【Chapter:01 Page039】
「うぅぅうう……ぅうううぁあああああああッ!」
狂気を孕んだ絶望が闇を濡らす。
悲鳴の隅で静かに響くのは、水音の滴り。
しどと濡れたまま転がる少年の肢体は、ぴくりとも動かない。
それを――もはや【彼】ではなく【それ】と成り果てた――見下ろす少女には、もはや二つの色しか見えていなかった。
肌の色は、血が抜け落ちて冗談のように白く――
そしてその周りは――
何もかもを押し潰す黒だけが……。
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―――――――――――
Stray Cats
サーヤは、ゆっくりと動かぬそれに手を伸ばす。
伸ばすその指先は、ひどく震えてる。
落ち着かない。
頭の中がちりちりする。
口の中が乾いてる。
目の奥が熱くてたまらない。
貯水タンクから漏れた水はなおもあふれ出ていて、それが川水のように流れてくる。
それが、床を水浸しにしていくつもの波を作っては消していく。
ゆっくりと触れる。
反応はない。何も答えてくれない。いつも言ってくる冗談が、今日はこないよ?
薄い水底から掬い上げて、それを起こす。
髪の毛がわかめのように顔に張り付いていて、瞳は閉じられている。
女の子みたいな顔立ち。その表情は、憎らしいくらい穏やかだ。
「…………」
少女は、その場にぺたんとへたり込む。
あっという間にスカートが濡れて重たく冷たくなっていったけれど、そんなことどうだってよかった。
動かぬそれを抱えて、しばらく時間に身をゆだねた。
こうして抱えて暖めていたら――ひょっとしたら起き上がるんじゃないかなんてばかげた希望を抱きながら。
「…………」
るるりるるりと水が流れる。
何も動かない。
「…………」
るるりるるりと水が流れる。
何も動かない。
「…………」
るるりるるりと水が流れる。
何も動かない。
動くのは水と時間だけ。
「…………」
――もう、認めようよ?
サーヤは、自分の心に問いかける。
もう、――でるよ?
「…………」
ぽたりと落ちるのは、彼女のしずく。
だけどそれは水波に溶けて霞んでいく……。
サーヤは唇をつむいで、動かぬそれを抱きしめる。
抱いているのは彼女のほうなのに、なぜか胸が苦しかった。
開く唇。食いしばっている歯。
体中がこわばって、かたかたと震えだす、今にも壊れてしまいそうなほどに。
それからほんの少しあと。
口が開かれ、嗚咽とも絶望ともとれる悲鳴が高らかに響いた。
「……皮肉だな」
無遠慮に投げこまれるのは、男の声。
「無限を生きられる者が死に、死を撒き散らす怪物が生き延びるとはな」
誰のものだと、サーヤは顔を上げた。
視線の先で――ぱしゃんと水の跳ねる音。
泥まみれのブーツが水を汚す音だ。
「久しいな。サーヤ=ネストーム。火星以来だから――2年ぶりか?」
懐かしさをこめて、しかし親しみを感じさせない冷ややかな声色で男は告げた。
目を細めて、サーヤは近づいてくる男につぶやく。
「あんた、誰?」
「覚えていないか? ……まあ問題ない」
いいながら、男は軽く握った拳を首に当てた。それは、こった肩を叩くモーションに似てなくもない。
だが――その手を引いた瞬間。
男の手には一本の剣が握られていた。
男のどこにも、鞘なんてない。そして、長剣一本を隠せるような場所などどこにもなかった。
だけど、サーヤは見た。
男 の 首 か ら 剣 が 引 き 抜 か れ る そ の 瞬 間 を 。
それは手品か冗談か。
諸刃作り――殺傷能力を極限まで高めた最悪の凶器をふるいて、男は進む。
銀刃の鏡に映されし少女――最高の獲物を目指して。
「たとえ相手が異能力者であろうと、たとえ相手が怪物であろうと、たとえ相手が悪魔であろうと、たとえ相手が魔女であろうと、たとえ相手が神様であろうと、
正々堂々正面から圧倒的火力で撃ち崩し――
姑息で卑怯な手段を使い尽くして圧倒し――
攻撃し、迎撃し、要撃し、銃撃し、狙撃し、迫撃し、砲撃し、爆撃し、電撃し、遊撃し、反撃し、追撃し、進撃し、打撃し、排撃する。
――そうすれば、そこに我が勝機は見えるだろう」
ぱしゃんぱしゃんぱしゃんぱしゃん。
水が跳ねる。男が迫る。
ぱしゃぱしゃぱしゃ。
勢いがつく。男が駆ける。
サーヤは抱きしめていたそれを床にそっと置いて、すっくと立ち上がる。
その腕に浮かぶのはいくつもの稲妻――高密度のプラズマだ。
臨戦態勢。
昏い昏い闇の中、影と影が迫っていく。
ぱっしゃ!
