(一)平成の世へ
時は平安末期に遡る——。
源義経は、自身の生涯の最期を覚悟した。
兄である源頼朝は、義経を幕府の謀反人として敵とみなし、朝廷に対して圧力をかけ、義経の追討令を出した。
義経は一時、奥州藤原氏に匿われたが、頼朝の圧力によって掌を返した藤原泰衡の軍勢が、義経が身を隠していた衣川館へと攻め入ったのだ。
義経は意を決し、衣川館の持仏堂(日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂のこと)へと篭った。
目の前には、自刃するための短刀を寝かせ置き、義経は我が生涯を振り返っていた。
初めは幼少期の頃を思い出していた。
幼名を、牛若丸と名付けた母の常盤御前の顔を思い浮かべたが、なかなか思い出す事はできなかった。その頃はまだ何も知らぬ稚児であった。
次に少年の時代を思い出す。
平家の世において、その身を隠す為に入れられていた鞍馬寺から飛び出し、平家滅亡を夢見て奥州まで旅をしたことを思い出した。その懐かしさには思わず頬が緩んだ。
そして生き別れていた兄の頼朝と再開した時の感動、壇ノ浦の合戦にて憎き平家を滅ぼし、都で栄華を極めていた時代まで、次々と思い出していった。
しかし、どれだけ思いを巡らせたところで義経の目の前にある事実は、己の「死」のみであった。義経はその覚悟を固め、介錯人(切腹の際、付き添って首を落とす役目の人)である十郎兼房に目を配ると、目の前の短刀の束を逆手に取った。そして瞼をゆっくりと下ろすと、鼻から僅かに目の前の空気を吸い込み、大きく息を吐き切ると、手に持った短刀を勢いよく自分の腹へと突き立てた。
うっ。
思わず腹に力が入り、短刀の自由が利かない。義経は最後の力を振り絞り、一気に横一文字に、腹を掻っ切った。
(ああ……これで終わりだ……)
義経は苦しみの中に、無言で自分自身に呟く。その刹那、十郎兼房の太刀が一閃、義経の首を一刀両断した。
時は平成十八年に至る——。
朝の澄み渡った空気を鼻先に感じた。陽の光が差し込んでいるのか、まぶた越しにもその明るさが感じられた。少し遠くには鳥の囀りが聞こえ、何やら騒々しい。
——ブロロロロロ……
少年は耳を疑った。
(なんだ今の音は?)
それになんだか不思議な心地がする。明らかに、今まで体感したことのない寝床の感触であった。まるで雲の上に布団を敷いたかのように柔らかな感触に、少年は心地よさを感じていた。
少年は朦朧としつつも身体をむくりと起こした。瞼をこすり、大きく息を吸い、精一杯にその小さな身体でのびをすると、目を開けた。
少年は、目の前に飛び込んできた異様な風景に一瞬息を飲んだものの、自らの境地を思い出すとともに、合点がいった。
「ここは……浄土か……?」
そうだ。私は先の合戦において衣川館の持仏堂で自刃し、死んだのだ。それにこの雲の上のような心地の良い寝床は、浄土のものだからだろう。しかしながら、武士は修羅の道に堕ちるものだとばかり思っておったわ。
などと、少年は様々に思案しながらも、ふわりとした寝床から短い足を下ろすと、整然として細い板が並べられている床にストンと立った。
(なんと)
その床を見て少年はまた驚いた。これほどにまで滑らかに磨かれ、節々の整った床を見たのは初めてであった。感動した少年は、その整然とした床を暫く見つめ続けていた。
少年を一番驚かせたのは、東向きについていた窓だった。
少年は窓のそばに近寄ると、初めて目にしたその透明の板にペタペタと触れ、指紋を大量に引っ付けた。
(浄土の世界には目に見えぬ蔀戸がかかっておるのか)
そしてその透明な蔀戸(平安時代に窓の代わりに雨や風を凌いだ板)に関心を寄せながらもその先の風景に目をやった。
(なんだあれは?車か?しかし牛や馬が引いておらぬぞ)
少年が目にしたのはゴミ収集車であった。ゴミ収集を終えた車は、ちょうど次の地域へと向かい、発進していたところであった。
——ブロロロロロ……
もう一度その音を聞いた少年は、さっきの音がこの車のものである事を理解した。
少年が部屋の中を観察していると、下から女の声がした。
「ワカ!早く起きないと学校遅刻するわよ!」
少年は疑問を覚えた。
(今の声はなんだったのだろうか。ワカとは誰のことなのか。それにしても世に聞かぬ奇妙な訛りだな)
今聞こえてきた声に、様々な考えを巡らせながらも、少年はその目に写ったものの前に、一気に引き寄せられた。
少年を引き寄せたのは、カレンダーである。そのカレンダーを前にして、少年は不思議に思った。彼には鞍馬山の仏門に入った経験があり、その間にさまざまな教養を得ていたことから、多少の文字を読むことができたが、明らかに見たことのない漢字や仮名、丸みを帯びた記号の意味を理解し、読むことができたのだ。
(これは……暦か……?)
そして、その暦の一番上に大きく書かれた文字を思わず声に出して読んだ。
「平成……十八年……?」