【Chapter:01 Page027】
申し訳ありませんでした。
一ヶ月以上あいてしまいましたが、ようやく更新です。
目が覚めると、そこは奇妙な場所だった。
真四角の密閉空間。
均等に吊るされた赤と白の肉塊。
凍えるような寒さ。
そこは冷凍保存庫。食肉を保存するための場所。
肉食のケダモノを生かすための部屋。
そこに――アクチェは吊るされていた。
まるで食肉のように。
まるで供物のように。
まるで冗談のように。
だけどこれは現実だ。
そして信じがたい悪夢だ。
だって壁の周りには――
(私に御心を留め、私に答えてください。
私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。
それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。
彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。
私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています)
(よいか、いざ目が眩んで、
月は光を失い、太陽と月がひとつに集まってしまったら、
そのときこそ、さすがの人間も言うであろう。
『どこぞ逃げ場はないものか』と)
旧約聖書、時にはコーラン。あるとあらゆる宗教の言葉がびっしりと書き連ねてあるのだから。
空腹のあまり野獣は河を泳ぎ渡らん。
軍隊の大部分はヒステルに向き合わん。
――ノストラダムスだ。
とても詩的な文章だが、まるで意味が分からない。
まるで――呪文か暗号だ。
――あるいは……数式?
アクチェは――自分の小部屋に書かれている数式を思い出す。
あれは……何だろう?
自分の手が書いたというのに、自分が理解していないというのも奇妙な話だ。
そして――
――そんなこと言ったの……あなたで二人目――
サーヤ=ネストーム。
彼女は……誰なのだろう?
分からないことだらけだ。
迷ってばっかりだ。
まったく……何も見えていない。
最近見えるのは幻覚ばかり。
蝶の翅。奇妙な悪魔。いるはずのない女性……。
麻薬に毒された人間に――真実なんて見えるわけがない。
肉塊の隙間から出てきた人影が――アクチェをにらみつける。
紙袋で隠れた顔。唯一生身の部分をさらしている瞳はひどく充血していて――生という実感からかけ離れている。
それを見返して、アクチェはふと考える。
真実を見られない目だというのなら――
いっそ潰れてしまえばいいのに、と……。
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Spirit of the WormBoy
相手が何者なのかを、アクチェは知らない。
よって、ここは仮に袋男、と名づけることにしよう。
袋男の第一印象は――【異常】だった。
袋から――つまり首から――下は鎧みたいな岩肌の筋肉を冷気にさらけ出していて、腰に巻いたエプロンは長年の作業のためか黄色い脂肪と赤い血という名の汁で汚れきっていた。
クリーニングには出せそうにないね、とアクチェはつぶやく。
丸太のようにごつい腕。その手に持っているのは――肉切り用の電動チェーンソー。
……ひどく嫌な予感がする。
ここは誰もいない密室。壁に書きなぐられた、トチ狂った聖書の文献。
吊るされた肉と同じように、腕を鎖でつながれてぶら下げられているアクチェ。
そしてやってくるのは、チェーンソーを引きずる袋男というわけだ。
これでコメディを連想できるのなら、そいつは間違いなくアカデミー賞をつかみ取れるだろう。
「……何が目的?」
とりあえず、アクチェは訊いてみる。
正直聞きたくもないのだが、時間稼ぎくらいにはなる。
「…………!」
その言葉に反応して、袋男の動きが止まる。どうやら話を聞く程度の理性は残っているらしい。
だからここは一気に流れを変えてみる。
「ぼくをどうする気?」
ひどく寒くて、口を開くたびに喉が痛い。
そのまま肺まで凍りつきそうだが、それでもアクチェはしゃべるのをやめる気は無かった。
そうすれば、いつか勝機を見出せるからだ。
たとえゼロに近くとも――必 ず チ ャ ン ス は 来 る の だ 。 必 ず 。
「それでぼくを殺す気?」
「……違う」
「切り刻んで楽しむ気?」
「……違う」
腕に絡まった鎖を揺らしながら、アクチェは話を続ける。
――いける。このまま時間を長引かせれば――
「ね、ここはどこ――」
「食べる」
……え?
こ い つ 、 今 な ん て 言 っ た ?