水が――
闇を一瞬だけ照らす、一陣の光。
「……え?」
声を漏らしたのはサーヤ。
疑問や驚きではなく、肺から空気が漏れただけの反応。
その肺に刺さっているのは――銀色の刃。
サーヤの胸が、男の剣によって刺し貫かれていたのだ。
それは圧倒的な戦力差によって、誰も決して寄せつかせなかったサーヤの肉体が、今ここに陥落した瞬間だった。
男はつまらなそうにつぶやく。
「私の名前は鈴原直人。……覚えなくてもいい。君はもうすぐ死ぬ」
闇の中、肉が抉れる音が響く。
刀をさらに深く刺しこんだのだ。
「アクチェ=ティンクレアのようにな」
▼△▼△▼
その頃。
アクチェ=ティンクレアは悩んでいた。
StraySeepという言葉がある。
いわゆる迷える子羊というやつだ。
牧人が羊たちを誘導する姿を、神に従う大衆と重ねた言葉なのだが……神を信じるというのは反面、選択肢を放棄するということにならないだろうか?
今ならその気持ちが分からなくもない、とアクチェは思う。
なぜか今の彼は家具一つない密室に閉じ込められていて――四方のドアのどれに入ったものか悩んでいるのだから。
「…………」
密室の中で、アクチェは思う。
「もしかして……ぼく死んでる?」
あまり緊張感のない口調で辺りを見回してみる。
「刑務所にいるから天国にいけるとは思ってなかったけど、地獄にしてはちょっと地味じゃないかな?」
盛大にケンカを売り飛ばしながら、アクチェはドアに目線を送る。
白い壁。白い床。白い天井。家具も何もない、生活観のない空間。
ひときわ浮いて見えるのは、ひどく真っ赤なドア。
左を向けば青いドア。
右を向けば黄色いドア。
後ろは――黒いドアだった。
それはさながら、何かの選択を迫られているかのようだった。
選び方次第で、運命の天秤が揺れてしまうかのような……。
「さっさと出よう」
つかつか歩いて、赤いドアをがちゃ。
躊躇ゼロ!?
さっそく赤いドアの向こうへ。
その先は――
「……ん?」
白い部屋。正面には赤いドア。
青と黄色のドアもあって――つまりまったく同じ部屋だった。
もう一度がちゃ。同じ部屋。
もう一度がちゃ。同じ部屋。
もう一度がちゃ。同じ部屋。
まるでタマネギの皮を剥くみたいに、果てのない無限回廊。
「え――(10秒)――と……。何これ?」
「前には進めないってことよ」
投げこまれるのは、女の声。
「……?」
アクチェが振り向くと、その先にいたのはビジディングドレス姿の女性がいた。
彼女をアクチェは知っている。彼女の名前は――
「……リクシス?」
「久しぶりね」
アクチェはしばし考える。
リクシスがここにいるということは……。
「えーと……お仲間?」
「うん、まぁ……そうかな」
「へぇ、残念だったね」
旅行で偶然出会ったような――死者同士とは思えない穏やかな空気。
「ところで……ここがどこか知ってる? ガイドマップとか持ってない?」
「…………」
リクシスは一呼吸おいて、真顔で答えた。
「……あなたの中よ」
「…………。ぼくの脳に1LDKがあると?」
「あの……そうじゃなくて……精神世界ってこと」
「…………?」
アクチェは無言で、リクシスをじっと見つめる。
ここがアクチェの脳内だとしたら、どうしてリクシスがいるのだ?
「理屈はあとで話すわ。それより、あなたには下がっていて欲しいの」
「……まさか、ぼくを乗っ取るとかそういうベタな展開?」
「侵略は宇宙人の仕事よ。私は人間」
「人間の仕事って?」
リクシスは告げる。
「助けるの」
アクチェは、思わず眉根を寄せる。
「……『得体が知れないやつなんて信用できない』って顔してるわね」
「得体が知れないやつなんて信用できない」
「口で言われた!?」
ひどいっ、なんてリクシスはうるうる泣き出すが、アクチェは容赦ない。
「掃き溜めで育ってる身だからね。利益のない奉仕は鵜呑みに出来ない」
アクチェは、基本的に人を利用するのが苦手だ。
たとえ命を奪うほうが効率的だとしても、それが上手く出来ない。たとえ自分の死が迫っていても。
だから、相手に協力したり利益を共有したりといった器用な真似が、どうにも出来ないのだ。
怪しいとは思わないまでも、リクシスが差し伸べた手を単純に受け取るというのは――アクチェには少しばかり難しい。
そんな迷いさえ見えるアクチェに対する、リクシスの反応は――苦笑だった。
まるで、何かを思い出しているような……。
「私も、そんな目をしてたのかな……?」
「……?」
「ごめんなさい。……こっちの話」
リクシスは上唇をめくって微笑みかけ――そして言った。
「鶴の恩返しって、知ってる?」
「地球の島国の民話、だっけ? 罠にかかった鶴を猟師が助けて、そのあと若い女の人が織物を作ってくれて、そしたらその女の人が助けてもらった鶴だったって話」
それがどうしたの? と、アクチェはきょとんとした顔になる。
リクシスは、微笑む。
「私がその鶴だって言ったら、笑う?」
その言葉に、アクチェはもっときょとんとしてしまう。
何を言うかと思えば……。
んー、としばらく考えて、アクチェはぼそりとつぶやいた。
「何ていうか、浪花節だね」
「え?」
「別に。こっちの話。……それより、これから何をするのか教えて」
今度は、リクシスがきょとんとする番だった。
だってそれって――
「聞かないと、どう動けばいいか分からないから」
――信用するってことでしょ?
