【Chapter:01 Page017】
「ぅあっ……」
乱暴に投げ出されて、少年はタイルのはがれた床にしたたかに頬を打ちつける。段差のせいで頬が切れた。熱い。
退廃的な香りと埃っぽさ。たぶん、物質循環システムの処理装置エリアだ。水位計やボタンや電子盤がごてごてくっついたたくさんの機械が、パイプやら導線やらとつながってごうんごうんと唸り声をあげている。
この部屋で二酸化炭素が分解されて酸素になり、廃液を清浄化し、有害ガスを除去していく――いわば命の要。
その場所が、こんなに薄暗くてじめじめしていて埃っぽくて、一番死のイメージに近いとは何たる皮肉だろう。
――あと、なんだろう、【嫌な匂い】がする。
背後からかぶさってくる影は――男。ネズミもどきのもの。
「ああ、手が汚れた……」
いつぞやも口にしたセリフが、少年の背中に刺さる。
「いくら汚れをとっても落ちないんだ……」
しかしその声は――なんだろう、いつもと違う。何かが欠けている?
「痛っ……ぼーりょくはんたい……」
顔をしかめつつも、とぼけた口調を吐きながら四つんばいで体を起こして――気づく。
「……っ!」
死体に。
首のない死体。手足のない死体。カミソリでじっくりと皮膚を切り裂かれた死体。腹から臓物をひり出した死体。死体死体死体……。
年輪のような断面から桃色の肉と白い骨がのぞいている……。嫌な匂いの正体はこれだ。肉と血の匂い。死の匂い。
みんな……自殺……? 違う、そんなわけがない!
殺 し た の ?
「…………」
恐る恐る、少年は振り返る。
猿を噛み殺したネズミを。
ネズミもどきは、造型の細かいガラス瓶のようなものを取り出して、ふたを開ける。――別に何も出てこない。……違う?
瓶の口を鼻孔に近づけると、ただよってくる【なにか】を深々と吸いこむ。すると言いようのない恍惚とした表情になったではないか。
人をかどわかす蠱惑的な、魔性の香り。
直感的に、少年はそれが何か理解していた。
「パフューム……」
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The Re:Birth that it Undermine, Parts I
キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。
回す回す。男はひたすらハンドルを回す。
目的なんてない。意味もないし、得られる結果もない。
それでも男は、無我無心にハンドルを回し続ける、それこそが自分の生き方であるかのように。
離れたところ――少年の小部屋。
そこで仰向けになっているのは、ひとりの少女。
少女は眠る。ただただ眠る。
夢を見ているわけでもない。休んでいるわけでもない。王子様のキスを待っているわけでもない。
だけど少女は眠り続ける。真っ暗で何も見えない、時間だけが流れてゆく世界で……。
キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。
回る回る。
少女は眠る。
キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。
回る回る。
少女は眠る。
キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。
回る回る。
少女は眠る。
キィコ、キィコ、キッ……
……………………。
……………………。
……………………。
………………………………。
輪廻は止まる。
繰り返しが途絶える。
リズムが乱れる。
なにかが壊れる。
少女は――
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「お前が持ってても、猫に小判だろ?」
指でつまんだままぶら下げている瓶を見せびらかしながら、不安定な声色でネズミもどきはつぶやく。足取りもふらついていて、どこか不気味だ。
まるで人生を投げ出した浮浪者か、戦場で放心した二等兵のよう。だけど、少しでも何か誤れば爆発して何をしでかすかわからない。そんな狂気を抱えた不安定さ。
たぶん、男はもう 金 星 に は い な い。心が過去へと飛んでいるのだ。
少年は、確信していた。目の前の男は逃げ出したのだと。
「お前、俺が何で収容所に来たか知ってるか?」
話しかけているようにも、独り言のようとも取れるつぶやきとともに、ネズミもどきはぶつぶつと話し始める。
