林檎は落ちて
開け放たれた窓から、風が入り込んできた。
少し冷たくて、湿っていて――。
もうすぐ雨が降るらしい。
そういえば、さっきまで腕に感じていた陽の光の熱さはいつの間にか消えていた。
おそらく空は分厚い雲に覆われてしまったのだろう。
相変わらず蝉たちの声がやかましく聞こえてくるが、心なしか勢いに欠ける。
風がまた、強く吹いた。
これは、いよいよ来るかもしれない。窓を、閉めなくては。
僕はベッドから足を下ろし、周囲にゆっくりと手を這わせた。
お尻の横から、シーツのザラつきを伝い、さらに腕を伸ばしてベッド横の小さな机へ。
指先に丸い角が触れたので、それをなぞるように指を机の中央まで移動させる。
窓は、そこから手をついて立ち上がり、半歩進んだ先にある。
横引き窓の、今朝は右側を開けただろうか。
掌に力を込め、足に体重を乗せたとき、僕はふと思い出した。
たしか、ここにはお見舞いで貰った林檎が置かれていた筈だが……。
「……声くらい掛けて下さいよ」
僕は再びベッドに腰を落とし、その人がいるであろう方角へ向けて言った。
ちょうど右斜め45度のあたりには来客用に置かれたパイプ椅子があり、思った通りその場所から静かな笑い声が聞こえて来た。
「ごめんなさい。アサギ君が真剣な顔をしていたから、邪魔をしてはいけないと思って」
鈴を転がすような、それでいて柔らかなヴェールに包まれるような優しい声が、そう答えた。
「それってずっと見ていたってことですよね。酷いなぁ。閉めてくれませんか、窓」
「大丈夫よ。しばらくは降りそうもないから」
宥めるように彼女、キキョウさんはいった。
キキョウさんはこの病院の看護師だ。
僕の担当ではないくせに、よくこうしてやって来る。
特別な用事がある訳でもなく、ただ話をして帰っていくだけ。
それはいつものことだった。
退屈な入院生活においてはどちらかと言うと有難いことだが、彼女には僕のような高校生くらいしか話し相手がいないのだろうかと、たまに心配にもなる。
「僕、そろそろ昼寝でもしようと思っていたんです」
「いいじゃない。いま林檎を剥いてあげるから、何か話しましょう」
キキョウさんは言葉の中に少し甘えたような、人懐っこい響きを含ませた。
それが計算の上であるのか分からないが、僕は彼女のこういう幼さが好きだったから、そのように言われたらもうそれ以上反論する気など失くしてしまう。
これもいつものことだ。
「話って、どうせまた同じことを話すんでしょう」
「そうだけど、常に同じことなんて無いでしょ? 日々なにかしらの変化はある筈よ。今日はどうだった? あの人……」
しゃり、しゃり、という耳触りの良い音が聞こえる。
キキョウさんが林檎を剥き始めたようだ。だがこんな様子じゃ、おそらくあまり上手ではないのだろう。音は途切れ途切れで、テンポが悪い。ぶつぶつに、皮を削ぎ落している音だ。
「スズ先生は、アサギ君に何かを言ったかしら」
声は、急に温度を失ったように暗く沈んだ。
僕にはキキョウさんが言わんとしていることなど既に分かっていた。
スズ先生は僕の主治医で、毎日メンタル面も含めた親切なケアを行ってくれている。
本当に優しくて、かつ、芯にある揺るぎ無いものを感じるような、僕にとっては理想の大人だ。
キキョウさんは先生に恋をしていた。
彼女と先生がどのような関係であるのかはともかく、キキョウさんはこうして僕の所へやって来てはスズ先生のことについて尋ねるのだから、その気持ちを詮索するまでもない。
先生は僕に何かを言ったか。
その問いはつまり、『先生は私について、何かを言っていたか』という意味で、恥ずかしくて面と向かって話せない彼女は、僕を通して先生からどう思われているかを探ろうとしているのだ。
「別に。術後の経過を見て、軽く世間話をして、それだけです」
「……そう」
林檎を剥く音が止まり、部屋には遠くの蝉の声だけが響いた。
重苦しい空気は気のせいではなく、それがキキョウさんの憂いを表していることは明らかだった。
彼女の恋は、きっと実ることはない。
なぜならスズ先生には奥さんがいて、子供もいる。
キキョウさんもそのことは知っていた。事実を、どのタイミングで知ったのかまでは分からないが、恐らく彼女は何も知らずに先生を好きになってしまったに違いない。
今やキキョウさんの心は、先生への想いだけで支えられているように思えた。
他の不都合なことには触れずにいることで、彼女はひたすらに先生だけを愛し続けている。
