流れる蓮花の神隠し
照りつける太陽が傾く時間帯になっても、蝉の鳴き声は止まない。川のせせらぎもあわさって二重奏の中、あたしは川岸で汗をぬぐう。
今年の夏はやけに長い。入学したばかりの大学の長い休みと、毎年変わらない夏の景色がそう思わせるのかもしれない。
水遊びをしていた子供たちも家に帰り、どこか寂しげな夕景。人目を気にする必要もなくなったからと、冷たい水に足をつける。
子供の頃にはあたしも、こうしてこの川で友達と遊んだものだ。あの頃の夏休みは、今とは違う意味で長かった。ずっと続く夏を遊びつくして、駆け抜けた。
「懐かしいな……」
それは昔のことだけど、確かに在った。川の流れのように、戻らないけどつながっている。
夏の記憶の残像を追うように、少し川の中ほどへ向かう。肌で感じる水の流れが心地いい。
深呼吸を一つ。あたしは川岸へと引き返そうとした。もう子供ではないけれど、日が暮れる前に帰らなくては。なぜだかそんな気分になる、遅い夕暮れ。
ずるり、苔むした川底の石でサンダルが滑った。体勢が崩れて、視界いっぱいに黄昏色。蝉の鳴き声も一瞬で消え失せた。
後ろは深い箇所だっただろうか。下手をすれば、このまま石にぶつかってーー
「……っ!」
水音が響いて、世界が青に染め上げられる。透明な泡が昇っていき、水流に花びらが舞う。
思わず目を閉じることも忘れたあたしが見たのは、そんなありえない風景だった。
「なに、ここ……」
呟いた声と共に、気泡が生まれる。視線で追えば、煌めく水面に向かっていくのがわかった。けれどこの川には、こんなに深い場所なんてなかったはずだ。それに、水中なのになぜか呼吸ができる。
「狭間じゃよ。忘れたか?」
「え?」
唐突に語りかけてくる声。まだ性別のはっきりしない、幼い子供のものだ。
振り返ると、その印象通りの子供がいた。あどけない顔に、深い緑の瞳。肩までのこげ茶の髪は一つにくくられている。青い浴衣の袖はひらひらと華やかで、金魚のヒレを思わせる。
「人の子は、忘れっぽいからのう。寂しいことじゃが、仕方がない。幼き日の不思議な出来事など、夢と同じか」
そう言われて、ふと思い当たることがあった。
「もしかして、前にもこうして助けてくれた?」
昔も川で遊んでいて、さっきと同じように足を滑らせたことがある。その時は、理由もわからないまま助かっていた。友人からも、似た話を何度か聞いた気がする。
「うむ。わしは、ここで遊ぶ子らを護る者。愛おしい子よ、久しいな」
「うん。助けてくれて、ありがとう」
幼い外見だが、まるで長く生きてきたような風格がある。だからか、頬に手をそえて微笑まれても、あたしの方が子供みたいにこくんとうなずいてしまう。
ひんやりした温度の手は、火照った頬に心地よかった。
「ふふ、これも何かの縁じゃ。名を教えておくれ」
「澪羅」
「澪羅というのか。うむ、覚えておこう」
表情は素直な子供のようなのに、声色は大人びている。揺らぐ水中で、こげ茶の髪がゆらゆら揺れる。
「あなたは……?」
「わしの名は翠蓮じゃ。すい、の字はみどりとも読むものじゃな」
「翡翠の翠の字?」
言われてみると、目の前の瞳が翡翠の色に見える。とろんとした優しげな緑でありながら、透き通るように綺麗なのだ。
「どれ、浮世まで送ってやろう。澪羅、おいで」
「待って、翠蓮さん」
「ん?」
振り向いて、翠蓮さんはことりと首をかしげる。水流に舞う花びらは、よく見れば睡蓮のもの。鮮やかな赤みがかったピンクに彩られる、翠蓮さんまでもが幻想的だ。
「あたし、民俗学研究サークルに入ってて、いろいろ調べてるの。よかったら、翠蓮さんの話も聞かせてくれない?」
民俗学研究サークルに入っているのは事実だ。前から興味があった。
