娼年の名前
――数分後。
湯船から上がった少年は丹念に体を拭くと、用意された新しいネグリジェに着替えると上司の下へと向かった。
どこもかしこもボロボロなスラムには似つかわしくない、丈夫で頑丈な扉。
コンコンとドアをノックすると、「入れ」と中から声が聞こえる。
なお、ネグリジェは当然(と言うべきかは分からないが)女性用のデザインだ。
しかし、今さら騒ぐこともない。いつものことである。
彼女には少年を女装させて辱める性癖があった。
下手に反応するほうが、結果的に彼女を喜ばせることになってしまうだろう。
だからこそ、少年は毅然とした態度で、その扉を開いた。
「やあ、やっと来たか、ミト。どうだ? アタシからの贈り物は、気に入ってくれたか?」
部屋へと入った少年に声をかけたのは大柄な眼帯の女だった。彼女はテーブルに踵を乗せて、尊大な態度で足を組んでいる。
その女は粗悪な葉巻を咥えたまま、ギザギザの歯を見せつけるようにニヤリと笑った。
獣のような尖った耳や、短めの毛深い尾。それらが生えていることから、彼女が獣人であることを理解できるだろう。
汚らしいまだら模様の長い髪(決して不潔ではないのだが……ブチハイエナの鬣みたいな模様と色合いなのだ)と、メリハリのある体型が女性らしさを強調しているが、それ以外は何もかもが男よりも男らしかった。
彼女を一言で言い表すなら、チンピラの女親分か、あるいはマフィアのボスである。
そして、実際にそうであった。
「ええ。とっても」
ミトと呼ばれた少年は、贈り物の返礼を皮肉で返す。ちなみにミトというのは、もちろん偽名だ。
「ヒャヒャッ、そう拗ねるな。なにせ、お尋ね者は亡国の王子サマだからな。普段から女装しておくに越したことはないダロ?」
おどけた調子で言う女は、灰皿に葉巻の灰を落としながら、ハイエナのような声で笑った。
――そう。少年の本当の名前は、アレックス・ミトラ・ヘーリオス。
その正体は太陽の国、ヘーリオス王国の王子である……もっとも、少年は第三王子であって、継承権は無かったのだが。
ちなみに偽名の『ミト』はミドルネームからとった名前だ。
「変装自体は別にいいんだ、ジャクリーン。ただ、言いたいことがある――オレに変な依頼ばかり回すのは、止めてくれないか?」
ミト少年は、さっそく不満をぶちまけた。
「ん? 変な依頼? どうした、ミト? お前がこなしているのは、どれもメアリス教のお偉いさんどもをぶっ殺す、立派な社会貢献じゃないカ」
ジャクリーンと呼ばれたマフィアの女ボスはすっとぼけた調子で訊き返す。
「方法が問題なんだよ! 変態の相手ばかりさせやがって!! いい加減、そろそろ我慢の限界だ。今日という今日ははっきり言わせてもらうぞ?」
少年はボーイソプラノできるだけドスを利かせて凄んだが、それは逆に彼女の胸をキュンと締め付けさせる結果に終わった。
まあ、今回は少年が本気で怒っているのが分かったため、流石の女ボスも少し真面目なトーンで答えることにする。
「……ああ、お前には感謝しているサ。ハニートラップが使えて、いざとなったら戦える人材――そんな便利な奴、滅多に居ないからな。必然的に、お前の出番はそっちに偏るさネ」
「それでも限度がある。そもそも潜入は必要なのか? 矢で射抜けば終わりだろ?」
物騒なことを言う少年。
だが彼の場合、魔力で強化された矢を放てば、下手なライフル銃以上の射程と自由自在の操作性をもつ。
ただ暗殺するだけなら、そっちのほうがよほど楽だった。
しかし、女ボスことジャクリーンは、葉巻を吹かせながらニヤリと笑って否定する。
「残念だが、ミト。そういうわけにもいかない。ただ殺して回るだけじゃあ、善良でクソッタレな聖民サマたちも敵に回ってしまうからナ。カタギには被害を出さず、上層部の悪事を白日の下に晒し、正当性を主張する……そのためにアタシたちは、わざわざこんな七面倒臭い真似をしているのサ。まあ、その涙ぐましい努力に意味があるかは、アタシにも分からないがナ」
