【Chapter:01 Page023】
金星。
かつて地球との双子星と呼ばれていた太陽系第二惑星。
460℃もの灼熱を抜け、
濃硫酸の雲を抜け、
二酸化炭素の大気を抜け、
自然のものではない金属の壁を越え、
錆びついた鉄パイプの列を越え、
そのまま闇の奥の奥の――さらに奥底を突き進み――
たどり着いたのは、狭い狭い箱の中。
そこはいわゆる小さな小部屋。
そこにひっそりとおさまっているのは、一組の少年少女。
少年の名は、アクチェ=ティンクレア。
少女の名は、サーヤ=ネストーム。
名前とは記号であり、名称であり、己の存在の証明だ。
金星が、金星と呼ばれているように。
人間が、人間と呼ばれているように。
だけどアクチェは、少年は――
この名前をまだ、認めていない。
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―――――――――――――――
Exogenous Endogenous
男が死んだ。
あのネズミもどきだ。
それなりに、驚いた人はいた。
彼は嫌われていたが、好かれている人もいたからだ。
けれど悲しむ者はいなかった。
代わりに喜ぶ者がいた。
その両方に、危険が自分に降りかかるかもしれないと危ぶむ者が現れた。
しばらくして、なるべく輪から遠ざかる人々と、結託を組む人々に分かれた。
さらにしばらくして、ただの噂となって消えていった。
別に知人というほど親しくはない。
けれど、他人と呼ぶほど遠い存在でもない。
この刑務所の人となりは、むなしいくらいに宙ぶらりんだ。
誰かが死んでも無感動で。
他人に関して無頓着で。
そのくせ自分のこととなると必死になる。
まるでどこかの街みたいだ。
少年は、そんなことを思うことがある。
こんな言葉がある。
自殺する人間は強く、殺人鬼は弱い。
それはなぜか。
人に傷つけられた人間は、自分を傷つけるようになる。
――自分が悪いんだ。自分のせいだ。
そうして自分を責めていくうちに傷が膨らんで言って、最後には自分自身を壊してしまう。
それが自殺。それが死だ。
だけど、自分を傷つける度胸がなかったら?
痛いのが怖くて、そのナイフをふるえなかったら?
膨らんでくる傷を、どこにぶつける?
――自分以外。
他人を傷つけて、人は思うようになる。
自分は悪くない。
――自分を正当化していく。
悪いのは死んだあいつのほうだ。
――自分を守るようになる。
花瓶を投げろ。いすを壊せ。包丁を振り回せ。
自分に命令して、自分を操り、殺人を繰り返すようになる。
まるで、手首を剃刀でなでるように、作業的な……。
弱いから、うそをつくようになる。
そう、つまり……。
殺人鬼とは、うそつきなのだ。
鈍い音と、やかましい音が響いた。
最初の鈍い音は、殴られた音。
次の音は、殴り飛ばされた相手が、ステンレス製の棚にぶつかった音だった。
立ちこめる湯気。
緑やオレンジの皮の山は、調理加工の残骸である野菜の成れの果てだ。
ここは調理場。
刑務所囚人の食料を作るための場所である。
囚人が囚人の料理を作る。
看守も制御コンピュータもないこんな場所で、誰が作るのか?
