プロローグ
「お前はきっと、生まれてきちゃいけない人間だったんだ。俺にはもう無理だ、許せ」
俺の父親が放った言葉だ。鋭く、今でもこの胸に突き刺さっている。そこからの日々は地獄だった。運が良いだなんて口が裂けても言えない。
「……ああ、ようこそ。ちょうど良い奴隷が入荷していますよ。好きでしょう、そういうの。お客様は」
「無駄口を叩いてないで案内しろよ、ジャスパー。くだらない」
揺れる黒髪に赤い瞳を持った男が吐き捨て、長い廊下を歩く。床には擦り切れたカーペットが敷いてあった。吸っていた煙草を灰皿に押し付け、そのまま捻じ込んで放置する。すると背後で黒服姿の男が笑った。
「そのまま真っ直ぐですよ、エリオット様。いかにも貴方が好きそうな……いや、今回はちょっと違うかな。毛色の変わったおかしな女だ、キチガイだ」
その言葉に眉を顰める。珍しい、この男の口調に僅かな苛立ちが混じっている。立ち止まって振り返ってみると、そこには黒髪に黒目の美しい男が佇んでいた。ジャスパーは優雅に腰を折って、一礼する。
「どうぞご確認ください、エリオット様。中にいるのは世にも珍しい、不可思議な女です。何でも一目見ただけでその人物の性格から何から何まで分かるとか……」
見ただけで性格が分かる、か。黒いタンクトップにデニムを履き、腕から首にかけてドラゴンのタトゥーを施したエリオットが唾を飲み込む。そして、真っ赤な瞳でその扉を睨みつけた。そんなエリオットを押しのけ、ジャスパーが鍵束をじゃらりと取り出す。
「どうにもあの目は気に食わない……潰してしまおうかと思ったが貴方の不興を買ってしまう。だから傷一つ付けずにそのままに。ああ、勿論。指一本触れていませんとも。一応処女膜は確認しましたが」
「相変わらず反吐が出るような悪趣味さだ。俺の趣味が疑われる」
「別にいいでしょう、そんなこと。どうでもいい、ここにいるのは貴方と俺の二人だけなんですから」
扉を開け、真っ暗闇の部屋に入る。冷たい空気とカビ臭い匂いが流れ込んでくる中で、それは用心深くこちらを窺っていた。細い手足とじゃらりと鎖が鳴る音。無感情に見下ろし、ふと先程の言葉を思い出す。
「……お前。性格が分かるんだって? なら、俺が正気なのも分かるだろう?」
「ええ、勿論。分かるわ、エリオットさん?」
やや低く澄んだ声だった。少女らしい高さは残しつつも深い響きが宿る。少女は喉を鳴らして笑うと、真っ直ぐにこちらを射抜いてきた。ぎらりと暗闇の中でエメラルドのようなグリーンの瞳が煌き、細い茶髪が揺れる。
「私を買って、エリオットさん……私は絶対に貴方を傷付けたりしない、失望したりしない。だって分かるもの、貴方が優しくて真面目な人だってことを」
「ほら、キチガイでしょう? この女は。真面目だって? 優しいだって? まさかこのエリオット様を捕まえて」
「黙れ、それ以上ホラを吹き込むな。殺すぞ」
何回目だろう、このやり取りも。
(この少女も死んでゆくというのに、どうして何回も何回も繰り返してしまうのか)
許して欲しい、助けて欲しい。俺の愚かさと弱さを。こうでもしないと生きていけないのだ。そんな感情を込め、少女に手を伸ばした。少女は驚くような顔をした後、おそるおそる俺の手を握る。細い手だった、すぐにでも折れてしまいそうな。そして奴隷らしく、ぼろぼろの薄汚れた白い服を着ている。
「大丈夫……そう怖がらなくても、私は貴方の味方だし……貴方以外の言葉は信じない。誰にも騙されたりなどしない」
「驚いたな、これはこれは……」
「ジャスパー、いくらだ? この女は」
嘘かもしれない、でもどうだっていい。
「この終わった世界で俺と一緒に生きていくか、ええっと。名前は?」
「ソフィー。どうぞよろしく、エリオットさん。今日から貴方が私のご主人様ね?」
ソフィー。その優しい響きに赤い瞳を瞠って、エリオットが皮肉めいた笑みを浮かべる。ああ、何だっていい。正気を保つためにはこの少女が必要なんだ。
「ああ、よろしく。ソフィー……お前は信じないだろうが、俺は命を賭けてお前のことを守ってみせる……誰が襲ってこようとも」
「勿論信じるわ、エリオットさん。貴方は怖がりなんだね」
そう呟き、俺の手の甲を擦る。胸の奥が詰まって、歯の間から微かな呻き声を漏らしてしまった。まさか本当に? このソフィーという少女は俺の全てを見れるのか。何もかもを見通すような、不思議なエメラルドグリーンの瞳がこちらを見上げていた。
「貴方は私のことを怖がらない。……それで十分。十分過ぎるほどだわ」
「一緒に。帰るか、ソフィー……」
彼女の細い体を抱き上げると、その拍子に鎖がじゃらりと鳴った。その煩わしさに舌打ちをして、鈍く輝く太い鎖をがっと蹴り飛ばす。脆くもないのにぶちんと切れ、ジャスパーが手を叩いた。
「流石は怪物と称えられる男……その少女にも嘘を吐いて。何度も何度もそうやって殺して、」
「黙りなさい、ジャスパー。お前の方こそ嘘を吐いているじゃないの、見れば分かるわ。見ればね」
腕の中のソフィーが歯軋りをして、ぎっとジャスパーを睨みつける。そうか、嘘も分かるか。俺にとっては好都合だ。
「行こう、ソフィー。……お前が分かってくれるのなら。それで俺も十分だ。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして。エリオットさん。だって事実なんだもの、貴方が優しい人だってことは」
どうしてこんなにもその言葉が染みるのだろう。そして腕に抱えていると、酷くしっくりとくる。まるで何百年も前から少女と共にいたかのように。彼女を大事に抱え直して、外へと一歩踏み出した。
「さぁ、始めようか。……これからは頭のおかしな連中が死ぬほど襲ってくる。耐えろよ、ソフィー。出来る限り守ってやるがな」
「そんなのはもう慣れっこよ、エリオットさん。行きましょう、きっと貴方と私なら大丈夫。何があってもね」