【Chapter:01 Page024】
今回の話は、BL要素を含む描写が出てきますので、苦手な人はご注意ください。
少し前――
アクチェ=ティンクレアが、サーヤ=ネストームと出会う前の話。
刑務所とは、基本的に独自のルールを持っている。
自己を制御できない犯罪者によって築かれるそれは、基本的に唯我独尊なものばかりだ。
だからこそ、そのルールは非常に分かりやすい。
――おまえのものをよこせ。
弱いものは強いものに根こそぎ奪い取られ、強いものが幅を利かせる。
それは絶対的で倣岸不遜で馬鹿馬鹿しい。そんな程度のものでしかない。
男性の脳の神経構造は、女性のそれよりも単純にできている。それは科学でも立証されていることだ。
より戦闘に適した、攻撃的な性格に形成するためのシステムといえるだろう。
攻撃に積極的な精神構造は、基本的にある感情に支配される。
情欲。本能。支配欲……。
いわゆる性欲だ。
だけどここに女はいない。
同性しかいないの環境の中で、男たちはさらに狂う。
何をするかって?
――男を犯すのだ。
簡単な話だろ?
▼△▼△▼
それはある日ある場所のある出来事――
男の子が、ふらりふらりと歩いていた。
少し痩せた感じの、まだ年端も行かない子供だった。
だけど足と足の間が白濁で汚れていて、見てみれば胸や顔も、同様のもので汚れていた。
ふらりふらり。まるで浮浪者のように。
ゆらいゆらり。まるで幽霊のように。
くらりくらり。まるで今にも消えてしまいそうに。
男の子は歩いていく。光のない、薄暗い道を。
まるで先のない、自分の人生のように。
その先に――光が見えた。
ちろちろと点滅する、LED照明の光。それは今にも消えてしまいそうなほどに、か細い明かりだった。
それでも、今の男の子には寒空の薪と同じくらいありがたいものだった。
歩幅を広げて、足音を鳴らして男の子は歩く。
近づいて――気づいた。
先客がいたのだ。光の下にしゃがんでいる子。
たぶん、男の子と同じくらいの歳だろう。
どうしよう。男の子は迷う。
この刑務所では、自分の領地というものに異常なほどこだわる。
自分の座った場所、自分の寝るところが自分の、自分だけの居場所なのだ。
他の人が入るのを徹底的に嫌い拒んで排除する。
こうして目の前にいるだけでも目をつけられて、怒鳴られるかもしれないのだ。最悪、殴られるかも……。
と、ここで気づく。
先客の匂いに。
腐った魚みたいな匂い。
ひどく、生臭い。
それはまるで、男の子にこびりついた白濁色の……。
「…………」
勇気を出して、男の子はギクシャクした動きで近づいて、埃まみれの床におしりをつけてみる。
「…………」
先客が男の子をにらみつける。
いや、にらむというには気力がない。むしろ警戒と呼ぶべきだろう。
警戒じみた眼は興味の目に変わり、興味の目が男の子の白濁に気づいて同情の瞳に変わり、同情の瞳は労わりで細まった。
先客の警戒と男の子の恐怖は、ここで氷解。
小さな陽だまりの下に場所を分け合って、そのまま時間をすごしていく。
「……何人?」
それが先客の、最初の言葉。
それは、今日相手にした【お客様】の数だ。
男の子は黙って、二本の指を伸ばす。
「ふたり?」
「十五人」
「指と合ってないんだけど……」
「四捨五入だもん」
「理屈的屁理屈じゃない?」
あきれてる口調だけど、顔は笑っている。
どうやらこの先客は、悪い人ではないらしい。
「君は何人なの?」
男の子が話しかけると、先客は薄く笑う。
「二十人目からは数えてないよ」
まるで、くだらない現実だと笑うように。
あるいは、さっさと箱にしまうように。
「お疲れ様」
「お互い様」
二人は互いをいたわって、再び時間を共有しあう。
別になんてことのない、ごく平凡な時間の流れ。
男たちにかき回されて、汚いベッドの上で乱れていた時間に比べれば、ひどく遅滞で退屈に違いない。
だけど、男の子はこのゆったりとした流れを、知らず知らずのうちに楽しんでいた。
この時間が、もっともっと続いたらいいのに、と。
「ねえ」