簡単だ。
強い囚人が、弱い囚人に作らせる。
そしてその弱い囚人の中でも上下関係が生まれて、格差が生まれる。
だから荒事揉め事は日常茶飯事だし、止めるものもいない。
だから自然と激化する。
その中で少年は、弱い部類の立場だった……。
「っ痛……」
うめいて立ち上がるのは――少年だった。
「ふらついてんじゃねえよバァカ!」
悪態をついて、大男が寸胴鍋を抱えながら横に歩いていく。
力はあるが頭が弱い。強い囚人たちにおだてられて、見張り役を気取っている。
自分が利用されていると気づかないタイプの人間だ。
念のため言っておくと、少年が何かしたわけではない。
ただ運悪く、大男の前にいただけだ。
それだけで殴られた。
まるで田舎のチンピラのような絡みようである。
もっとも、大男の罪状は暴力関係なので、あながち外れていないかもしれないが。
少年にとって、何一つ変わらない日常。
ネズミもどきがいなくなったって、少年を嬲るものはまだいるし、状況がどうかなるわけでもない。
少年の世界は真っ黒のままだったのだ。
(この世に悪とヤブ蚊が絶えることなんて無いんだろうなぁ……)
そんなことを心の中でぼやきながら、少年は立ち上がって、こぼしたジャガイモを拾う。
ちなみに、サーヤはつれてきていない。
こんな男所帯――しかも前歴アリ――に少女を連れこんだら、エイリアンの檻に赤子を置くよりも悲惨な目にあってしまうのは自明の理だと判断して、少年が説得したのだ。
現実には、もっと悲惨な状況になってしまうだろうことを少年は知らないのは、幸せなのか失態なのか。
「…………」
ふと、少年は拾い上げたジャガイモを眺めてみる。
循環装置を何万回通りこしたかもう数えられないリサイクル水と、アンモニアやその他化学物質との電気分解によって作った人工肥料の組み合わせで生まれた、輪廻転生を繰り返す農作物。
何回輪廻しても、決して運命の変わらない存在。
――まるで自分たちだ。
どこか苦い現実の味に、少年は自嘲した。
どこかで、また鈍い音が響いてきた。続いてけたたましい音。
それから聞こえてくる叱咤の声。
どうやらまた、大男が誰かにぶつかったらしい。飽きないものだ。
大男は、小さくうずくまっている中年の男を何度も何度も踏みつけている。
死ね死ね死ね死ねと、語彙の乏しい罵倒を並べながら。
一方、虐げられている男のほうはごめんなさいごめんなさいもうしませんからと、謝罪の言葉をまくし立てる。
しかし実のところ、互いの行為は一方通行でしかなく、相手のことなど考えていない。
どちらも自分の欲求を満たしたいだけにすぎないのだ。
片や、殺してやりたい。
片や、もう止めて欲しい。
一方通行の踏みつけと、一方通行の平謝りは交わるわけもなく、非常な暴力は止まらない。
肉を潰す勢いで踏む。
骨を砕く勢いで踏む。
血を汚す勢いで踏む。
全てを壊す勢いで踏む。
踏む踏む踏む踏む。否定したくて踏み続ける。
ひどいな、と少年は思う。
だけど止めない。止められない。
悲しいかな、自分の実力は知っている。
それに止めたところでどうにもならない。
彼は無力な市民なんかじゃない。犯罪者だ。
救う理由にはならないし、救える力もない。
彼に対してできることなんてせいぜい……。
見捨てることだけだ。
▼△▼△▼
どんな労働にも終わりがある。
どれだけ嫌なことだって、いつか幕が降りるものだ。
もっとも、時計の針がまた回れば幕を上げることになるのだが。
それでもまだ時間がある。
証明がほとんど死んでいて、闇と緑のライトが交じり合った気味の悪い一本道を、慣れた足取りで歩いていく。
早く自分の部屋に戻ろうと少年は歩いていて――
誰かと横切る。
相手はふたり組み。
服装はどちらも変わらぬ、刑務所仕様の質素な服。
一方は三十代の男。一方は年端もいかない子供だった。
この刑務所は、未成年も区別無く同じところに放りこむ。重量無差別級の犯罪者版だとでも思えばいいかもしれない。
年齢別の男が並んでいることに、疑問はない。
――たとえ手を組んでいても、だ。
この刑務所に女がいない。
それでも体から湧き出る欲求を止めることができない。
世の中には、そういう男がいる。
そして最悪なことに、そうなったが最後、誰でもいいから自分の欲望を納めてくれとあがく人種が世の中に入るのだ。
――たとえ相手が女でなくとも。
だから未成年犯罪者の中から、体が細くてきれいな顔をしたタイプを選んで――愛でる。
それがすでに、ここでは暗黙の了解として成り立っている。
未成年の連中もそれに同意した。
なぜ変態の慰みものになることを望むのか?
理由は簡単。優遇されるからだ。
せっかくのカラダに傷がつかれては困る。
だから男たちは、自分のパートナーを守るよう努力する。食料だって分けてくれる。
男がボディーガード兼召使になってくれるというわけだ。
(エイズになっても知らないよ……)
少年は、こういう光景をたくさん見てきた。
男の耳障りな嬌声と、相手の演技的な甘い声の二人合唱を壁ごしに聞かされたこともある。
だけど、そんなものに少年は惹かれない。
興味はないし、どうでもいい。
だけど、思わず目を惹かれていた。
相手の男の子。
――彼の背中から生えた二枚の翅に。
…………?
