【Chapter:01 Page003】
――年号で分からないかな? それである程度計算できるから。
――1929年。
2247年。金星の刑務所での会話だ。
時は遡り――1929年。
アクチェ=ティンクレアはソビエトの片隅――ソロヴェツキー諸島にいた。
花崗岩や片麻岩で構成された島であり、そこには15世紀に作られた修道院が存在する。
――ソロフキ修道院。
己の精神を鍛え、人と神を繋ぐ場。
けれど、当時のソビエトは世界初の共産主義大国。
幾度もの武装蜂起と革命戦争によって、たくさんの反逆者を抱えこんでいた。
だから国は欲した。膿を捨てるための屑籠を。
絶海の孤島であるソロヴェッキー諸島が選ばれるのに、そう時間はかからなかった。
そうして、一つの収容所が誕生する。
人を鍛えるための場は、独断で人を押しこめるための箱となり、幾万もの人々を地獄に案内する扉。
反乱分子の駆逐と宗教根絶を目的とした強制労働収容所。
――ソロフキ収容所の誕生だった。
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When the worm consumes the boy
かつて、レーニンは言った。
「宗教は人民の麻薬である」と。
そこから、宗教の弾圧が始まった。
教会の財産を掠奪しし修道院の古文書を焼き払い、シンボルである教会の鐘を引きずり下ろして鋳潰した。
捕まえたのは革命に抵抗した貴族や将校――そしてその家族や親類。
レーニンと敵対する政党。
そして、弾圧された宗教家たち……。
その中に、アクチェもいた。
たくさんの大人たちと一緒に大きな門をくぐる。ソロフキ収容所に入っていくのだ。
聞こえてくるのは波の音。
島にぽつんと建てられた修道院。
逃げたところで、海という壁を越えることなどで気はしない。まさに自然の牢獄だ。
それにしてもと、アクチェは思う。
(また刑務所かぁ……)
どうやら自分は檻に好かれているらしい。
檻が喜ぶフェロモンでも出しているというのか?
そして――昔の自分の姿。
あの事件――ツングースカ・バタフライで家族を失ってから、ほぼ20年経っているというのに、彼の容姿は昔とほとんど変わっていない。
さらに言ってしまえば、2247年の自分自身とまるで変わっていないのだ。
そんな昔のアクチェを観察しながら、アクチェは思う。
(本当に、人間じゃないよ……)
笑いたくても笑えない。
今のアクチェは、昔のアクチェの体を借りているような状態だ。
五感も肉体の神経も――その全てが昔のアクチェ任せで、自分では指一本動かすことが出来ないのだ。
それでも、かすかな感覚をキャッチすることは出来る。
それすら昔のアクチェが感じたものをすくい取っているだけに過ぎないのかもしれないが……。
鼻を衝く匂い。潮風だ。
初めての海は――塩の味がした。
▼△▼△▼
列をそろえた囚人たち。
同じ服を着せられ、個性を奪われた面々。
アクチェも一緒に、そこに並んでいた。
入ってくるのは、軍服とライフルで武装した厳つい面子。
その先頭にいるのは――ここの所長だ。
意外なことに、女性だった。
縮れた髪を後ろで束ねており、化粧の痕跡は無いに等しいが、野生動物にも似た美しさが見て取れる。
かすかに釣り上がった丸い瞳は、まるで猫――あるいは豹のようだった。
細身ながら大柄で、分厚い軍服ごしでも鍛え上げたしなやかな筋肉が浮かび上がっているかのようだった。
軍靴を鳴らして彼女は前進し、自分よりも背が高い囚人たちに気負いもせずに正面から睨みすえた。
そして、彼女は告げる。
「ここにソビエト権力は無い。あるのはソロフキ政権だけよ」
張りのある声。格闘技でもたしなんでいるのだろうか?