「最初はさ、俺だって人並みに働いてたんだ。バイトして金稼いで、それなりにいい暮らしだったしな」
かがやいていた過去を思い出しているのだろう、ネズミもどきの口元がゆるむ。
「けどよ……。半年くらいするとバイトに行くの億劫になってきてさ。つい辞めちまうんだよ。何度も何度も辞めちまうんだよ。そうするとさ、いっつも新人なんだよ。ボーナスもでねぇしよ。――でもさ、俺だって買いてェモンいっぱいあるんだよ。ビンテージもののジーンズとか、すげぇ車とか、いい女とか……」
しだいに、男の声が震えていく。増していくのは苛立ち。
「欲しいもんは増えるのに、金は減ってく一方でよ。でも働く意欲は湧かねーし」
汚れた天井を見上げて、男はつぶやいた。
「――盗むしかねーじゃん」
まるで常識のように、言った。
「それからはム所とシャバのつまんねー往復だよ。それから復帰プログラムに参加して、水星の鉱物資源採掘エリアで働いたんだ。高給取りだしな。鉄なりニッケルなり掘りまくって、金稼いだよ……。地球に戻ったらベガス行って遊んでやるって思ってた。――そしたら、仕事仲間の賭け麻雀で稼ぎほとんど盗られてよぉ……」
天井をつらぬき、見えるはずのない空を見つめて、男はつぶやく。
「――殺すしかねーじゃん」
それは懺悔か、それとも懐古か。それともただの【記録】としてのつぶやきか。
大量殺人鬼と化した男はなおも続ける。
少 年 に 近 づ き な が ら 。
「どん底まで落ち果てた人間はな―― も っ と 下 の 人 間 を け な さ な き ゃ 生 き て い け な い ん だ よ 」
とんでもないことを、言った。
ふらつく影が、少年の小さな体をおおいつくす。支配していく。
闇がネズミもどきの全身を潰すようにからみついていて、グロデスクな陰影を作っていた。
「――っ!!???」
まずい。そう直感した少年は、我が身をひっくり返し、仰向けの状態で後じさりする。指先にはがれたタイルが当たって指を切ったが、そんなのどうでもいい。
びちゃ。
「――っ!」
ぬめった何かを手でこすってしまった音。こういうときの嫌な予感は、憎らしいほど当たるものだ。
少年の背中がいやなもので湿っていく。――血だ。
振り返って、眼が合ってしまう。腹の裂けた、首のない死体と。
切り取られた首は、裂けた腹の中に無理矢理詰めこまれていて、こぼれた内臓の隙間からちらちらとこっちを恨めしそうに見つめていた。濁りきった目で。
「見つめられても困るよ……」
現実逃避か性格か、緊迫感のない声で少年は眉をかすかにゆがめて目を細める。それが少年なりの『苦い顔』らしい。
前を見れば、澱みきった目で少年を見下ろすネズミもどき。最悪だ。逃げ場がない。
男は少年にまたがって、三日月のような笑みを男は浮かべる。三日月のように、黄色い歯。
伸びた手が、少年の細い首にからみついた。
「かはっ……」
しめつけが強くなって、酸素が搾り出されていく。苦しい……。
「なァ? お前は優しい子だろ? だからもっと苛めさせてくれよ。俺を慰めてくれよ。俺を癒してくれよ。俺を許してくれよ。頼む。頼むよ……。何でもしてやるから……」
さらに指の力が強くなっていく、パフュームの影響もあってか筋力の抑制が効いていない。気道を潰されただけではおさまらず、首の骨がみしみしときしんできた。
震える声で、男は乞うた。
「俺のために……命くらいは捨ててくれっ!」
ひどく身勝手で残酷なことを。
「くけ……っ」
アヒルみたいな不恰好な声を上げて、少年はうめき声を上げる。
相手はなおも首を締めつける力を強めていく……。苦しそうに、だけど嬉しそうに。
締めつける。
少年の舌がだらりと下がる。
締めつける。
少年の開きっぱなしの口端から涎がたれる。
締めつける。
少年の痙攣が激しくなっていく。
締めつける。
少年の瞳孔が開きかかって――
鈍い音がした。
「あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁああっっ!!!!!!!」
地獄の釜底から響いてくるような悲鳴。
ネ ズ ミ も ど き の 悲 鳴 。
四つんばいの体勢でむせ返っているのは――少年。思いっきり酸素を吸いこんだせいで喉が痛い。それでも心地よいとさえ思っていた。だってこれは生きている感覚だから。
少年は握りしめていた塊を、手からひき剥がして投げ捨てる。それは、床に転がっていたタイル。埃まみれの場所に転がっているのに、なぜかそれは濡れていた。――血で。
