縁眼鏡をかけていた。黒髪と赤い瞳の顔立ちによく合っている。酷くほっとして、そのまま駆け足で近寄った。



「良かった! ほっとした……私もここに寝転んでもいい?」

「……別に構わないが。自分の部屋に行って寝ろよ? ソフィー」

「ん~、とりあえずここに寝かせて……私の手を握ってくれる? 怖かった」



 柔らかな寝台に寝そべって、彼の膝にしがみつく。手を握る前に頭を撫でてくれた。優しくそっと、傷ついた子猫を撫でるかのように撫でてくれる。手を伸ばして彼の毛布を握り締め、その温かさに息を深く吸い込む。



「怖かった……ありがとう、エリオットさん。嬉しい……」

「お前に怖いものがあるとは意外だ……出てきたのは誰だったんだろうな? また、ああやって俺に謝罪を繰り返すのかそれとも」



 そこで黙り込み、私の茶髪頭を撫でてくれる。ああ、良かった。ほっとした。もう何も怖くなんて無い。



「ここで寝てもいい? 私も。何をされても文句は言わないから。お願い……」

「寝袋を持ってこよう……それかお前の部屋で俺が寝る。いいか? それでも」

「嫌。今日は一人で寝たくない……寝袋を持って来てくれる?」

「分かった、そうしよう。どこにあったか……」



 彼がもう一度私の頭をぐしゃっと撫でてから起き上がって、クローゼットの方へ向かう。ごそごそと何かを探っている音を聞いていると、眠たくなってきた。彼の匂いがする寝台に潜り込み、ふすんと息を吐く。枕が大きくて柔らかくて気持ちがいい。ちょっとだけ汗臭いけど。



(うーん、男の人特有の匂いだな……お父さんを思い出すな、ちょっとだけ)



 どうしているんだろう、今。きっと血眼で私のことを探している。でも、きっと見つけ出してくれる。



(それまで待っていよう、ここで……彼と)



 両目を閉じてすうすうと息を吸って吐いてとしていると、彼がやって来た。頭上で深い溜め息を吐き、さらりと私の額から茶髪を払い落とす。



「おやすみ、ソフィー……俺は床で寝るよ。何かあったら起こせ。また明日」

「ありがとう、エリオットさん。おやすみなさい……」

「……ああ、おやすみ。また明日」



 真っ暗闇の寒い冬の夜で、一本の暖かい蝋燭が揺らいでいるかのような優しさだった。その低くて無骨な声に酔い痴れ、むにゃりと頬を緩める。手を無意識に伸ばすと、そっと握ってくれた。それだけで先程までの恐怖が抜け落ち、深い眠りへと誘われてゆく(いざな)



「おやすみなさい、エリオットさん。また明日……」





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