もっといっしょにいたい。もっともっとつながっていたい。
そんな思いが、男の子を突き動かしていた。
「僕はね、ゼスヌーアって言うの」
変わった名前だね、と先客は笑ってくれた。
「君の名前は?」
先客は答える。
「……吾輩は猫である」
「?」
「名前はまだ無い」
「何それ?」
男の子は笑う。
だけど、先客は笑わなかった。
「分からない……口から勝手について出た」
ま、いいや、と先客は肩をすくめた。
「とりあえず名前か……。えーと、ジョン=ドゥでいいや」
「……それ、死体に使う名前だよ?」
身元不明の遺体につけておく名称だ。いくらなんでも縁起が悪い。
「じゃあ、ジョン=スミス」
「偽名の代名詞なんだけど」
「ならポチ」
「人ですらないんだけど!?」
「お父さんって呼んでいいよ」
「あんたなんかパパじゃない!」
「……なかなかノリがいいね」
「うるさいなあもう!」
変な冗談。
だけど男の子は、すっかりこの先客を気に入っていた。
このポジティブさは、この刑務所では貴重だ。
強者の重圧で命を絶つものは、けっして少なくは無いのだから。
死なないといいな、と男の子は願う。
「名前、無いの?」
まじめに、男の子はたずねてみる。
「……今、切らしてるの」
冗談まじりに、先客は答える。
冗談を交えるのは、たぶん彼の自己防衛なのだろう。他人が中に入ってくるのを拒んでいるのかもしれない。
さびしさに痛む心を隠して、男の子は話しかける。
だけど先客は「もう帰るよ」と立ち上がろうとしていた。
もう少しそばにいたいのに……。
「こんなぱさぱさのままでいたくないしそろそろ……痛っ」
先客が顔をしかめて自分の手首をつかむ。
指の間から漏れてくるのは――血の赤。
まるで椿のようにはらはらと落ちてくる赤。
見てみれば、配電盤の扉がねじ切れている。その破片で手首を切ったのだろう。
どうしよう。どうしよう。
男の子は戸惑う。
こんな刑務所に衛生用品なんて気の利いたものは無い。服を千切れば、とも思ったがこんな雑菌だらけの布を使ったら、どんなものに感染するか分かったものじゃない。
だから、だから……。
男の子は先客の腕をつかんで引っ張った。
先客が何か言っているが聞く耳持たず、ただ感情のままに――
傷口を咥えた。
「……っ」
先客が顔をしかめる。
それは困っているようにも、喘いでいるようにも聞こえた。
「…………」
男の子は、口の中で舌を動かして、溢れる血を全部舐めとっていく。
ひざまずいたまま、ただ思いのままに。
唾液には、皮膚細胞の分裂を促進する成分が含まれている。
それに殺菌の役割もあるから、この場ではもっとも効率的に治療のはずだ。
んく、と赤い液体を飲み干す。
……苦い味。
喉がぬとぬとしてくる。彼の血で濡れていっているのだ。
――喉が裏側から犯されていくような気持ち。
「ちょ……やめ……」
先客が声を荒げる。怒っているようだけど、少し語尾が弱い。
「……はなしてっ」
先客が、男の子の肩をつかんで、傷口と舌を引き剥がす。
ふあっ、と間抜けな声を上げて、半開きの目が傷口と舌をつなぐ糸をとらえる。
けどそのか細いつながりも、乱暴な引き剥がしによってちぎれて消えてしまった。
荒い呼吸とともに、先客は手首をつかんでいる。
「……ごめん」
先客の顔は赤い。
怒っているようだけど、その瞳は潤んでいるようにも見えた。
「ここまでしなくてもよかったのに……」
「でも、手首切ってたよ? けっこう深かったし……」
「心配ないよ」
「でも……」
ほら、と先客が手首を見せてきた。
そこにはざっくりと一条の傷が――無かった。
かすかな血の跡と、男の子の嘗め回した唾液がねっとりと付いているだけの手首だった。
まるで陶器みたいにすべやかな肌が、男の子の目を縫いつけている。
見てみれば、先客はとても若々しかった。
年齢とかではない。二十人以上の男たちに振り回されて疲れ果てているはずなのに、全身の力はまるで枯れていない。まだ余力があって、しかもそれが尽きない印象を受けるのだ。
まるで、時が止まっているかのように。
……どうして?
