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【Chapter:01 Page011】

 ここから話すのは――少しだけ過去。

 少年と少女がはじめて出会った物語……。



【Page011】

――――――――――

      空想科学少年




 ぱしん、と強い音が少年の頬を打った。

 それは意地悪な音――人を殴る音だった。 

 突き飛ばすようなその衝撃に、少年は固い床に受け身も取れないまま転がった。

 だけど誰も相手にしない。大きな台所では、誰もがジャガイモを洗ったり、なべの中身を煮込んでいたりと、それぞれの仕事をきっちり守っている。

 ひどく五月蝿やかましい。ひどい匂い。ひどく汚い。ひどく忙しい。

 少年にかまっているヒマはないと言いたげな、そんな場所。


「……お前何やってんの?」


 張本人の男が、からかうように見下ろしながら笑う。


「…………。何でもないです」

 のどからこみあげてくる感情を打ち消して、少年は立ち上がる。

 ところどころが破れたぼろぼろの服。すすだらけの顔。ぱさぱさの髪。

 そのいでたちが、あまり恵みのないところで暮らしているということを如実に物語っている。

 殴られた頬は熱く。口の中は痛く。その証拠あかしが口端を赤くぬらしていた。

 ここで何をしてもムダだということは、ほんのわずかな人生のあいだにイヤというほど教えられてきている。

 だから少年はぶっきらぼうに答えるだけだった。

 まるで感情の欠けたロボットのように。


「…………」

 だけどそのは、曇っているけれど鋭さは鈍っていない。それはまるで、霧中の灯台ひかり


 男はその目が面白くないのか、けっとはき捨てた。ここが仕事場でなければ、つばでも吐いていそうな顔をしている。実際、彼はそういう粗暴な性格だった。

「さっさとそこのニンジン切っとけ」

 くるりと背を向けて、男はひやかしをやめた。あやまりもしない。

 それどころか殴った手をさすりながら「あー、手が汚れた」などとわざとらしく、少年に聞こえるようにつぶやいていた。ネズミみたいに出っ張った歯をいて意地悪く笑っている。


「…………」 


 少年は、赤で汚れた口の端を袖でぬぐいながら、あたりを見回す。


 ひどい男だ。

 ひどい場所だ。

 ひどい世界だ。


 そんなことを心の内でつぶやきながら――いったいこの人生で何百回何千回何万回と唱えてきた呪詛を更新しながら少年は、、ほこりあかで汚れた床を歩いていく。


 ここが、少年の仕事場。

 ここが、少年の居場所。

 ここが、少年のすべて。


 見つけてきたニンジンをスチールの机におく。

 さっそく切ろうとして――

「ここは俺の場所だ」

 あとから別の男に押されて、少年は机のすみっこに追いやられる。

「――! …………」

 不平不満を口に出さず、不憫ふびんと思われることもなく、少年は黙って包丁をにぎった。

 

 少年の表情は変わらない。

 昔から、ずっとそう。

 環境のせいなのか生まれつきの性格なのか表情筋の使いかたを忘れたのか――あるいは全てなのか、まるで機械のように少年は無表情。

 ――たとえ、今のような状況にあっても。



「…………」

 少年は無表情のまま、ふとつぶやいた。

「………………眠い」

 案外、大物かもしれない。



「…………」

 ニンジンを切る前に、少年はもう一度口もとをぬぐう。




 

 ――もう口の傷は消えてなくなっていた。





 まるで嘘のように。

 まるで夢のように。


(ここが夢だったらいいのにね……)



 ――それは何億万回目の願い?



△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 



 1610年――

 かの有名なガリレオ=ガリレイによって、【その存在】は認知された。

 天動説をひっくり返すことになる新説――地動説のきっかけ。

 科学革命の中心人物でもある彼が裁判によってとじこめられたのちも、Gジョヴァンニ=カッシーニやFフランチェスコ=フォンターナたち次世代の天文学者たちによって【その存在】は少しずつ理解されていった。

 

 太古の中国の人々はそれを美しい白タイパクと呼び、バビロニア人は空の光イシュタールと呼んであがめてきた。アステカ人は神としてうやまっていたらしい。


 

