6: Bell
「――そういうことか…」
命令通り、素直に引き下がった華奢な後姿を見送って、ロザーリエ王国の王太子レヴィネイス・アズランは重苦しい溜息混じりの声を零す。そして彼は痛む蟀谷を揉み解し、その斜め後ろでは、彼に付き従う騎士ガスト・マーフェンが渋面を浮かべて呟く。
「彼女は何も知らないのですね、自分の価値を」
アヴェントン公爵家に産み落とされた【薔薇の乙女】は、王位争いに揺れるこの国において特別な意味を持つ存在だ。その存在一つで王位争いの行方を決めるといわれ、【薔薇姫】の称号を与えられた少女は、しかし自分自身の価値を知らないまま今も生きているのである。
数年前に失踪したアーシェ・ファレスは現在、リオナという偽名で活躍するハンターであり、オールドローズという名でレヴィネイスの影でもある。そうとわかっていながら、彼はその正体を知らない体で彼女に接していた。彼女が知られることを良しとしないことを察していたからだ。
それと同時に、疑問に思ってもいた。彼女は白金の髪を黒く変えている。混血が進み、濃色の髪が多い平民の中において、白金の髪は珍しいという程でもないが、目立つ。だから、髪の色を変えるのは理解できる。しかし、滅多にいない薔薇色の瞳を変えずにいることがずっと不思議だったのだ。
「自分が世間でどう言われているかも知らないとは…道理で瞳の色を変えないわけだ」
アーシェ・ファレスが薔薇姫と呼ばれる所以は、やはりその瞳の色だ。滅多に見られない薔薇色の瞳は、ファレス家に時折現れる色で、それ以外の家系に現れた記録はない。平民に紛れるにはあまりにも迂闊だが、そもそもその色の価値を知らないのであれば仕方ないことなのだろう。
「殿下、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「…なんだ」
「いつまで彼女を単なる影という立場に甘んじさせるおつもりです?」
もう間もなく国家の疲弊を招くだろう王位争いに終止符を打ち、レヴィネイスの頭上に王冠を齎す少女の存在は、彼自身の手で歴史の裏に消えようとしている。ガストにはそれがどうしても解せなかった。
以前、一度だけ仲間内で話題に挙げたことがある。しかし、自身と同じくレヴィネイスに従う影であり、付き合いの長いラベンダーとアクアマリンは、逆にガストの疑問こそ理解できないようだった。
『えぇー…本気で言っちゃってるんですかぁ? ミントってばぁ、とんでもないお馬鹿さんですねー』
軽薄な声で嘲笑ったラベンダーと、無言だが何か言いたげな顔を見せたアクアマリンを思い出す。二人は察しがついているようだったが、結局ガストは理解できないままだ。
「…」
普段の彼からは想像できない渋面を浮かべ、レヴィネイスは黙り込む。言いたくないという意志を明白に告げる態度に、ガストはそれ以上何も言わなかった。
無言のまま、レヴィネイスはアーシェと初めて会った時のことを思い出す。彼女自身は覚えていないのだろう。交わした言葉すらない、一分足らずの邂逅が記憶に残らないのは無理もないが、その事実が心を苛む。
自分の人生で最大の転機となったあの日以来、王冠を求め続けている。自分の人生を激変させる原因となった彼女は、何も覚えていない。
しかし、それでも構わなかった。彼女が自分の管理下にいることが重要なのであって、自分の些細な感傷を問題視する必要はない。
「…今後は、アヴェントン公爵家の動向をより注意しなければな」
「そうですね…ジェイドに警戒を強めるように命じておきます」
ジェイドもレヴィネイスの影の一人で、才能と能力が諜報に特化している女性だ。彼が抱える影の中でもやや異質な存在で、彼女と面識がある影はガストのみだ。現在はアヴェントン公爵家にメイドとして潜入しており、公爵家の動向を監視させている。
今や【薔薇姫】のいないアヴェントン公爵家だが、今回の演目【薔薇の乙女】に託け、薔薇の系譜を自称されると厄介な存在になる。かの公爵家は王位争いにおいて未だに旗色を明確にしていないが、自分を支持することはないとレヴィネイスは確信していた。どうにも第一王子と繋がりを深めているらしく、第一王子派の動きがこのところ激しい。元々、兄弟の中でも第一王子の支持勢力は一際大きく、レヴィネイスにとっては一番の難敵だった。国王の長子と、末子とはいえ王太子という違いはあれど、互いに正統性という言葉を振りかざし、支持者を得ようとする現状において、頭の痛い問題である。
アヴェントン公爵家が第一王子派につくのは予測していたが、状況は良くない。容易に打開できる方法を知っている。だが、彼はその方法を使わない。
「…、…」
溜息を零しかけて、何とか堪える。レヴィネイスはふと目を閉じた。
ただ自分の心の安寧を得たいがためだけに、失踪したアーシェを探し続けていた。恩人を救ってくれたという恩義に付け込んで、傍にいてほしいと願ったのは、ただ彼女に自分の目の届く位置にいてほしかったからだ。深い意味はなく、それ以上でも、それ以下でもなかった。その言葉を「影になってほしい」という意味で受け取られたのは想定外だったが、その思いに変わりはない。
――そう、思ってはいるのだが。
自分の決意を嘲笑うかのように、状況は自分を追いつめていく。冴え冴えとした月光の下、凛として咲き誇る美しい一輪の薔薇へ手を伸ばさせんとするかのごとく。
うまくいかない現実に頭痛を覚え、レヴィネイスが思わず目を閉じた直後、開幕を告げるベルが鳴った。
***
それは、遥か過去のこと。
現代でいう【魔術師】が、悪魔の子と呼ばれ、忌み嫌われていた時代の物語。
薔薇色の瞳を持つ魔術師の少女、ロゼッタ。彼女は魔術師が迫害される状況に憤りを感じていた。望んだわけでもない才能を持って生まれただけで、生涯迫害されることになるのだから、その憤りも無理はない。
やがて彼女は迫害に耐えかね、魔術師の安息の地を求めて旅立った。
どこへ行けども人間から迫害され続けた彼女だが、多くの魔術師からの賛同を得た。彼らは安息の地を求めて彼女に従った。取り分け彼女に心酔し、彼女の良き理解者となった二人の魔術師がいた――紅の賢者ロクシスと、紫の魔女シャンディアである。
新天地を求める魔術師たちの中、ロゼッタ、ロクシス、そしてシャンディアの三名が中心となって、ある時は国家を相手に戦い、ある時は荒れ狂う海を越え、ある時は険しい山脈を越えた。
やがて、数々の困難を乗り越えた彼女らはついに新天地――ロザリア・エストリエを手に入れたのである。
フィリップ・ノイガー作『薔薇の乙女』より
今後の展開の修正やら何やらをしながら書いていたら大分時間がかかってしまいました…
お待ちいただいていた方、申し訳ございませんでした。
とりあえず『薔薇の系譜』はこれで完結となります。
相変わらず進展のないレヴィネイスとアーシェですが、気長にお待ちくださると嬉しいです。
それでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。