人間を信用すれば、選択肢は増えるのかもしれない。いくらだって……。
リクシスは、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔になって、すぐに表情を改める。
――少し、照れているようにも見えた。
「あなたには無数のパフューム――つまりナノマシンが入りこんでるの。まるでウイルスみたいに細胞を食い荒らして増殖してる。これじゃいくら細胞を再生してもきりがない。だから私がパフュームに直接電気信号を送信して誘導するわ」
「それでどうするの?」
「右腕にパフュームをかき集めて、細胞自死で右腕を強制的に切り離す。あとはアクチェの治癒能力で肉体を修復すればいいわ」
「ちょっと強引じゃない?」
「分かりやすい作戦でしょ?」
「まあね。……で、ぼくの役割は?」
「記憶をつなぎとめて」
「……?」
「これからアクチェには、深層心理に入ってもらうわ。ここから行うのは、パワーショベルで書道をやらせるような荒業なの。最悪、記憶がめちゃくちゃになる危険性が高い。――だからそうならないようにつなぎとめて欲しいの。医者は体を治せても……心まではどうにも出来ないから」
「場所は?」
「後ろの黒いドア。その先は、過去につながってるから」
「前に進めず、後ろに下がるしかない……か」
しょうがないか。そうつぶやきながらアクチェは手を振りながら回れ右をする。
「30分で戻るね」
「……アクチェ?」
アクチェの軽口に対して、妙に神妙なリクシスの言葉。
「…………。どうしたの?」
「…………」
戸惑いがちに、リクシスは口を開いた。
「サーヤ=ネストームは宇宙人よ。生まれもっての異星種。対ある相手も、共生するべき種族もいない孤独な生き物なの。そういう生き物の未来は――」
「……消えるしかない」
それはそうだろう。
たった一つの種の行き着く先なんてそんなものだ。そこに強さは関係ない。たとえ町や国を滅ぼす力があろうとも――いや、そもそも そ ん な も の に 価 値 は な い の だ 。
「お願いがあるの」
あれ、とアクチェは心の中でつぶやいた。
謝礼を求めない素振りを見せておいて、次の瞬間には頼みごとだ。
一体どんな取引を持ちかけるのやら……。
「サーヤを助けて」
……なんですと?
「サーヤの心は、あなたにしか救えないの」
かなり予想外の言葉に、アクチェは目が点になってしまう。
ひねりどころかド直球。しかも彼女、目が本気だ。冗談言ってる顔じゃない。
(うーん……。どうしよう、この人かなりいい人だ)
それもおとぎ話クラスのいい人だ。純情なんてものじゃない。
この様子だと、本気で恩返しする気らしい。
(掃き溜めに鶴って、いるものなんだね)
アクチェは微笑んで、悪くないとうなずいてみせる。
――サーヤは、アクチェにしか助けられない――
「うん。そうだね」
つぶやいて、アクチェは黒いドアを開ける。
ドアの向こうは何もない。床どころか空も見えない――まったくの闇だった。
黒。真っ黒。何もかもを押し潰す色。
ついさっきまで、ここをくぐってきたはずなのに。
「…………」
深い深い闇を見据える。今にも押し潰してやるぞという声が聞こえてきそうだ。
だからアクチェは心の中でつぶやいた。
(嫌だね)
意を決する。
覚悟はついた。あとは飛ぶだけ。
その直前、アクチェはリクシスのほうを向いて――そして言葉を投げかけた。
「……ねえ」
「……何?」
「ありがとう。……アイリス」
彼女の本名を添えて。
リクシスは何か言おうとしていたけれど、その前にアクチェは闇の向こうに落ちていってしまっていた。
「…………」
彼女はうつむき、もういない彼に呼びかける。
「それはこっちのセリフですよ。社長……」
さわりさわりと音がする。
それはノイズ。何かが侵入してくる雑音。
虫とも苔とも付かぬ無数の【何か】が、リクシスのいる白い部屋を食い荒らしていく音だった。
たぶん、パフューム。アクチェの細胞を破壊しているナノマシンが、ついにアクチェの脳内を侵し始めたのだ。
何もかもを食いつぶす害虫が、リクシスの周りを囲んでいく。
常人なら、それだけで発狂してしまいそうな光景。
だけどリクシスの言葉は、とても冷ややかなものだった。
「私は死んでるの。……意味が分かる?」
火傷しそうなくらい熱い意志を奥に秘めて、彼女は告げる。
「失うものなんか何もないってっことよ」
彼女の戦いの始まりだ。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
Stray Cats――迷える猫