 明けの明星モーニングスター

 双子星。

 もうひとつの地球。


 たくさんの名前で呼ばれている【その存在】は、今ではもっともシンプルな単語でたくさんの人々に親しまれている。





 金星ヴィーナス





 女神の名をもつ惑星。

 ――そこが少年の居場所だった。  



△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 



 女神の星は――汚かった。

 それが少年の抱いているこの星の印象。


 アタランタ平原――地球のメキシコ湾と同じくらいの広さ――の地下深くに造られた地底都市ジオフロント


 ――今や太陽系全体に人間の住みかを造れる時代。

 月や火星に手を伸ばせる技術を手にした地球人が、金星に足を出してもおかしくはない。

 何せ、金星はかつて宇宙人が住んでいると本気で信じられていたことだってある――いわば夢の星だったのだから。


 だけど、現実はいつだって残酷だ。

 今の金星に――夢なんてカケラも残っていない。――まるで今の少年の心のように。

  

 まず、暗かった。

 明かりである有機ELのほとんどが死んでいて、使い物にならない。 

 壁のところどころが錆やカビに覆われていて、つつけばすぐにひび割れる。

 人の歩くところや使うところ以外は埃が積もっていて、ひどく汚れている。

 空調に使う換気扇は、潤滑油が切れているのかぎしぎしと不吉な音を立てる。


 だけどそれを直すものはいない。

 専門の技師どころか、修理用のロボット一台すらないのだ。

 

 これはいったいどういうことなのか?

 たぶん、管理人がこの言葉を聞いたらこう答えるだろう。


 囚 人 に 何 を し て や る 必 要 が あ る ?


 そうなのだ。

 金星は、囚人をとじこめるための貧民街となっているのである。。

 

 なにしろこの星の環境はひどい。

 昼は摂氏460度。夜はマイナス180度。

 水深900メートル級の超気圧。

 止むことのない雷の雨。

 大気の9割以上は二酸化炭素で呼吸もできない。

 上空は秒速100メートルの強風が吹いていて、ここにたこを上げれば4日で金星を一周できる。――濃硫酸の雲にたこが耐えられればの話だが。


 たとえこの施設を抜け出たとしても、星を出るための船がない。

 小型ポッドで定期的に囚人や食糧を一方的に金星の軌道上に捨てるだけであって、宇宙船が金星に来ることはまずありえない。

 この惑星そのものが、いわば監獄なのだ。

 

 

 ――どうしてわざわざこんな劣悪な場所に地下施設を造ったと思う?


 苦 し ま せ た い か ら に 決 ま っ て い る で は な い か 。

 さまざまな星で犯罪ははびこっている。

 そうして囚人は増えていく。

 もちろん死刑囚も。

 それで死刑囚はどうなる?



 電気椅子にして満足か?

 首を吊らせて心地よいか?

 銃殺で穴だらけにしたいか?


 いな

 そ の ど れ も が 生 ぬ る い 。


 さんざん殺してきたんだぞ?

 薬にすがって、あるいは精神の欠落で、銃でナイフでロープで手早く時間をかけて念入りに衝動的に殺意をこめて楽しみながら刺して撃って叩いて犯してなぶってねじってくびって潰して殺して殺して殺して殺死死死しシ……。


 それを死刑程度で終わらせてやるものか。

 お前たちは誰もいない惑星に放り込んでやる。

 家族も知人もいない、薄暗い闇に捨ててやる。

 心配するな。お友達はいるぞ。  


 お前と同じ、共 喰 い 好 き の 変 態 だ 。

 そんな暗い感情から生まれた監獄。


 それが金星。



 







「…………」

 そんな場所で、少年は暮らしていた。


「…………」

 どうして自分はこんなところにいるのだろう。


 出自は分からない。

 罪を重ねた記憶もない。

 そもそも――自分が誰なのかも知らない。


「…………」

 ――自分は、何なのだろう……?



