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【Chapter:01 Page016】

 ――エフ博士――

 本当の名前は、トリニティ=ストライク。

 エフ博士と言うのは、DNAの螺旋構造の模型モデルを設計したFフランシス=クリックからとった【あだ名】らしい。

 

 専門は、ナノマシン医療工学。

 微小サイズのたんぱく質で構成された有機体ロボットによって、細胞を治療するという学問だ。

 火星で力をつけていた医者だったらしいのだけれど、医療ミスから刑務所へ転属となったらしい。


 だから刑務所で永遠の治療を義務づけられた。ここでは、何の役にも立たない人物はちてゆくしかなく、逆に専門職をつけているなら重宝される。エフ博士は、後者のほうだった。



 少年は、エフ博士と親しかった。

 飄々ひょうひょうとしていて、とらえどころが無かったけれど、元医者でなだけあって知的なところがあり、粗暴で荒くれものの殺人者ばかりのなかでは、とても魅力的な人物だったのだ。この人から面白い科学をたくさん教えてもらったのを覚えている。忘れたことなんてない。

 

 親しかった。魅力的な人物だった。――そう【だった】のだ。

 



 ある日、エフ博士は姿を消した。

 

 うわさでは、痛み止めに使われるドラッグの奪い合いに巻き込まれて死んだとも、暴力的な患者のとばっちりにあって死んだとも言われているが、かんじんの死体が出てこないので、けっきょく真相は謎のままである。

 残されたのが、そのドラッグ――蕩ける誘惑パフューム


 エフ博士の部屋に残されたそのクスリを奪いあって、今では囚人のほとんどががむさぼっている。どうやら相当のストックがあったらしい。



 それからが悲劇のはじまりだった。


 ごっ、と重い音がする。吹き抜けのエリアから誰かが飛び降りた。

 火だるまのかたまりが走りぬける。可燃性燃料のメタンハイドレートで誰かが焼身自殺。

 手すりに何かがぶら下がっている。麻縄で十人が一列に首を吊っていた。


 次々に起こる自殺の数々。

 それは間違いなくエフ博士が死んでから――パフュームをつかうようになってから起こっていた。



 とても非科学的な言葉になるが、やはりこう思うだろう。


 これは呪いだと――……。






【Page016】

―――――――――

        Perfume






 その目は、天を見つめたまま動かない。

 ――というよりは凍りついている。

 ぼろぼろの囚人服はかつての色を失っていて、おまけに新しい色で汚れている。

 真っ赤に。

 

 そこに転がっているのは、死体だった。






「また死体かよ……」

 誰かが、うんざりとしたようにつぶやいた。天を見つめたまま仰向けに固まっている男の前に、わりと多めの人だかりが密に集まってきている。まるで猿の群れ。

 別に死そのものが珍しいわけではない。囚人同士の抗争や、くだらないケンカで死ぬことはよくあることだから。

 問題なのは そ の 死 に 様 だ。

 

 その男は、つい一週間前まで健康そのものな男だったのだ。まだ若いし、先天性うまれつき疾患やまいがあったわけでもない。

 だけど結果がこれだ。

 死因は内臓破裂らしく、その証拠に男の死体には胸をかきむしったかのような形跡あとまで残っている。


「…………」

 少年は、とおりすがりに横目でちらりとだけ見てから、すっと通りすぎていく。さしてめずらしいものでもないし。



 だけど、人ゴミの中から誰かがつぶやいたその言葉を、少年はすぐに拾いとっていた。

「パフュームのヤりすぎなんだよ……」



 ――パフュームって、なんだっけ?



△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 



「ナノマシンさ。10億分の1メートルの超小型ロボット」

 答えたのは、エフ博士だった。



 それは昔の記憶おもいで



 よれたシャツ。汚れの目立つ白衣に身を包んでいて、エフ博士はカビの生えた書庫の中で、錆びた鉄製の書棚からメモリをひろいあげていく。

 情報を保管しておくには最悪の環境だが、悲しいかなここがまだマシな場所なのである。


「痛み止めに使ってるクスリでね。全身の痛覚神経つうかくしんけいを無理矢理麻痺させるんだ。ほら、歯医者で使う麻酔。あれを全身にバラ撒くカンジ。脳に達すれば脳内麻薬が分泌されるから、麻酔の気持ち悪さは感じないしね。けっこう便利に出来たと思うよ? たぶん」


 そう言いながら博士は無精髭ぶしょうひげの生えた口元をゆがませる。純情とは程遠い、含みをこめた笑み。

 耳にこびりつくような低い声。無遠慮で意味ありげな物言い。揶揄やゆをこめた笑い声。この人は存在そのものが、どこか奇妙だった。

 

「でもあれは怖いんだよねぇ。脳内麻薬の過剰分泌かじょうぶんぴつ陶酔感とうすいかんひたって、そのあいだだけ現実を忘れることができる。副作用も依存性もないけど、そのぶんたくさん求めたがる。効果は短いけど、人生は長いから仕方ないんだけど、さ」


 自分の発明品なのに、この人の言葉には自慢している傲慢ごうまんさがまるでない。まるでウワサ話を面白がっているような、他人のモノあつかいしているようにすら感じられる。まるで自分そのものを第三者として見ているような、どこか遠くから世界を見つめているような、そんな錯覚すら思わせる。そんな人。