しかしそれだけでなく、このままだとあたしを送り届けた後に、翠蓮さんがいなくなってしまう気がしたのだった。過去に置いてきた思い出のように、また忘れてしまうと感じる。
「民俗学、とはどのようなものかの?」
「えっと、うちでは特に、神様や妖怪とかの地域の伝承を調べてるよ。サークルだから、そんなに本格的じゃないけど……」
「なるほどな。それならば、この年寄りの話でも役に立つだろうな」
「翠蓮さんって、けっこう長生き?」
「人間に比べればな。数えるのはやめて久しいが。ではゆこうか、澪羅」
あたしよりも小さな手をとる。ぎゅっと握られて、年下の子と歩いている感覚になる。
だが、この幻想的な空間を迷わず進む翠蓮さんに、あたしはつい、すがるように手を握り返した。それに気づいた翠蓮さんが、大人びた表情でくすくす笑う。
「最近の子は、見た目より幼いのじゃな。それはそれで愛いがの。……神隠しをして、わしのものにしたくなってしまう」
「……神隠し、するの?」
「せぬよ。感情より優先すべきものがあるからの。子供らの守護が、わしの役目じゃ。おぬしも愛おしい子供の一人じゃよ、澪羅」
まっすぐあたしを見つめる翠蓮さんは、凛としていた。強い意思と、優しげな表情を見せられると、理屈ではなく翠蓮さんは年長者なのだとわかった。
手を引かれて、少しずつ水面へと浮上していく。翠蓮さんの浴衣の袖と裾が揺れて、まるで泳いでいるように見える。銀糸があしらわれているようで、光を反射してちらちら輝く。
流れていく睡蓮の花びらを横目に、水面にたどりつくというところで、白い光で何も見えなくなる。
いつのまにか閉じていた目を開けると、あたしは川岸に立っていた。隣には、まだ翠蓮さんがいる。
「おや、すっかり暗くなってしまったの。早く帰らねば、怒られてしまうか?」
「ううん、大丈夫。あたしもう、子供じゃないし」
そこでふと、どこからか羽音が聞こえた。顔を上げると、夜の闇に溶け込む紺色の着物姿のひとが、空から降りてきた。からん、と下駄の音が響く。
そしてもうひとり、物静かな青年。無表情で冷たそうな印象だが、胸元に何本かラムネの瓶を抱えている。
「やあ、翠蓮さん。いい夜だね。酒盛りにはちょうどいい季節だ」
「おお、今宵じゃったか。すっかり忘れておったの。澪羅も加わるか?」
「うん」
「酒盛りは賑やかなほどよいからの。しかし澪羅がおるのならば、場所は狭間に移さなくては」
確かに、ここは暗い。さきほどまで翠蓮さんといた『狭間』は、水面から陽の光が差し込んでいて明るかった。
だが、それだけだろうかと首をかしげるあたしに、翠蓮さんは説明してくれた。
「わしらの姿は、人には視えぬからのう。狭間の方がよいじゃろうな」
「そっか。ありがとう」
そうして、狭間。いつのまにか、ちゃぶ台が現れている。数本の一升瓶と、コップと盃。お皿の上にはつまみとしてだろうか、鮎の塩焼きが用意されていた。
「君もお酒でいいのかな?」
「いえっ、まだ未成年なので……」
「それならば、こっちのラムネにしろ。決まりごとは、守るべきものだからな」
そう言ってラムネを渡してくれた彼は、宮守 朔と名乗った。とても真面目な性格らしい。年はあたしと同じくらいに見える。
「これ、よかったら君もどうぞ。僕は駄菓子屋を営んでいてね。翠蓮さんはお得意様なんだ」
と、いろいろなお菓子をわけてくれたのは薄氷さん。朔くんと違って、愛想のいい笑みを浮かべている。
「どれ、わしの話を聞きたいのじゃったな。さて、どこから話したものかのう。まず、わしはこの川の化身じゃ。本来の姿は龍じゃな」
「日本人は古来から、山や川などの水場にと、あらゆる自然に龍や蛇の姿を重ねて見ていたのさ。翠蓮さんも、その一例だね」