タイルでネズミもどきの頭を殴りつけたのだ。正確には――思いっきり突き刺した。それもカドで。
「何しやがるテメェっ!」
頭を押さえているネズミもどきが、うめく。押さえている指の隙間から、赤い汁がどくどくとあふれてきていた。
……ざまをみろ。少年は笑う。
それはまぎれもない。少年の抵抗だった。水天逆巻く勢いでうねる反骨精神。
「……反抗期なんだよね」
軽口を叩くだけの余裕が、まだ残っていた。
夢を追いかける元気は、まだ尽きていない。
か弱く白い腕に、確かな執念が宿っていた。
精一杯の力でネズミもどきをにらみつける。これまで一方的な暴力を受けとめてきた少年の、生まれて初めての抵抗だった。
痛めつけるのも、嫌がらせもけっこうだ。勝てる見こみはないし、どうせ抜け出すつもりでいるのだから、緩慢な苛立ちを抑えながら耐えていくつもりだった。
だけど――殺されるとなれば話は別だ。
自分の体がどこまで殺意に耐えられるのかなんてわからない。正直、絶対死なないなんて保障はどこにもない。何より―― す ん な り 殺 さ れ て あ げ る な ん て つ も り な ん て 、 は な か ら 無 い の だ 。
そっちがそういうつもりなら、こっちはこっちで考えがある。――全力をもって足掻いてやる。
それが少年の意地だった。
少しばかり――少年自身もここまで抵抗できるのかと驚いていたけれど。――あの子のおかげかな?
「ふざっけンな!」
ネズミもどきが激昂して襲いかかる。
こっちこそとばかりに少年は足に噛みつく。髪をひっぱられて殴り飛ばされた。肉を抉る勢いで腕を引っ掻いてやった。腕を折られた。指に喰らいついて、そのまま歯で第二関節から先を噛み千切る。腕の骨がくっついた。思いっきり耳を殴られた。鼓膜が破れて血が出てくる。叩いて殴られて、踏んで蹴られて、突き飛ばして体当たりされて、痛めつけて叩き潰されて、そうやって殺意と抵抗はぶつかり合う。
だけどよくよく考えてみれば、少年は傷が治るのだ。どんな傷も、いつかは治る。だとしたら、不利になるのは相手のほうではないのか?
そして相手は、一枚上手だった。
いきなり少年の体が押し倒される。
「痛っ……」
少年は、後頭部を打ってしまって意識が中断してしまう。
目を見開いた瞬間―― 永 遠 に 中 断 さ せ ら れ た 。
ぐしゃ、と鈍い音がした。
岩が叩きつけられた音だった。
少年の頭が潰された音だった。
その辺に転がっていた瓦礫の塊。ネズミもどきはそれを持ち上げ、力いっぱい少年の頭に叩き付けたのだ。
何度も何度も。形が変わっても何度も何度も。声を上げようと何度も何度も。血が吹き出ても何度も何度も。手足をばたつかせても何度も何度も。頭蓋骨が潰れても何度も何度も。びくんびくんと痙攣しても何度も何度も。
はみ出てきた脳みそを潰すように叩いて叩いて――やがて単調な作業は終わりを告げる。
ネズミもどきは、静かに少年だったものを見下ろしていた。
すでに、首から先が消えた死体は動かない。
赤い血しぶきと白い骨の破片と桃色の肉片と灰色の脳みそだったものがそこらかしこに飛び散っていて、それはもはや修復不可能なほどぐちゃぐちゃに乱れている。
いくら傷が治るといっても、頭を潰されては……。
「余計なことするからだ。こいつ……」
馬鹿めとネズミもどきは吐き捨てる。思わぬ反抗で受けた傷はかなりひどいが、パフュームのおかげで痛覚は麻痺している。皮膚が分厚くなったような、奇妙な感覚。
帰ってゆっくりパフュームを吸おう。そう思いながらネズミもどきが背を向けたその瞬間――
怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨――――。
「――ひッ!」
言いようの知れない寒気が、ネズミもどきの背筋を襲う。
ねっとりとした闇が神経に絡みついて溶かしてくるような恐怖感。
影が質量をもって肩にのしかかってくるような吐き気。
嫌な気配がするのは、自分の後ろ。
そ れ は 少 年 の 死 体 が 転 が っ て い る と こ ろ で は な い の か ?
「……………………」
恐る恐る、振り返ってみる。
次の瞬間……。
――彼は地獄を見た。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
むしばんでくる再誕