「…………」
ね、と先客はつぶやき、ゆっくりと立ち上がる。
ひざまずいたままだった男の子は、自然と見下ろされる形になる。
「ちょっと変わってるんだよ。ぼくの体」
先客の名前は、アクチェ=ティンクレア。
彼の体の秘密を――まだ誰も知らない。
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―――――――――――――――――――
The Human Being Industrial Waste
現在――
響き渡るのは、ひどく独りよがりな暴力の音。
「う、動くなァッ!」
銃声よりもひどく耳障りな声で、男が叫ぶ。
いい年の、頭のハゲた中年男性が震えた手で銃を構えるというのは、あまりサマにならない。
何をしているのか、と少年――アクチェは考える。
少年は、いつものように、人工栽培施設から採れたジャガイモを剥いていた。
それはいつもの労働。単調な作業。
その流れが、銃声とともに断ち切られた。
銃を持った男の乱入で、あたりはパニックになっていた。
ここが普通なら、すぐに警察が駆けつけてくれるものだが、ここは刑務所だ。
いるのは人質と見学人だけ。給仕室の外から、男たちが面白いショーだと見学しているのだ。まるでローマのコロシアム。
誰かが銃を奪い取ってくれないものかとも思ったが、給仕室にいるのは仕事を押し付けられた弱者ばかり。
体が弱いものや、精神的に不安定な人。単身で乗りこむヒーロー気質な人間がいるわけが無い。
人質になった給仕室の人間たちは、みんなひざまずかされて手を頭の後ろに回されている。少年も同様に。
机の端にあったボウルが、バランスを崩してカランと落っこちる。
その直後に、けたたましい発砲音が鳴り響いた。
人質たちが、高い声で悲鳴を上げる。女みたいだと笑われるかもしれないが、悲鳴というのはどうしても発音が高くなるものだ。
「う、ゥ、ウ、動くと撃つぞっ!」
撃ってるでしょ、と少年は心の中でツッコんでいた。
吃音――いわゆる声がどもるのは、自信がない人間の特徴ではなかっただろうか。
まあ、ここにいるのはたいていそういう人間だ。
自分に自信が無い。
自分をもっとアピールしたいけど、それができない。
積もっていくストレス。
高まっていくジレンマ。
やがて感情が爆発して、異常な行動へと駆り立てる。
殺人へのプロセスなんて、そんなものだ。
――弱いから人を殺す。
「…………」
少年は、なるべくばれないように男の拳銃を目で調べる。
輪郭。デザイン。特徴……。
それから、別の方向に目だけを向ける。――それは弾痕。
壁にめり込んだ弾丸を見ながら、少年は思案にふける。
(……弾丸が潰れてる。たぶん、跳弾防止のための軟頭弾なんだ。撃つときに火花が散らなかったし、薬莢が転がらなかったから、たぶんモーター射出式。エアガンと構造は同じだけど、射出スピードが段違い。――十発以上撃ってるのに弾倉を交換してないから、たぶん複列弾倉タイプ。モーター式の玉は小さいから、銃に入ってる装弾数は銃本体にスロットしてる分も含めて――推定25発前後)
生死の狭間にいながら、少年はきわめて冷静に敵の銃の構造を把握していっていた。
少年自身に銃の知識が無いにもかかわらず。
(メンドくさいなぁ……)
しかも結論がひどすぎる。
(今のところ、人を殺すっていうより、自分が優位に立っているんだってアピールしたいだけみたいだし、あれだけ撃ってたら弾切れになるのはそう長くないだろうし……)
何より――
少年は気になっていることがあった。
――あの拳銃はどこで手に入れた?