一瞬だけ彼女の言い分にも一理あるように思えたが、彼女は最後に余計な一言を付け加えたせいで色々と台無しになってしまった。
「……善良? メアリス教徒に、善人なんていないだろ」
「オイオイ、それは言い過ぎだゼ。この前に背信者としてぶっ殺されたディオンって司祭は、なかなか話せるご老人だったそうじゃないカ」
いや、それもう死んでるじゃん。
やっぱり、今はいないんじゃないか……そう少年は思った。
ちなみにディオン司祭なる人物は亜人や異教徒にも寛容で、慕う者たちによって一つの派閥が作られるほど徳の高い元枢機卿だったわけだが……だからこそ処刑される結末を迎えたのだろう。
なお、これは完全に余談だが、ディオン司祭は何も『家畜や女性を攫うゴブリンを隣人として受け入れろ』と主張したわけではない。
ただ、亜人を下賤としながらも、エルフや獣人の女性が性奴隷としてそこそこ大規模な市場を形成しているダブルスタンダードな現状に疑問を呈しただけである。
悲しいことに、教皇やその取り巻きの枢機卿たちにとっては、大した違いではなかったようだが。
とは言っても、こういった突然の処刑は、今の大陸において珍しくなかった。
どこもかしこも教皇を批判すれば処刑。枢機卿に逆らえば処刑。権力に媚びる者だけが生き残る。
メアリス教に支配されたこの大陸では、良い奴やまともな奴、そして聖人から順に殺されていくのだ。
つまり、『良いメアリス教徒は、死んだメアリス教徒だけである』……そんなブラックジョークが路地裏で流行る程度には、社会が腐敗していた。
「まっ。何にだって大義名分ってやつは必要だってことダ。それに、お前さんは戦場で目立ち過ぎた。今や、その飛びぬけた弓の腕は名刺代わりにもなっちまう。滅びた太陽の国の王子が逃げ延びた事実を、わざわざアピールする必要はない。そうダロ?」
「だからって、オレが男娼の真似事をする必要があるのか?」
ミト少年が不満そうに言った。
「必要に決まっている。お前のおかげで、今まで手の出せなかった上層部が面白いほど隙を晒す。なら、利用しない手はないダロ?」
とはいえ、仮にも聖職者なのに、ことごとく少女や少年を買い漁る変態ばかりが揃っている現実には、『使えるものは何でも利用する』がモットーのジャクリーンでさえも、失笑を禁じえなかった。
一方で少年も、今まで上手く行っているだけに反論ができない。
確かに、警備が厳重で狙撃の難しい獲物も何人かは居た。
直接顔を突き合わせるほうが、ばれるリスクは高い気がするが……実際、ばれたことはなさそうだから、彼女が言っていることは正しいのかもしれない。
納得は行かないが。
「幸い、早くから継承権を捨てたミトの顔を、知っている奴は少ない。だから、まさかこんなプリティフェイスが、あのえげつない弓使いなんて、誰にも分からないサ」
確かに、ミトことアレックス王子は、割と早くから社交界やパーティに顔を出さなくなっていた。メアリス教徒の連中が少年の顔を知らないのは不自然ではない。
ただ、本当のところは、知っていそうな立場の者たちがことごとくメアリス教国によって斬首された結果でもあるのだが……流石のジャクリーンも、この場でそれを言ってやるほど無神経ではなかった。
言うまでもないことだが、今のミト少年は天涯孤独の身である。
そもそも、スラムの暗殺組織に身を堕としている子供に、身寄りなど居るはずがないだろう。
ましてや、それが元王子とあらば、その辺りの事情を察するのも難しくない。
少年の故郷、ヘーリオス王国は既に存在していなかった。
神聖メアリス教国によって滅ぼされ――血縁のある者は、すでに皆殺されていた。
ハイエナ→ジャコウネコ科(に近縁)→ジャック→ジャクリーン(女性形)。
安直なネーミング。