「食べる」
聞き間違いじゃない。たしかにこいつは食べるといった。
本気で。
本心から。
それが本懐なのか。
「それ、どういう意味……?」
「神はどうしてこの世に存在すると思う?」
いきなり、袋男はそんなことを言ってきた。
奇妙な格好からは想像も出来ないほど淀みない口調で。
「神とは人の抱く幻想なる存在。高潔な魂。純粋無垢な思考。両性具有の肉体。不滅なる存在。それが神だ」
「……?」
「対して悪魔は、殺意という常識。質量を持った悪意。醜い体。万物を食い潰す虫螻。なんと惨めだ。ひどく台無しだ」
「…………」
「だが悪魔は存在する。どこにいると思う?」
「……ハリウッド?」
アクチェはつぶやいてみる。だが相手の反応はない。理性はあってもユーモアは無いらしい。
代わりに、袋男はその巨躯を供物に近づける。
肌が白く、体の細いアクチェの矮躯が、否応なく目立ってしまう形になる。
今にも圧し潰されてしまいそう……。
袋男の急な接近とともに冷気が逃げて、袋男の黒い熱気がアクチェに粘っこく絡みついてくるかのようだった。
それはまるで――
「ここだ」
人間という存在を見せ付けるかのように。
「我々は神にはなれない。悪魔とは人間の真実であり、人間を映す鏡だ。だが神とは人間の理想であり、理想であるがゆえに手が届かない」
熱意のこもった口調で袋男は話し続ける。
本気で話しているがゆえに、正気ではなくなってることがうかがえる。
宗教は人を盲目にする。
羨ましいな、と不覚にもアクチェは思ってしまった。
見えなくなったがゆえに、彼は前にしか進めなくなったのだ。
それゆえに――どこまでも突き進める。
「神は我々の中にいると誰かが言った。――ならば俺たちはどうして罪を犯す? なぜ禁忌を破る? なぜ罰せられなければならない?」
「……人間だからじゃないの?」
「神ではないからだ」
……ほら。
やっぱりもう正常じゃない。
「俺たちは悪魔だ。それは俺たちが獣の肉を食っているからだ。獣の肉を食う俺たちは獣にしかなれない。俺たちは獣であり悪魔だ。獣の肉を食う限り、俺たちは神にはなれない」
「……羊の肉でも食べてればいいのに……」
あきれ果てたのか、アクチェはそんなことをつぶやくが、袋で世界を閉ざした狂人の耳には、もうそんな言葉は届かない。
唯一の空洞からのぞく瞳だって――相手の感情を汲み取ろうなんて、これっぽっちも思ってなどいないのだ。
獣の咆哮が、凍りついたアクチェの耳を灼く。
チェーンソーの駆動音だ。
鎖で輪っか状につながれた金属の刃が、暴力を吐き散らしながら廻って吼える。
周囲の肉塊をびりびりと震わせながら、高らかに。
「喰おう。天使の肉を――」
袋男の目が、アクチェのほうを見やる。
まるで獣の目だ。化物の眼だ。
「――っ!?」
その眼で生まれる寒気は、冷凍庫のそれなど比較にならない。
アクチェは、精一杯の力で腕の鎖を外さんともがく。まるで水底に沈められたかのように。
「神なんていない! 天使だって――」
「いる」
断言。まるで真理のように。
「天使は、いる」
真理は告げる。
「――お前だ」
次の瞬間――チェーンソーの刃が、アクチェの腹に深々と沈んだ。
「……っ!! ぅあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!」
腹を灼けた火箸でほじくられるような衝撃が、アクチェの全身を駆け巡る!
痛みなんてものじゃない。
地 獄 が ア ク チ ェ の 中 を 巣 食 っ て い る 。
肌はこんなにも冷え切っているのに、体の内側が溶岩のように熱いっ。
廻る廻る。金属の刃。
「神は、みんなの中にいる」
ひっかかる皮も肉も巻きこんで、何もかもを引き裂きながら。
「俺の中にもいる」
内臓を食い散らかしながら、盛大に歌う。――袋男も歌う。まるで神託のように。
「お前も、俺の中に入るんだ」
アクチェの体を陵辱して咀嚼して刺殺して。
「そうして俺は生き残る。生き続ける。ずっとずっと……」
袋男の眼球が――闇が爛々(らんらん)と輝いている。
その眼は、どんな夢を見ているの?
びちゃりびちゃりと音がする。
湿ったカタマリが床に落ちる音。
それは腸だったり膵臓だったり――『へそ』のついた腹肉だったりもする。
なんにせよ【紅く湿った何か】であることは間違いない。
ぶらついた細い足が、びくんびくんと小刻みにはねる。まるで壊れかけた電動人形のように。
チェーンソーの回転音がようやく止まって、気味の悪い痙攣もようやくおさまる。
「……っかっ……くふっ……ぅぁうっ……!」
白い息と赤い血を吐きながら、アクチェはどうにか飛びかけた意識をつなぎとめる。
散々な目にあっているが、それなりの収穫もある。
どうやら吊るしている鎖と、腕をつないでいる鎖は別物らしい。上手くすれば腕の自由は抜けないまでも、足は使えるようになるかもしれない。
だが、失ったものの方が大きずぎた。
内臓がほとんど壊されてる。
肋骨もズタズタで、チェーンソーの摩擦のせいか一部が焼け焦げてさえいる。
痛覚が麻痺しているのが幸いだ。このまま痛みを引きずっていたら、生きていても正気を保てなくなる。
傷口の隙間から、心臓がぶるぶると震えながら血を吐き出している。
被害は甚大。たくさんこぼしてしまった。
いや――
――絶対に29年! アクチェがそう言ってたもの! おかしくない! 絶対おかしくない!――
思い出すのは、宇宙人だと言われている少女の言葉。
まだ脳が残っている。
思い出を何一つ取りこぼしてない。
それで充分。まだ負けてはいないのだから。
「ねえ……?」
アクチェは話しかける。
そのとき、初めて袋男は動揺した。
それもそうだろう。内臓の大半を失って生きている人間がいようものか。
こ こ に い る 。
「そんなに神様になりたい?」
アクチェの瞳が、まっすぐ袋男を射抜く。
澱みのない、まっすぐな瞳。
信じられるだろうか?
