5: Genealogy
本日2話目の更新です。
未読の方は前話からお願いします。
依頼を受けてから一ヶ月が経った。精神魔術が発端となった騒動は終わりを告げ、無事に『薔薇の乙女』公演初日を迎えたこの日、ウィルバーとメイナに招待されたアーシェは久々にメア・リュメール劇場を訪れ、最終確認に追われる劇団員の間を抜け、メイナの楽屋に顔を出していた。
「――来てくださったのね」
「招待してくれてありがとう。何も問題はなさそうだね」
「えぇ、おかげさまで」
緊張感のまったく窺えない柔らかな微笑を浮かべるメイナの瞳は、アーシェのものと同じ、薔薇色に染まっていた。自分の施した魔術が問題なく機能していることを確認して、次いでメイナの耳に輝くイヤリングに目を向ける。イヤリングには、瞳と同じ薔薇色の石が輝いていた。
瞳の色を変える魔術は、時間経過で効果を失う。それを防ぐためには、その魔術を扱える魔術師が傍に控えているしかないのだが、それには問題があった。色彩の微細な調整がどうにも困難で、劇団所属の魔術師には、メイナが満足する程の色を再現できなかったのだ。そうなるとアーシェがどうにかするしかないのだが、いつ仕事が入るかわからない彼女が常にメイナの傍にいることは難しい。そのため、魔石を使うことにしたのだ。
魔石は魔術師が魔力を結晶化させて創り出した石だ。これに予め魔術を記録しておくと、特定の条件を満たした時に、記録された魔術を発現させることができる。魔術の素養のない人間が必要に駆られて魔術師から買い取ったり、魔術師であっても緊急用や護身用に持ち歩いたりするが、アーシェにはほとんど縁のないものだった。
アーシェが創り出した薔薇色の魔石はイヤリングへと嵌め込まれ、そのイヤリングをメイナが身に着けている間だけ、彼女の瞳を自分の色で塗り潰すのだ。
「ご迷惑をおかけしました」
「仕事だから、迷惑ということはない。気にしないで」
少し前にもこんなやり取りをした気がしたが、アーシェは気にしないことにした。
「それじゃあ、準備の邪魔だろうから、私はもういくよ」
「えぇ。期待していてね」
劇団長および主演女優の招待客であるアーシェには、依頼の追加報酬として初回公演の観劇用に個室を一部屋貸し出されている。開場よりも遥かに早い時刻だが、劇団側としては準備に余念のない時間だろう。早々に楽屋を退出して、貸し出された個室に入ることにした。不審者にしか見えない姿に【獅子王の牙】の紋章を身に着けたアーシェは悪目立ちしやすいのだ。
入室から時間が経ち、開場時刻を過ぎた頃、個室で書物を読んでいたアーシェはふと顔を上げる。何もありはしない虚空を見やった直後、転移魔術を使用した。
「――やぁ、オールドローズ。意外な場所にいるものだね」
転移先した先は、わざわざ考えずともメア・リュメール劇場の観劇用個室の一つだということがわかる。その部屋にある椅子に優雅に腰かけ、にこりと微笑む青年にアーシェは頭を垂れた。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
このロザーリエ王国の王太子レヴィネイス・アズランは、アーシェが忠誠を誓う唯一無二の存在だ。現在、彼女はオールドローズという偽名で彼に仕える影なのである。彼に名前を呼ばれたから転移してきたのだが、わざわざ彼が自分を呼ぶ用事があるようには見えない。
「何事かございましたか」
そう問いかけたものの、アーシェはその質問の返答に予測がついている。ちらりと、レヴィネイスの背後に立つ黒髪碧眼の騎士を見やる。ガスト・マーフェンというその騎士は、ミントという名の同僚でもあり、様々な分野において優秀な存在が揃うレヴィネイスの影の中でもかなりの実力者だ。何事かあれば、彼が黙って控えている筈がない。
「いいや、君がこの場所にいたから、何かあるのではないかと思って」
「何かはございましたが、既に収束しております。御身が危険に晒されることはございません」
「それなら良いのだけれど」
穏やかな微笑のまま小首を傾げるように頷いたレヴィネイスを、僅かに怪訝そうな顔でアーシェを見やる。影になる前から、彼女が近くにいると彼はすぐに気づくのだ。