「あのー……」
ためしに少年は話しかけてみる。
直後、少年の横でキャベツがはじけ飛んだ。その距離、わずか10センチ。
男が驚いて引き金を引いてしまったのだろう。ひどく短絡的だ。
「…………」
キャベツまみれになってジト目のまま、少年は交渉を試みる。
「何でこんなことを?」
まずはつなぎ。ここから話を拳銃の入手経路にスライドさせていけばいい。
すると、男は顔を真っ赤にさせて叫んでいた。
「お前たちが何もしてくれないからだ!」
再び発砲音。今度はピーマンが吹っ飛んだ。世の子供たちの喜ぶ声が聞こえてきそうだ。
「この間、お、おおお、俺は踏まれたんだ! 分かるか? さ、三人にだぞ!? 俺が叫んでも、助けを求めても、お前たちはな、何もしてくれなかった! 無視だ! 俺を虫けらみたいに見てたんだろ!? だから、だ、だから、俺は自分で解決させるって決めたんだよ。分かるか? 分かるだろ?」
いちいち【分かるか】と訊かないで欲しい。自分の言葉に自信を持っていない証拠じゃないか。
しばらく彼は、関係のない事柄を話し始める。自分の人生。輝かしい過去。懐かしい思い出……。
彼の職歴まではまだ達していないが、彼の仕事はきっと学校の校長だったに違いない。話が長すぎる。
これでは、銃の入手経路は聞けそうにない。
しかし立てこもりの動機は明らかだ。ようは仕返しである。
助けもしなかった我々に対しての。
(なんだかなぁ……)
少年は心底めんどくさそうに、心の中でため息をつく。
仕返しができれば、誰でもいいのだろう。
少年たちと仕事をしていても、知り合いなんても思ってもいないはずだ。
名前を聞こうとしない。知ろうともしない。
彼は自分のことしか見ていないのだ。
――それにしても、銃なんてどうやって?
誰が? どこに?
目的は?
――余興か?
誰が考えたか知らないが、ひどく悪趣味だ。
どこかの誰かがこっそり拳銃を落としておく。
ここは刑務所だ。交番に届ける善人なんていない。
ましてや、拳銃を有効活用したくなる動機はいくらでもある環境なのだ。
狂気は文化や状況では生まれない。狂気とは人間が生み出すもの。
あの中年男は、哀れな供物なのだ。
観客を楽しませるためだけの、使い捨ての剣闘士。
彼の机に転がっている鶏の亡骸は、さしずめ生贄といったところか。
(ぼくらを含めてね……)
ナノマシンの麻薬といい拳銃といい、この刑務所はどうかしている。
どうしたものかと少年は考える。
とりあえずは時間をかけてじらしていくしか……。
「そんなのおかしいだろ」
突然の声。
「何で俺たちなんだよ」
また同じ声。
見てみれば、人質の一人が口を出してきていたのだ。
「お前、仕返ししたいんだろ? 何で俺たちを殺すんだよ」
手を上げて無抵抗を示しているが、態度はひどく反抗的だ。
(ダメだよ……)
「おかしいだろ? 俺たちなにもしてねえのにさ」
(やめて……)
「強い奴殺す度胸がねえから俺たちに銃向けんだろ? ダッセえ」
(それ以上刺激したら……)
「う、うううう、うるさい……」
男が震え始める。吃音がひどくなっている。興奮している証拠だ。
この手のタイプは、自分の間違いを認めたがらない。侮辱された気になってしまうのだ。割れかけた水風船を針でつつくようなもの。その結果は……。
「ダメだ……」
少年はつぶやく。
「俺に拳銃貸せよ」
「ちょっと待って……」
「あんたが憎んでる奴も殺ってやっから――」
「それ以上言っちゃダメだ……」
少年は小声で制止するが、相手は聞こうともしない。自分が正しいといわんばかりに。