 止めればいいじゃないですか。

 確か、今よりも幼い少年はそう言ってみたことがある。だけど思ったとおり、簡単にあしらわれてしまった。

「無理だよ。こんなひ弱なオジさんじゃ止めようがない。困ったねぇ。本当に困ったよ……」

 むしろ楽しんでいるように、エフ博士はくつくつと笑う。


「…………」

 少年は、そんなエフ博士の姿を遠目に見ていることしかできなかった。

 だ っ て あ ま り に も 楽 し そ う で ……。


「夢を見たいのは、子供だけとは限らない」

 博士の声によこしまさはない。

「もしも大人が夢ばかり見るようになったら、いったいどうなっちゃうのかなぁ?」

 むしろ子供のような純粋な期待をこめて、闇を語る。


 そのときの少年は、まるで蜘蛛の巣にからめとられた蝶のように、言葉という名の糸に縛られるしかなかった。

 そしてそして少しずつ――

 蜘蛛の声にむしばまれる夢を見る……。



△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 



「…………」

 そうして少年は、思い出という名の夢から這い上がった。


 キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。

 どこからともなく聞こえる、錆びついた音。

 それは、水道管のハンドルを回す音だった。軸とサビがこすれあって、なんともいえぬ不快な音を発している。

 回しているのは囚人。しかし、猫背で口は開きっぱなしで、その目は正気でない異様な鈍い輝きを発している。すぐにパフュームの常習者であるとわかった。

 だけど誰も気にしない。もう何人も死んでいるし、隣の安否を気づかうようなご近所づきあいなど皆無だし、何よりあのハンドルは壊れている。

 何の害もないから自分たちに関係ない。そういうことだ。



 ここは腐っている。

 隣でだれが死んでも無関心。他人に対して冷たくて、そのくせ自尊心プライドは妙に高い。一日を時間稼ぎですごして、高みに昇ろうというこころざしもない。自分の居場所がこんなに腐り果てているのに、だれも何もしようとしない。いつか誰かやってくれるから。本気でそう思っているのだろうか?


 納得いかない――したくない。何も知らないまま終わってしまうなんて、そんなのは嫌だ。

 だから少年はあがく。こんなところから抜け出してみせる。それは、この腐った世界で燃え上がる意地。

 ――もっとも、その方法が見つからないから、そんな意地はとっくの昔に下火になっているのだけれど。少年の低いテンションは、そういうところからきているのである。だからこそ、まだ中途半端に情けなく胸のうちで鈍くくすぶっている……。

 こんなつまらない人生の輪から抜け出したいと――まだ心が乾いているのだ。

 

 

 キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。

 何の意味も見出せない、ハンドル回し。

 ただただ回し続ける男の背中を横切って、少年は歩き続けた。



 こんなになってまで、パフュームを求めてしまうものなのだろうか。



 ――さぁね。猫にマタタビを与えるようなものさ。こぞって集まってくる。――問題はどうやってそのマタタビを作るのか、だ。



 エフ博士が、そんなことを言っていた気がする。そういえば、工房ファクトリーなんてあったっけ?

 この収容所には、ミニ地球になっているエリアがある。

 植物を栽培するエリア。擬似たんぱく質による偽の肉を作る工場エリア。排泄物はいせつぶつ窒素化合物ちっそかごうぶつやミネラルに分解して肥料にリサイクルする物質循環ぶっしつじゅんかんエリア。

 それらは区切られたスペースに合理的に作られ、いっさいの無駄をはぶかれている。ナノマシンを作れる趣味の部屋みたいな余地はあまりないのである。

 だったら……エフ博士はどうやってパフュームを作ってたのだろう?

 真実を聞こうにも、エフ博士はもうどこにもいない。聞きようがないのだ。





「…………」

 途中で少年はトイレに寄る。衛生面と悪臭は最悪だが、生理的機能には逆らえない。



 これが終わったら、少年は小部屋に戻るだろう。

 そして、まだ眠る少女を見つめて空想に思いふけるのだろう。

 自分も眠って休んだあとは、また仕事に戻って再び帰って――……。

 それはまるで、終わらない夢。 

 いつまでもいつまでも終わらない……。



「…………」

 なんだかなー、と思いつつも少年はトイレから出て、洗面台の蛇口をしめる。すり鉢状の洗面台には無数のぬめりがこびりついていて、もはや洗剤で洗っても取れそうにない。

 鏡で自分の顔を見つめてみる。端が割れていたり、くすんでいたりするけれど、それなりに顔を見ることはできる。


「…………」

 傷ひとつない顔。しわのない、若い顔立ち。

 あれだけ蹴られ叩かれされているのに、まるで国宝品かなにかのように傷ひとつない顔。

 あれだけみんな――特にネズミもどき――に徹底的なくらいにやられているのに、どうして元に戻るのだろう?

 人間じゃないのかな……。自分という存在が気味悪く感じてしまうではないか。


 この悪夢もまた、終わらないのだろうか……。


「…………」

 帰るかな。

 汚れと一体化しつつある洗面台を眺め、さすがに吐き気がしてきたので少年は顔を上げる。







 いきなり体をひっぱられた。







 

 人はパニックになると、たくさんの情報が頭の中で荒れ狂うらしい。――いったい誰がやめて来るな何! そんなふうに少年はあわてて――

(ぅわ、った……)

 あわてろよ。


 そのとき、彼はたしかに見た。

 鏡ごしに見える、少年をひっぱる存在の顔。



 それは、ネズミに良く似ていた。









 

 キィコ、キィコ、キィコ、キィコ……。










  -BLACKBOX-

―ブラックボックス―



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