死にかけているのに、血反吐を吐いているというのに――彼の瞳は、世界の何にも負けてなどいないのだから。
「神様がいるのなら、どうして戦争は無くならないの? どうして病気は消えないの? 悪徳政治家の賢しいワガママに、どうして天罰を与えないの?」
かじかむ指で懸命に鎖をたぐりよせながら、アクチェは話す。必死に。
「神様が理想? それこそ思い上がりだよ。やらなきゃいけないことを全部押し付ける他力本願から生まれた――ただの幻」
袋男の腕が震えている。それは寒さからでないことは、浮き上がってくる血管からも明白だ。
「無能なんだ。神様なんて」
暴力をかき鳴らす音。――チェーンソーの歌だ。
やったぞ。
焚 き つ け て や っ た 。
「ならばお前は――何を信じるっ!」
横振りに冷気を裂いてくる金属の鎖。
それがアクチェの喉に迫って――
すり抜けた。
すり抜けたのだ。まるで空気みたいに。
一瞬、袋男は驚愕する。
なんてことは無い。アクチェが腕の鎖を解いて落っこちただけ。
袋男が薙いだのは、アクチェがいた場所――つまり空気に過ぎないのだから。
それでも状況がよくなったとはいえない。
鎖を解いたとはいえ、いまだアクチェは閉じ込められていて、冷気で体力は削がれ続けていて、しかも内臓の大半が無くなっている。
正直、凍りかけた筋肉組織に無理を言って動かしているも同然なのだ。アクロバティックな動きはまず期待できない。
何より――
倒れたアクチェの体を――影が嘗める。
見上げればそこには、巨人が見下ろしているではないか。
そう、今も袋男はアクチェの目の前にいるのだ。
逃げることなど皆無。それはもう確率だのという問題ではない。
――だから何?
アクチェの心は折れていない。心臓は傷ついているが、決して潰れてなどいないのだ。
腕に絡みついたままの鎖をじゃらりと鳴らし、アクチェはその丸い瞳でしかと相手をにらむ。
「まだ……この目で見たいものがあるんだ」
アクチェの肉体を動かすのは、筋肉でも電気刺激でもない。
空っぽになった体に渦巻く魂だ。
「それまでは――まだ死ねない」
「悪魔しかいない世界で――何を見る!」
金属刃が熱気を撒き散らしながら振り下ろされる!
それは【斬る】というより【割る】という表現が似合いそうなほど暴力的な勢い。
欠損しているアクチェに、躱すすべなどあるわけが無い。
「――決まってる」
だから、受け止める。
紅いものが飛び散った。
血なんかじゃない。
冷気を吹き飛ばす、熱い火花。
「――っ!?」
袋男は、驚愕とともにその目を見開いた。
金属の刃を受け止めるアクチェの腕。
腕に巻かれている――鎖。
そうだ。
アクチェは鎖でチェーンソーの一撃を防いでいるのである。
鉄屑を摩擦熱で紅く焦がしながら、チェーンソーは着々と鎖を齧り飛ばしていく。
さて、ここで問題である。
金属同士がぶつかると、互いに磨耗して破損してしまう。
まして高速で回転しているチェーンソーの刃ならなおのことだ。
ではチェーンソーの刃が切れたら、その回転エネルギーはどうなると思う?
ぱきん、といやな音がした。
鎖の音じゃない。だいぶえぐれてはいるが、それでもまだ半分は残っている。
折れたのは、それはチェーンソーの刃のほうだった。
複雑な構造と高速回転による衝撃がチェーンソーの刃の寿命をひときわ縮める――敗因となったのである。
それでもエンジンは生きている。
刃が切れようともくるくる廻り続ける。
アクチェの血をたっぷり吸った銀の刃は、まるでアクチェの意志が宿ったかのようにくるくる踊って――
向かう。
袋男の顔面へと。
肉と言わず骨を食い破る速度で――
「……ぅお……オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッ!!!!」
神を欲した男が、獣のような唸り声で吠える。
すでに皮膚に刃が食い込み、ほんの一瞬だけ弾力で押しとどめるも、やがて押し負けて肉の中へと――
このとき――すでにアクチェは男のほうなど見ていなかった。
床を見下ろし、静かに安堵している。
――決まってる。
そう言ったときアクチェの脳裏に浮かんだのは――
黒髪の少女。
大人みたいな顔立ちなのに、ときおり子どもっぽい顔を見せる、魔女のような奇跡。
リクシスが宇宙人と呼んだ――人間ではない存在。
一撃の、あるいは勝利の瞬間――アクチェは静かに続きを紡ぐ。
「ぼくだけの神様」
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
Spirit of the WormBoy――虫ケラ風情の深い意地