「さっさと俺の言うこと聞けよ!」
「やめろ!」
それが、起爆剤となった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!!!!!!」
少年は見た。
男から角が生えていくのを。
男の肌が黒く変色していくのを。
男の顔が醜くただれていくのを。
それはパフュームによる幻覚なのかもしれない。
いずれにせよ、男の狂気が表面化した兆しだった。
きィりきィりきィり……。
まるで空気を噛み千切るように、弾丸が狂ったように笑ってる。
そのまま口を開いて、人質の体が食いちぎられていった。
黒い怪物は食事を続ける。
誰かが頭を撃ち抜かれた。脳みそと脳漿と目玉に分解された死体が転がった。
誰かが四つんばいで逃げていた。撃たれた。動かなくなった。
誰かが格子ごしに喜んでいる。格子を何かがすり抜ける音がした。人が死んだ。みんな喜んだ。
誰かが泣いている。それは笑っているようにも見えた。どっちにせよ怖がっていた。
少年はその場に伏せて、銃撃の狂気をどうにか避けていた。
そこらかしこをいろどる赤。
ステンレスの銀や、錆びの茶や、カビの黒や、腐食の緑など、さまざまな色を一気に食いつぶす色だった。
赤が笑う。銅が狂う。赫は歪む。
紅、香、交、幸、好、恍……。
笑え笑え笑え笑え笑え……。
少年は気づく。
黒い怪物が狙う先――次の獲物。
元の色が分からない囚人服をまとった男の子。指先だけで折れそうな矮躯の子供だった。
銃口ににらまれて、逃げたくても逃げられないでいる。おびえた目で相手を――運命を見つめることしかできないでいた。
パフュームのせいか、像が歪む。
その男の子からは――翅が生えているように見えた。
それはなんとも見事なアゲハチョウの翅。
見るものを魅了してやまない――
見事な見事な『青』だった。
暴力の音が、全てを引き裂いた。
怪物が驚く。
男の子が驚く。
少年は――
手にしていたまな板で、男の子の胸に向かっていた弾丸を受け止めていた。
「まな板は……刃物を通さないからね」
弾丸もかな、と言いながら男の子の前に出る。
それはまるで――ヒーローのように。
一気に舞台は冷め切っていた。
少年の突然の乱入に。
野次を飛ばしていた観客も、静かに事の顛末を見守っている。
間違っていた。
何とかならないかな。どうにかしてくれないのかな。
他力本願な考えが間違いだ。解決させられるのは自分だけだ。
それなら自分でやろう。止めてやる。
あんたの息の根を止めてやる。
「お客様。大変申し訳ありませんが、お店から出ていただけませんか?」
まるでウェイターのように、からかうような口調で少年は笑う。
親しみさえ感じられるその笑みは、この殺戮の場においてはひどく不気味なものだった。
「来るなっ!」
男は引き金を引く。
穴が開いた。
少年の胸に。
「……痛いんですけど?」
なんでもないことのように、少年は歩く。
まるで奇跡のように。まるで冗談のように。
「……ひっ!」
もう一度発砲。
今度は頭。
額に穴が開く。
足は止まらなかった。
少年の影が伸びて、男を濡らす。
「来ないでくれぇっ!!」
何度も何度も銃が狙う。
肩が抉れわき腹から血が吹き出て掌が砕けるが、それでも少年の進攻は止まらなかった。
場は、一気に静寂に包まれる。
響くのは、少年の足音だけ。
足音だけが、ひどく高らかに響き渡る。
少年は武器を持っているわけではない。
殺気を振りまいているわけでもない。
ただ、歩いているだけ。
相手は銃を持っている。
それなのに……。
どうして少年のほうが恐ろしいのだ?