はぁ、とアクチェは心の中で息をついた。
ここが法律。……言ってみれば、ここで人権は許されないという意味だろう。
ある意味自由とも取れるが、ようは無秩序だ。事故がおきようが人が死のうが放置する。
つくづく、思う。
「神様がいるとすれば――無能だよ」
……今のは、アクチェの言葉ではない。
昔のアクチェが口の中だけでつぶやいた愚痴である。
まさか同じことを思っていようとは。
さすがは自分。何かと気が合いそうだ。
「……?」
アクチェが――昔のアクチェがぴくっと反応した。
所長が、アクチェを見てきていたから。
それも、興味ありげな眼で。
――なんだろう、悪魔に魅入られた気がした。
▼△▼△▼
パタンと扉の閉じる音。
「来たわね」
部屋に響くのは、女の声。
囚人と軍人だらけの孤島に、女なんてそうはいない。
いるとすれば――ただ一人……。
「あの……所長、さん?」
戸惑いがちな――というよりは胡散臭げな口調で、昔のアクチェはたずねてくる。
同意見だ。どう見ても胡散臭い。
「アナスタシアよ。アナスタシア=ノグチェフ」
所長――アナスタシアは楽しそうに笑う。
囚人の前で見せた威圧感はまるで無い。
まるで友達にでも接するみたいに親しげだ。悪いが文通した覚えはない。
他の囚人たちが、島の土を鉄道に運んだり、あるいはその鉄道を移動させるための線路を造ったりさせられているというのに……。
どうしてアクチェはこんなところにいるのだろう?
場所は所長室。
そこは、所長室と呼ぶには、あまりにも豪華すぎた。
豪奢な調度品やシャンデリアが悪趣味にならない程度に飾られていて、とても彼女の年収に見合わない雰囲気だ。
「教会の押収品なの。倉庫に入りきらなくって」
嫌味や自慢――と言うよりはただの冗談っぽい口調。
実質、彼女はこのコレクションに対して何の愛着も示していないかのようだった。
昔のアクチェは、そんな押収品の一つをまじまじと見ながら質問した。
「……教会にマンモスの化石が?」
「信者の寄付ですって。欲しいならあげるわよ?」
傷物で良ければ、と彼女は白い歯を見せて明るく笑う。
口調は砕けてて、妙に気さくな態度だ。たぶんこれが素なのだろう。
昔のアクチェは、化石をそっとつかんでみる。
マンモスの牙――らしきものは、掌に収まるほど小さかった。
ところどころが欠けていて、ひし形に削り取られている。……なぜ?
……ここで、気づく。
皿に盛られている果実に。
「……このオレンジも教会から?」
昔のアクチェは、丸い果実に指をなぞらせる。
「それはウチの田舎。新鮮が自慢なの」
「集団農場の?」
「あら詳しい」
「労働者予備学部にいましたから……」
ここ20年分の記憶を見ているから、今のアクチェにも話の意味は分かる。
ソビエトの教育学校。政治家も世に出してきた教育機構だ。
あの日から家族を失ったアクチェは孤児として生きてきて――ずっとずっと孤独に生きてきた。
理由は簡単だ。
――アクチェは歳を取れない。
まるで雪女のように時を重ねても姿形が変わることが無く、アクチェのことを気味悪がる人々の目線をいたいと思うほど目の当たりにしてきた。何度も何度も。
だから様々なところを渡り歩いてきた。
モスクワやウラジオストク……。世界で最も広い国土の上をずっとずっと。
学んできたのは古今東西の学問。
自分独りで生きられるために、抱えこめるだけの知識を水のように吸い取ってきたのだ。
昔のアクチェがどんな風に生きてきたのかをつぶさに見てきた。
まるで、分厚い書物のページを一つ一つ丁寧に読み解いていくかのように……。
規則正しい生活と掃除と洗濯とアイロンがけをマスターし、自炊のレパートリーを増やして、ささやかな日々の楽しみを手に入れたことを知った。
……あと、どこで学んだのか、趣味で盆栽もたしなんでいるらしい。
刑務所に押しこまれる一週間前に、広場で遊んでいた子供たちが投げたボールで棚を壊された時には、地味に落ちこんだのも知った。
意外と人生をエンジョイしているらしい……。
