蓮の花舞う狭間にて
夏休みも終わる頃。日差しはいまだ夏真っ盛りだが、昼間から遊ぶ子供たちの姿は見られなくなった。季節は、ほんの少しだけ秋に近づいたようだ。
翠蓮さんと出会ったあの川への道を歩いていると、見知った顔のひとが向こうからやって来た。
「あ、朔くん!」
「……覚えているのか」
「うん。あと、朔くんって五十鈴の家族だよね?」
「な、なぜそれを知っているんだ?」
この前会った時はクールに見えたけど、朔くんは案外気持ちが顔に出るタイプみたいだ。ちょっとあわてて、まばたきを繰り返す様子は、意外と幼げだった。
「あたし、五十鈴と高校まで一緒だったから。この前は気づかなかったけど、五十鈴がよく話してたの思い出したんだ」
「そうか、五十鈴の同級生だったのか」
五十鈴の名前を出すと、朔くんの表情はとても柔らかいものになった。話を聞いていると年は近いようなのに、彼女は「家族」としか言わなかった。何か事情はありそうだけど、いい関係みたいだ。
「そうだ。話がそれちゃったけど、ちょっと用事があって。朔くん、どうやったら翠蓮さんに会えるか知ってる?」
「ちょうど良かったな。翠蓮さんに、お前を呼んできてほしいと頼まれたところだ」
翠蓮さんに会おうと思ったものの、まさか川に飛び込む訳にもいかず困っていたところだ。ここで朔くんと会えて良かった。
他愛ない話をしながら歩くと、川にはすぐに着いた。朔くんについていくと、翠蓮さんの祠の前で立ち止まる。こじんまりとしているが、そこには個包装のお菓子が小さな山を築いていた。
「翠蓮さん、連れて来ましたよ」
「うむ。世話をかけたな、朔」
「いえ。これが俺の役目ですから」
本当にあたしを迎えに来ただけらしく、朔くんはそこできびすを返す。去っていく背中にお礼を言うと、片手をあげてこたえてくれた。
「おいで、澪羅」
翠蓮さんの呼ぶ声がすると、不思議な感覚がして思わず目をつむる。その一瞬の間に、あたしはどうやら『狭間』に招き入れられたようだ。
ゆらゆらと揺れる、明るい光がキラキラと差し込む水中の景色。時折、ピンクの睡蓮の花びらが流れていく。
「翠蓮さん!」
子供みたいに駆け寄っていくあたしに、翠蓮さんは大人びたほほえみを見せた。
「驚いたのう。まさかおぬしが、狭間でのことまで覚えておるとは思わなんだ」
「あー……。実は、ところどころしか覚えてなかったんだ。でも、これ見たら思い出したの」
ひらひらと片手を振って、スマホを示す。端末にメモをとっていたおかげで、曖昧だった記憶がはっきりしたのだ。
「忘れないって宣言したのに、情けないんだけど……」
「よいよい、気にせぬよ。ふふ。こうして会える人の子と知り合えたのは、いつ振りじゃろうな」
「また会いに来るよ! 翠蓮さんに聞きたいことも、話したいことも、たくさんあるから」
この場所で遊ぶ子供たちを守るために、ここから離れられない翠蓮さんにしてあげられることは、これくらいだろう。だからこうして一緒にいる間を、楽しい時間にしたい。
ほんの一瞬、その翡翠の瞳を過った感情にあたしは気づいてしまった。わずかな寂しさと懐かしさ、そしてそれより強い喜びに。
「うむ。楽しみにしておるよ」
水流に、翠蓮さんの綺麗な魚みたいな着物がゆらゆらたゆたう。
翡翠色の瞳と目が合うと、どちらからともなく笑顔が浮かぶ。
「それにね、あたし来年には二十歳になるんだよ。そしたら、翠蓮さんたちの飲み会にも、混ぜてくれる?」
「もちろんよいぞ。かつて助けた子と酒を酌み交わせるようになるとは、感慨深いものだの」
「やった! じゃあその日には呼んでね。約束だよ」
「うむ、わかっておる」
翠蓮さんは繰り返しうなずいて、子供にするようにあたしの頭をなでた。長生きの翠蓮さんからすれば当たり前なのだろうけど、はた目にはちぐはぐな光景。
「澪羅は本当に愛いのう。わしのものにしてしまいたい」
「……ダメだよ。あたし翠蓮さんのおかげで、やってみたいことみつけたんだから」
「はて?」
「地元に伝わる、民俗学の話を集めるの。そしてそれを、次に受け継いでいくこと。できればたくさんの人が、触れてくれる形で」
そうすれば、翠蓮さんのことを知る人ももっと増えるかもしれない。
「……そうか。愛おしい子よ、おぬしがどれほど遠くにいようと、わしが守ってやろう」
あたしの頬に手を添えた翠蓮さんの瞳が、神秘的に煌めく。そしてあたしの手に、睡蓮の花びらを握らせた。
「これって?」
「お守りじゃ。澪羅よ、いつでもおいで。いつでも待っておるからの。わしに会いたい時には、祠の前でわしの名を呼ぶとよい」
「うん」
水の流れに手放さないよう、あたしは花びらをぎゅっと握りしめたのだった。