「ぅああああああああああああああああああっ!!!!!」
締め付ける恐怖が爆発して、男は最後の弾丸を放つ!
だが震える手では狙いがそれて、近くのニワトリの死体に当たっただけだった。
白い羽根がふわりとはじけて、まるで雪のように空にこぼれる。
少年を祝うようにゆらゆらゆらゆらと……。
それはまるで、天使のような……。
「あ、あ、ぁあ……」
男はがっくりと腰をぬかす。
自分の力が、自分のものだったはずの力は借り物で、しかもそれすら通じないなんて……。
そんな目の色――絶望の色をしていた。
その開いた眼が、少年の姿を映す。
自然と、少年が見下ろす形になる。
照明のせいで、少年のふちが輝き、それ以外が影に包まれている。
影の中で瞳だけが鈍く、けれど鋭く輝いている。
それはまるで、悪魔のような……。
「お前は……一体何なんだ?」
思わず、そんな言葉が男の口からついて出る。
特に意味のない、心中からの疑問を言葉にしただけ。
少年に名はない。
だけど考えて、口を開いた。
そして言う。自分の名を。
「――アクチェ。アクチェ=ティンクレア」
少年は――アクチェは男から拳銃をむしりとった。
「これ以上、ナメられるの嫌だから」
アクチェの声は、まるで氷点下のように冷たい。
「……さよなら」
「……え?」
いきなりの言葉に、男は唖然とする。
まさか殺す気……。
「ぼくは殺さないよ。こういうの、好きじゃないから」
その言葉と同時に、周りがざわめき始める。
人質が立ち上がっているのだ。まだ撃たれていない、あるいは急所を撃たれていないもの。
ゆらりゆらりと足取りはおぼつかないが、男を見下ろすその瞳だけは、怨嗟と憎悪でひどく煮えたぎっているではないか。
恐怖が男を囲んでいく。逃げ場のない絶望を与えてやろう。
締め付けられる殺意に男は震え、アクチェを見やる。
返事は、ひどく冷たい哀れみと侮蔑だった。
「……助けもしないけどね」
まるでアクチェの言葉を契機としたように、人質たちが力を失った男につかみかかる。
引っ張る、と言うよりは毟り取るように腕を引っ張ったり、あばらを折る勢いで腹を踏みつけたりと、まるで憎らしい害虫を潰すように男をリンチしていくではないか。
盛り上がってきたのか、観客たちも輪に混じって何度も何度も肉塊を踏みつける。
人々の隙間から見えた男の顔は、すでに鼻よりも高く膨れ上がっていたが、誰も止める気配はない。
というより、誰も止める気はないだろう。おそらくは事切れても陵辱は終わらない。
止める警察官も倫理も道徳も、ここにはありはしないのだから。
たぶん、見てみぬふりをしている自分は最低だ。
それこそ、今リンチをしている人たちよりも。
きっと、ここから逃げ出そうとしているのは――もっと最低なのだろう。
アクチェと名乗って、こんなことをしたのは自分じゃないと逃避しようとしている自分もまた……。
「…………」
アクチェは、男の子の手を引っ張って、その場を後にした。
▼△▼△▼
「……大丈夫?」
少しはなれたところで、アクチェは男の子に話しかける。
「うん、平気。ちょっとすりむいたくらいだから」
そっか、とアクチェはつぶやいた。
「あんまり怪我してないからよかった。大事な商売道具だもん」
商売道具とは、たぶん自分の体のことだろう。
体を売って、相手からお金の代わりに食料をもらうのは、このあたりでは生き抜く手段の一つだ。
「怪我してちゃムードでないもん。……あ、ホータイ巻いてプレイしたら盛り上がるかな?」
「……さぁ」
そういう方面に興味がないので、アクチェは相槌だけ打っておいた。
襲われたことは何度かあるが、だからといって興味を持つとは限らない。
