娼年の休息
――とある時代。とある世界。
その大陸は、一つの宗教国家によって支配されていた。
覇権国家の名は、神聖メアリス教国。
女神メアリスと、彼女によって召喚された異世界の英雄たちを祀る、英雄崇拝を掲げた宗教国家である。
一見するとまともな宗教に見えるが、その実は極端な女神中心思想――女神メアリスとその信徒こそが世界の中心であるべきだと自負する、一種の自民族中心主義とでも言うべき思想に染まっており、彼らはその思想に従って大陸の統一を果たしていた。
しかし、その手段は悪辣かつ非人道的。
異文化や異民族を蔑視する彼らの“戦争”は何処までも残虐であることができた。
特に他の動物等の特徴を持った亜人族やその混血たちは、語るのも憚られるほど悲惨な目にあわされていることも多々あったらしい。
かつては人々の希望だった英雄たちの物語も、今は全て虚構の果てに。
今のメアリス教では、大聖堂ですら人の形した魑魅魍魎が跋扈する。
そして当然、多くの人々が女神やその信徒を恨み、大陸の治安は乱れることとなった。
戦争が終わっても、平和なんて訪れない。
人が人として生きるための戦いは、命ある限り終わらない。
ある者は日々の糧のため。ある者は尊厳のため。ある者は正義のため。ある者は愛のため。
そして、ある者は――復讐のために。
誰も裁かない巨悪を、闇の中で始末する。
月の無い夜は、暗殺者たちの味方。
今宵もまた、メアリス教国内で一つの悪が裁かれたのであった……。
* * *
……古びた小さなバスタブと、立ち上る湯気。
その傍らで、体を磨く美しい少年。執拗なほどにゴシゴシと洗っている。
その少年の容姿は、まさに芸術品のようだった。
桃色が混じったブロンドの髪に、つぶらなサファイア色の瞳。
まだ幼い四肢は白磁器か象牙細工のようにすらりと伸びており、幼さが残る中性的な顔立ちは少女と見まごうほどだ。
実際少年は齢十四だったが、二次性徴や変声期が訪れる兆しはまだ見えていなかった。
唯一、右の頬に残る傷痕が玉の瑕だったが……その程度の傷では、少年の美しさを台無しにすることはできていない。
彼の正体は、大神官を暗殺した赤ずきんの娼年だ。
彼はメアリス教に反抗するレジスタンス組織の暗殺者であった。
今回の任務は大神官の抹殺と、ついでに“聖歌隊”の救出。そして、その際に少年へと割り当てられた役目は、潜入による情報提供及び計画実行日の時間稼ぎであった。
無事に任務を完了させ、仮拠点となるスラムの隠れ家に戻ってきた彼は、さっそく色々な意味で汚れてしまった体を清めていた。
なお、返り血はここに帰る途中の小川で簡単に流していたが……それでもさらに体を清めたいのは、単に気分の問題だった。
「うえぇ……まだ何か入ってる気がする……」
あれから丸一晩経っているのに、まだ気持ちが悪い。
嘔吐く少年。胃袋の中はとっくに空っぽだったが、まだ腹の中で白いオタマジャクシが蠢いているような錯覚に襲われる。
上からも下からも、肚の中心を目指して突き進む子種たち。
不幸なことに、鮮明に思い出せる青臭くて苦い味が、その悍ましいイメージを補強してしまった。
現実にはそんなこと感じられるわけがないし、これがただの思い込み……気にし過ぎなのは理解している。
それでも、こればっかりは理屈じゃないのだ!
もし可能なら、この場で胃袋と直腸を取り出して、豪快に丸洗いしてしまいたい気分だった。
余談だが、この時代に生きる少年たちにとって、風呂というのは極上の贅沢だ。
このご時世、綺麗な水やそれを沸かす燃料も決して安価ではない。炎属性が得意な魔術師ならばともかく、平民ですら数ヶ月単位でふろに入らないなんて当たり前なのである。ましてや、彼らのようなスラム在住にとってはなおさらだ。
だが、この少年に限っては上司の好意により、お湯をふんだんに使うことが許されていた。
仮にも組織としては明らかな依怙贔屓なのだが、表向きに少年の身分は高級男娼だ。支配人として、外見に気を遣わせるのは何も不自然ではない。
だが、本当の理由は、たぶんそうではなく……少年はこの後の展開を想像して悪態を吐いた。
「クソッ、あの陰獣ババアめ。絶対わざと長引かせたな。二回だぞ、に・か・い! 口も含めれば三回だ!」
顔に似合わない汚い言葉で、この場に居ない相手を独り罵る。
そもそも、こんな仕事ばかり回してくるのが作為的だ。
少年の特技は、魔力で強化した弓矢による狙撃だというのに――飛ばした矢を自由に軌道変更できるその腕前は、神業がかっているとさえ言えるのだが――ここに堕ちて来てから、その技術を活かせたことはほとんどない。
自分が強制させられるのは決まって潜入からの暗殺。しかも大抵の場合、相手は救いようのない変態だ。
毎回毎回イヤになる。多少は慣れたと言っても、後ろを犯されるのは決して気持ちいいものではないのだから。
……ないったら、ないのだ!
さて、その女上司だが、あまり待たせると不機嫌になる厄介な特性まで持っている。
だから、そろそろ体を洗うのも切り上げるべきだろう……そう少年は判断した。
「まったく、本当に面倒臭い……」
いくら目的を果たすまでの辛抱とは言っても……こう変な意味で酷使されてばかりじゃ、いつまで耐えられるか分からない。
この風呂みたいに優遇だけしてもらえるなら、いくらでも偽りの愛を耳元で囁いてやるのだが……湯船に浸かった少年は、憂鬱そうに目を閉じた。