「この演目に興味があるのかい?」
「興味があるというよりは、仕事の報酬でチケットを頂いたので」
「なるほど」
異物を見るような視線で見つめられ、アーシェは思わず顔を顰める。いったい何が言いたいのだろうか。この主人が考えていることは、彼女には大抵理解できない。
「…殿下こそ、ご興味が?」
「まあ、多少はね」
「そうですか」
会話を打ち切り、アーシェは思わず閉口する。これ以上この話題で彼と会話が続きそうにない。先ほどまで部屋で書籍を読んでいたのに、なぜ今はこのような状況になっているのだろうか。
「…劇作家は、自宅にあった古文書から着想を得て、この台本を書いたそうだよ」
唐突に始まった説明に、アーシェは無言でレヴィネイスの顔を見つめる。
「古文書は保管状況が大層悪く、読み取れるのは僅かだったそうだけれど――薔薇色の瞳の女性魔術師がロザリア・エストリエへの導き手だと記されていたらしい」
「薔薇色の瞳の女性魔術師、ですか」
「当分は身の回りに気をつけた方がいい」
まるで自分のようだと思ったアーシェにレヴィネイスが言う。冗談のような口振りと表情だが、瞳だけは笑っていなかった。要するに、与太話を信じるような馬鹿はどこにでもいるし、何をするかわからないと言いたいのだろう。人間は己の欲望のためにどこまでも愚かになれる生き物であると、彼らはよく理解していた。
「まったく…またアヴェントン公爵家の周辺が騒がしくなりそうだ」
「アヴェントン公爵家?」
不意に話題に出た生家の名に、アーシェは内心警戒したが、それはおくびにも出さない。出目を明かす気は一切ない彼女にとっては当然の反応だ。
「失踪したあの家の次女が薔薇色の瞳を持っているというのは有名な話だ」
「一貴族令嬢の瞳の色が有名になるなんて、お貴族様は随分お暇なのですね」
「…君、本気で言っているのか?」
心底呆れ果てたと言わんばかりのレヴィネイスと、いつになく深い皺を眉間に刻むガストの顔を見比べ、アーシェは思わず首を傾げる。呆れられる理由がわからない。
しかし数秒後、彼女はようやく合点がいった。自分の思う貴族像とあまりにかけ離れているせいで忘れがちだが、この主人は貴族階級の頂点に位置する存在なのだ。そのような意図は全くなかったが、自分が侮辱されたように感じたのかもしれない。
「もちろん、あなたがそうとは思っておりません」
「そうではなく――…いや、いい。気にしないでくれ」
「…? かしこまりました」
結局レヴィネイスが何を言いたいのかはわからなかったが、気にしないよう命じられたのであれば従うまでだ。影であるアーシェには、主の命令に反する理由がない。
「とにかく、それこそアヴェントン公爵家こそが【薔薇の系譜】だと言い出す輩がいるだろうな」
アーシェにしてみれば馬鹿馬鹿しい話だが、世の中には与太話を本気にする者もいるのだ。あの家に残らなくてよかったと心の底から思う。そんなことを言い出す輩が出れば、薔薇色の瞳を持つ次女を家族が有効利用しようとするのは目に見えている。どのような理由であれ、あの家族には決して利用されたくない。
「まあ、君は自分の身の回りに気を付けるように」
「はい」
「――そろそろ開演だな。下がっていい」
「はい。失礼いたします」
戻るのはすぐ近くの部屋であるし、部屋の前には人がいないようだ。転移魔術で戻るのも億劫で、アーシェはそのまま歩いて戻ることにした。やんごとない身分の青年が座す部屋の前は、人払いがされているのか、静まり返っている。誰かに見られる前に部屋へ戻ろう――そうアーシェが歩き出した時、誰かとすれ違った。
「…え?」
人の気配は感じなかった。気を抜いていたのだろうか。慌てて振り返るが、そこには誰もいない。人間が姿を隠せるような場所もない。
「……」
気のせいだと理性が言う。しかし、感覚はそれを否定した。
今確かに、薔薇色の瞳を持つ女性とすれ違ったのだと。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
『薔薇の系譜』は残すところ後1話となります。
ようやくレヴィネイスが登場してくれましたが、かっこよさのカケラもなくて申し訳ないです…。