「国営農場化に反対していたらしいじゃない?」
アナスタシアが問うてくる。
「それで警察から逃げてたの?」
立っていて疲れたのか、彼女は屋根つきのベッドに腰を落ち着ける。ベッドのスプリングがきしむ音。
誰の趣味なのか、シーツの上に薔薇の花びらが散りばめられていた。白に真紅が映えている。
つくづく、所長の部屋とは思えない。
「んー……。まぁ、国家保安部からは逃げられなかったんですけど。あの人たちの腕長くって」
ソビエト正教の十字架をまじまじと見ながら、アクチェは独り言のようにつぶやいた。
自分の思い出を語るというよりは、噂話を話しているような口調。
自身のことを分析するのもあれなのだが……アクチェには、昔の自分が壁を作っているように
思えた。
自分の思い出に干渉されるのを、嫌っているような。
「どうして国に逆らうのかしらね?」
「嫌いなんで」
シンプルすぎる答え。
アクチェは独りだ。
だからこそ、人にも国にもすがらない。
「こう思ったことはないの? 自分は国に仕えてる」
「こう思ったことはありませんか? 自分は国に使われてる」
「……機嫌悪いの?」
「そっちは機嫌よさそうですね」
「…………」
アクチェの鋭い言葉に、アナスタシアは一瞬だけ瞳を見開く。
くるりとアナスタシアのほうを向いて、昔のアクチェは言葉をつむぐ。
「ぼくはコレクションの一つですか?」
マンモスの化石が、アクチェの手の中でひるひると揺れる。
……本当に、軽くてちっぽけな石ころ。
「んー……」
アナスタシアは、こめかみに指先をあてて困ったように――しかし楽しそうに瞳を細めてみせた。
そして、ブーツのかかとを床に押し付け立ち上がる。
スプリングが跳ねて、薔薇の花びらがふわりと香る。
「わたし、化石は好みじゃないの」
言いながら、髪を束ねていたピン止めを外して投げ捨てる。
まとめていた髪が舞って、肩に触れる。
「新鮮なものがイイでしょ?」
彼女はアクチェに歩み寄って、しなやかな手を伸ばす。
まるで握手でもするかのように。
だけど触れるのはアクチェの手でなく腕。
そしてつかむのではなく――
「……っ!」
アクチェの体が無理やり引っ張られる。
ベッドのスプリングが激しくきしむ音がして――花びらが空に踊った。
アクチェは花びらが敷かれたシーツの上にうつぶせの状態で寝かされ、その上をアナスタシアが覆いかぶさっている。
「気分は?」
耳元で、アナスタシアが囁いてくる。
今のアクチェの気分を――昔のアクチェが代弁してくれた。
「最悪」
まったくだ。
「……花びらが潰れました」
まったくだ。
アクチェに押し潰された、何枚もの赤い花びら。
瑞々しいそれらも、時間がたてばいつしか固まって、消えてなくなる。
だけどときには、何万年もの時間を経てもなくならないものだってある。――化石がそう。
固まることで自らを保つのだ。
ならどうして自分は消えない?
なぜ生きているのだ?
体の中身はこんなドロドロなのに。
死にたいなんて思わないけれど、嫌気がさすときがある。
たとえば今。
「外に出たいと願うなら、ここは檻になるでしょうね」
耳を嬲るように囁いて、アナスタシアはアクチェの手に自分のそれを重ねる。
アクチェは――つかみ返したりしなかった。
「だけど中にいたいと思うなら、これほど頑丈な城はない」
アクチェの足と足の間に、彼女の太腿が割って入る。
背中にのしかかる乳房が重苦しい。
甘ったるい香水の匂いが鼻を衝いて、ひどく不愉快だ。
「ここは安全よ?」
彼女は気づいているだろうか?
少し先の未来――アクチェの記憶の向こうに【彼女】がいることを。
黒装束の少女が――のちのアクチェの前に現れる。
この刑務所が火の海に包まれることを、アナスタシアは知らない。
「何も起こりはしないわ」
そして間違いなく――彼女は死ぬのだ。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
When the worm consumes the boy――虫ケラが少年を喰い荒らす