「ねえ」
男の子が、話しかけてくる。
「ん?」
「名前……アクチェって言うんだ?」
「……まあね」
「変な名前だね」
「ゼスヌーアに言われたくはないよ」
「……覚えてたの!?」
男の子――ゼスヌーアは驚いたように声を上げた。
あれから話す機会もなかったし、気まずい別れだったので正直嫌われているとさえ思っていたのだ。
「そりゃそうでしょ。ぼくの手首あれだけ嘗めた人だし」
「うう……あれは……」
「あれは、ちょっと困ったよ。唾の匂いが結構キツいし」
「ごめんなさい……」
なんていうかさ、とアクチェはつぶやいた。
そして、言った。
「君の匂いが取れないんだ」
その言葉が、ゼスヌーアの世界を満たす。
「……そうなんだ……」
「……そこは謝らないんだ」
「…………」
ま、いいけどね、とアクチェは銃を見つめる。
「いる?」
まるでお菓子でも勧めるように、アクチェを銃を差し出してみる。
ゼスヌーアは首をぶんぶんと振りまくって遠慮していた。当然といえよう。
「しょうがないか。……うちの下駄箱に飾るよ」
下駄箱どころが玄関もない小部屋だが、とりあえず銃一個置くスペースくらいはある。
アクチェは帰ろうとして――
「ねえ」
再びゼスヌーアに呼び止められる。
何――と振り返ろうとして、その口をふさがれてしまった。
ゼスヌーア自身の唇で。
柔らかい感触。唇の間から漏れる、熱い吐息。奇妙な時間の共有……。
一秒、二秒、三秒……。
たっぷりと時間をとって、唇が名残惜しそうに離れていく。
ほう、と息をはいて、少し潤んだ瞳で男の子はつぶやく。
「これはお礼」
「……それはどうも」
どう答えたものか、アクチェはそうとだけつぶやく。
何この展開? 禁断の園を歩めと? 堕天使になれと?
「あのさ、ぼくは――」
アクチェが言おうとした途端――
ギロチンが降りかかってきた。
正確に言うならば、それはシャッターだった。
火災を防ぐための、超合金製の防壁。
しかし人が通ることを考えて、シャッターの下降速度非常に遅々としたもののはずだ。
なのに、アクチェの目の前に下りてシャッターはひどく早い。早すぎる。そこに首を挟んでいれば確実に首が切れるだろう。ギロチンと称したのはそのためだ。
シャッターは、アクチェとゼスヌーアを引き離す形で降りてきていた。
事実上、アクチェは孤立した形になる。
「これで話ができるわ」
突然の声。
からかうような、楽しんでいるような女の声が、後ろ――闇の向こうから届いた。
緊迫していく空気の中、アクチェは重い口を開いた。
「えーと、どなた?」
…………。
「……緊張感がないわね」
「同性に唇を奪われた衝撃には負けません?」
声の主はしばし考える。
「……勝てる気がしないわ」
「でしょ?」
「だけど興味は湧くはずよ。アクチェ=ティンクレア」
その言葉に、アクチェは身構える。
どうしてその名前を知っている?
知っているのは教えてくれたサーヤと、自分だけのはずなのに。
「ぼくを知ってるの?」
「勿論」
「……あなたの名前は?」
「名乗る理由があるの?」
「言わないなら茶亜羅とか舞久とか、将来面白がられそうな名前をつけますけど?」
「分かった! 名乗るから待って!」
この人、意外と抜けてるな。
だけど闇が名乗った瞬間、アクチェは驚かずにはいられなかった。
「私の名前はリクシス。――この刑務所の管理者よ」
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
The Human Being Industrial Waste――人間産業廃棄物