「キキョウさん、もう良いじゃないですか。だって先生は……」
「駄目なの。スズ先生じゃないと」
キキョウさんは急に語気を強め、僕の言葉を遮った。
大きな声に圧倒されたのではない。でも、どういうわけか背中が粟立つような底知れぬ気味悪さを感じ、僕は口を噤んだ。
彼女はまた林檎を剥き始めた。
「ごめんね。でも、たぶんこれはアサギ君にはまだ分からないことなの。誰かを好きになると、それも説明もつかない程に心がその人で溢れてしまうと、どんな事もどうでも良くなってしまうものなのよ」
「それは、誰でもそうなんですか。キキョウさんだけではなく」
「どうだろう。少なくとも私は、それほど先生が好きなの。今までこんなことって無かったわ。あの人が私を見てくれるのなら何だって出来るし、どんなものでも犠牲に出来るの」
「やっぱり僕には分からないなぁ」
「アサギ君にもそのうち訪れるわ。身を投げ打つことさえ厭わない、どうしようもなく胸が締め付けられるような、そんな一生に一度の恋が。その時はアサギ君、手段を選んでは駄目よ。なにしろ一度っきりなんだから」
「高校生に言うことなんでしょうか」
「ふふ、大事なことよ」
キキョウさんは先ほどの和やかさを取り戻し、また静かに笑った。
しかし彼女の深い部分を知ってしまった僕には、その笑い声がどうしても歪に聞こえてしまう。
本当は、後悔をしているのだろうか。
先生をそこまで深く愛してしまったために、自分がもう戻れない場所まで来てしまったことを。
もしくは恐れているのだろう。
叶わぬとしても、キキョウさんを支えているのは先生への想いだ。
それを失った時、彼女は自らを保っていられるだろうか。
キキョウさんの心は、まるで一本の太い鎖に繋がれてしまったようにどこへも行くことが出来ない。
そんな彼女を助けてあげたいけれど、僕にもそれはどうすることも出来ないのだ。
だって彼女はこうして話しているときも、きっと僕を見てはいないのだから。
いずれ僕も苦しむ羽目になるのなら、いっそキキョウさんのことは――。
「アサギ君、ごめんね。やっぱり私、上手く剝けないみたい」
キキョウさんが言い、皿の上にカチャリとナイフを置いた。
「貸してください。僕、得意なんです。それこそ目を瞑っていたって問題ないくらいに」
「怪我をするかもしれないわ」
「平気ですって。ほら、貸してください」
僕が手を広げると、そこに皿がそっと置かれた。
膝の上に置きなおし、皿の上の林檎を掴むと、ひどく凹凸のある感触が伝わった。
一回ごとに実を深く抉ったような、下手というにはあまりに雑な出来栄えだ。
「いいですかキキョウさん、林檎っていうのはこうして片手でしっかり持って、芯に近い所へ刃を浅く切り込んでですね……」
僕はそうやって、ナイフを持つ手に力を込める。
その時、突如として手首に凄まじい衝撃が加わった。
強い力で掴まれたのだ。僕は驚き、思わず林檎を落としてしまった。
「アサギ君! ナイフなんか使って、危ないじゃないか!」
腕を掴む力にも勝る、力強い声が聞こえた。
スズ先生の声だった。夕方の問診にはまだ早い筈だが……。
「大丈夫、得意なんです。見えなくても、上手くできるんです」
「そんな訳はないだろう? あぁほら、血が出ている。けっこう深く切ってしまっているかもしれない」
先生は今度はとても優しく言って、僕からナイフを取り上げた。
「血……? ああ、これは……」
「今ナースコールを押したからね。とりあえずはこのガーゼで傷口をおさえて」
僕はガーゼを受け取るが、どうすれば良いのかも分からぬままそれを握りしめた。
ふと風が吹き、それはほのかな土臭さを運んできた。
「雨、ですか」
窓を閉めようと、立ち上がろうとした僕の肩を、先生が押さえつけた。
「君は座っていて。間違ってこんな場所から落ちでもしたら、ひとたまりもない」
「手すりがありますから心配ないですよ」
それにしても。
僕は少しだけ不満に思った。
「しばらくは降らないって言ったじゃないですか」
「……そんなこと。誰が……?」
先生が振り返り、僕を見つめているのが分かる。
雨はパラパラと、この建物の壁を打ち始めた。風も相当強くなっている。
早く、窓を閉めなくては。
「誰って。アレ、おかしいな」
頬に、雨粒の冷たさが落ちた。
僕は一度、小さく鼻を利かせる。
「まだそこにいるはずなんですけど」
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