「…………」

 仕事を終えた少年は、ゆっくりと帰路についているところだった。

 壁伝いに少年は歩く。

 壁に刻まれたナイフの切り傷や爪あとや固まった血糊のふくらみに触れながら、それを道しるべに少年は自分の家に向かっていた。地球と違って、ここには案内標識もないしガイドもいない。

 家といっても、ちっぽけな物置に適当な布を敷いているだけの質素なものだったけど。


「…………」  

 ふと、少年は横道に目をむける。


 細い道のその先に見えるのは――ゴミ。

 鉄クズも木クズも綿クズも紙クズも――燃えるものから燃えないものまで、ありとあらゆるらないものが集まってできた、ゴミのピラミッド。

 それはなぜか不思議と雄々しく、そしてむなしくそびえ立っていた。


 それを冷めた目で見つめながら、いつも少年は思うのだ。そしてわらう。そう、ワラう。

 口の端を、ほんの少し――本当に少しだけつり上げただけの、ひどく薄い笑みだったけれど。



(いつかぼくも、あそこに埋もれて死ぬのかな……)



 それは先のない、ひどくくらい夢……。






















 ――そんな少年にも、ようやく休息の時間がおとずれる。

 家に――物置程度の大きさしかない狭苦しい小部屋に戻ってきた少年は、労働でくたびれた身体を薄い布の水面に沈めた。

 あっけないほど簡単に、少年は睡魔におぼれていく。


 ――少年の人生とは、何なのだろうか?

 こんな囚人ばかりの世界で生きねばらず、どうしてか傷が治ってしまう体質ゆえにしいたげられ、まだ伸びきってもいない指をすすまみれにして、少年はここで何のために生きているのだろう? 何の意味があると言えようか?


 こんなちっぽけな空間で一日を終わらせ、変わらぬ一日の始まりを感じ――どこに人生の価値を見出せと?






 それでも、少年はわずかながら世界に爪あとを残していた。

 このちっぽけな空間に。


 

 

 さあ、見るがいい。

 壁一面に書かれた少年の人生を。





 


 1.0*10−7mol H+ OH- Dissolved Oxygen  Biochemical Oxygen Demond  Suspended Solid  6.01kj/mol Calcium Magnesium Potassium Sodium Zinc Phosphorus Manganeese Selenium Nickel Copper 103>70 双極子モーメントの相殺 電気陰性度の大きな原子と共有結合をした場合における水素原子の電子密度の縮小化 触媒和 イオン交換樹脂法 クラスター構造 酸化還元反応 蒸発残留物102.0mg/L 硬度44.2mg/L 遊離炭酸ゼロ 過マンガン酸カリウム消費量0.8mg/L未満 残留塩素0.3mg/L未満 非共有電子対 Kw=H+*OH-=1.0*10マイナス14乗mol二乗Lマイナス二乗  X=AC=(9.92*10マイナス11乗S.m二乗・molマイナス一乗)*(55.3*10三乗mol.mマイナス三乗)=5.50*10マイナス六乗S.mマイナス一乗…………。



 謎の専門用語。意味不明の数式の羅列。意図の読めない化学式。

 墨で描き殴られた文字は、くせのあるタッチで壁という壁の隙間を埋めつくしており、ほとんど模様――いや、芸術と化している。

 少年の脳内を現実化したような奇怪な空間。

 それは紙面を埋めつくす福音書エヴァンゲリオンの文字のようにも、悪魔崇拝オカルティズムの呪文のようにも見えた。


 あるいは、

 あるいは――不老不死に本気でいどんだ錬金術師アルケミストや、禁断の技術ブラックテクノロジーに身を投じたマッドサイエンティストの研究所ラボラトリのような、そんな狂気に満ちた世界。

 この星が病んでいるのと同じように、少年も何かが病んでいるのかもしれない。


 これが何か、理解できるだろうか?

 ヒントが――あるにはある。

 壁に書かれた暗号の中に、何度も何度も――偏執狂的へんしつきょうてきに書かれた一つの単語。





【H2O】





 水素原子と酸素原子二つの結合によって生まれた酸化物。

 ――つまり【水】である。


 この暗号が水とどうつながっているのか。答えを知るのはただひとり――少年だけである。


 

 もちろん少年は何も答えない。

 いつものように眠りについている。


 しょせん昨日と同じ一日が繰り返されるだけというあきらめと、いつか新しい明日が来るという、ほんのわずかな希望を夢見ながら……。


 それはいつもの一日の終わり。

 いつもの儀式。

 明日への、ゼンマイのひと巻き。





 だけど、どういう運命のいたずらか。

 今日の夜は少しだけ、歯車の回り方が お か し か っ た ……。








  -BLACKBOX-

―ブラックボックス―



参考資料


図説・われらの太陽系 新装版  監修/桜井邦明 出版/中央印刷・渡辺製本

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