聞きもらさないように集中しつつ、スマホでメモをとる。ポケットに入っていたのに、さっきはじめて気づいたのだった。当然のように電波は圏外だが、使えてよかった。
興味深そうに、翠蓮さんは薄い板を見つめている。
「普段は、池のある公園におるの。この川から水を引いておるし、わしを祀る祠もある」
「もしかして、お菓子をお供えすると子供を守ってくれるっていう、あの?」
「うむ、じゃから夏にはこの辺りにおる。ここで遊ぶ子供らがかわいくての。何かあるたび守ってやっていたら、守り神になっておった」
この川は、特に夏になると地元の子供たちや遠方からの釣り客で賑わう。しかしその割に水難事故の話を聞かなかったのは、翠蓮さんがいてくれたからだ。さっき、あたしを助けてくれたように。
「郷土資料館にも行くといい。翠蓮さんの伝承が書かれた本がある」
「翠蓮さんの話と比べてもおもしろいかもね。まあ、この町の伝承ならば、かなり正確だと思うけど」
何か含みのある薄氷さんの言葉がひっかかったが、それよりも一升瓶に手を伸ばす翠蓮さんに目を奪われた。一瞬ぎょっとするが、幼い外見でも川の守り神だ。お酒を飲んでも不思議はないのだろう。
大人びた顔で上品に盃を傾けて飲むのだが、次には甘いお菓子をほおばる。それだけで、一気に子供みたいに見える。
「長いこと、ここにおるからの」
「その分、いろいろな話が伝わっているはずだ。川の化身であり守り神でもある翠蓮さんは、ここを離れることはないからな」
「それは……、ここに縛られてるってこと?」
手の中で、ラムネの瓶のビー玉がカランと転がる。ガラス同士がぶつかるその音は、やけに冷たく聞こえた。
「不幸なことではない。そういうものじゃからの」
「でも……」
「澪羅。わしはな、ここで遊ぶ子供らが好きじゃ。かつて救った子が、こうして大きくなっておることも。なによりもいっとううれしいのが、そんな子らが親になり、自分の子供をここに連れてくることじゃ」
翠蓮さんの翡翠の瞳が、優しげな緑に煌めく。
「わしは幸せじゃ。ずっとここで、子供らと、かつて子供だった子らを見守っていられる」
ラムネ瓶を握りしめたままのあたしに手を伸ばし、そっと頭をなでる。そのちぐはぐな見た目と行動に、あたしはふと気づいた。
普通の人間の子供みたいだけど、翠蓮さんは川の化身だ。考え方も感じ方も、あたしとは違うのだろう。
それでも、あたしは翠蓮さんに会えてよかったと思った。翠蓮さんも、再会を喜んでくれた。
「そっか。なら、いいや」
「うむ。澪羅は、かしこくて優しい子じゃの」
今度は、忘れたくないな。季節のように過ぎ去っても、この思い出は大切にしていたい。
*
「翠蓮さんがここに人の子を長居させるだなんて、久しぶりじゃないかい?」
「そうじゃな。あの子とは、縁があったようじゃ」
澪羅を送り出した後の狭間にて。盃を片手に、ふたりは酒盛りを続けていた。朔は澪羅を送るため、席を外している。
「あの子、今日のことは忘れないって言っていたけれど、どうかな」
「さて、狭間でのことじゃからのう。よほど強い想いでもない限り、忘れるじゃろうな」
揺らめく水中の風景、流れていく鮮やかな色彩の睡蓮の花びら。穏やかに凪いだ翡翠の色の瞳で、川の化身はそれを眺めている。
「そうは言うけれど、翠蓮さんだって覚えていてほしいだろう?」
「む……。わしとて、時にはそのような子と出会いたいとも思う」
「あの子は、本当に覚えていると思うけれどね」
「……だと、いいのう」
時間のように、川の流れは戻らない。けれど記憶ならば、それよりはずっと長く残る時もある。
ずいぶんと久しぶりに、そうであればいいと翠蓮は願ったのだった。