翅、だった。
見間違えようがない。
あれは翅だ。
蝶の翅だ。
二枚一対。黒ぶちに、青い宝石をちりばめたような色の翅だった。
少年は、思わず翅を生やした男の子の顔を見てしまう。
別になんてことのない、客商売独特の仮面じみた甘い笑顔。
けれど緑のライトが肌を照らしていて、まるで宇宙人みたいだ。
時代は23世紀。
太陽系を蹂躙する時代になっても、まだ人類は地球外生命体を見つけられないままでいる。
その宇宙人を、少年は見つけたのかもしれない……。
二人組はそのまま少年の肩をそのまま横切り、むき出しになった背中が少年の瞳を灼いてくる。
……やはり翅だ。
背中から翅が生えている。
……どういうことだ?
少年は思う。
何かがおかしい。
何が?
これは何?
何かの幻覚?
幻覚……?
幻覚……。
幻覚、という言葉に少年は考える。
あった。
思い当たりが。
それはネズミもどきに殺されかけたとき。
彼は確かドラッグを摂取していたはずだ。
ドラッグの名はパフューム。
かつて、この刑務所にいたエフ博士なる人物がばら撒いた、謎の麻薬だ。
おそらくは、刑務所にいるほとんどの人間が、この麻薬を吸っているだろう。
あの時、少年も吸ってしまっていた?
だからこんな幻覚を?
あーあ、と少年は額をたたく。
かわいらしい顔にそぐわぬ、オジさんくさいリアクション。
まるでヤブ蚊にさされたような気楽さだが、それなりに落ちこんではいる。
……ここで、疑問が残る。
少年は女の子のような顔立ちをしている。
なのになぜ、こんなに虐げられているのか。
なぜパフュームを吸わないのか。
答えは簡単。
そういうものが大嫌いだからだ。
▼△▼△▼
「…………」
少年は、小部屋の中に入る。
「おかえり。アクチェ」
突然の声に、少年はあたりを見回してみる。
すると、いた。
「……サーヤ……」
彼女が。
壁に背中をつけて体育座りで少年をじっと見ていた。
上目づかいで、目の下に染み付いた隈があるせいか、何かのホラー映画っぽくて怖い。
「何で壁際にいるの?」
「……ここにいると落ち着くの……」
ゴ〇ゴ13じゃないんだから、と少年はつぶやいて、ふと気がつく。
「ぼくが出るときもそこにいなかった?」
「……いたよ」
「ずっとそのまま?」
「……うん。まぁ、そうかな……」
「運動不足でメタボになるよ?」
その場に座りながらサーヤに目を合わせ、少年は苦笑する。
「……ごめん。アクチェ……」
サーヤの顔が、胸にくっつけた膝の海に沈んでく。
落ちこんでいるのだ。
「気にしなくていいよ。あと、ぼくはアクチェじゃない。ただの名無しの権兵衛さん」
「……アクチェはアクチェだよ……」
ぼそりぼそりとサーヤはつぶやく。
基本的に、サーヤの声はとても小さい。
そのくせ、発音がしっかりしてるので、聞きにくいということはないから不思議なものだ。
「前から気になってたんだけど、そのアクチェとキミって、どこで出会ったの?」
問われて、サーヤは目をそらす。
斜め上に目を泳がせているのは記憶を探っているのだろう。
「……ソビ、何とかだったと思う」
どうやら思い出しきれなかったらしい。
「そっか。……それじゃあ、いつ出会ったの?」
二年前? 三年前? とりあえず、自分の年齢を考えて選択肢をふってみる。
ちなみに、少年の年齢は15。
これ以上下げたら、サーヤがショタコン決定してしまう。
「……わかんない……」
顔にそぐわぬ、子供っぽいしゃべり口調でサーヤは首を振った。
「年号で分からないかな? それである程度計算できるから」
囚人たちの世間話の盗み聞きから察するに、現在は西暦2247年。
ここから割り出せば、少年がいつ記憶喪失になって、この刑務所に連れこまれたのかが分かるかもしれない。
サーヤのいうアクチェと、少年自身が同一人物ならの話だが。
しばらく考えて、サーヤは思い出したという風に口を開いた。
「1929年」
そう言った。
せんきゅうひゃくにじゅうきゅうねん。
確かにそう言った。
「29年……で良かったかな? 28? ……ううん、29。……29年」
確認によって、さらに確定される。どうやら間違いないらしい。
でも、それは……「おかしいよ」
思わず、心の声が外に出てしまっていた。
「ぼくの体は確かに変わってるけど……でもドラキュラじゃない」
だけどサーヤはひかない。壁と一体化していた背中をはがして、少年のほうに前のめりになる。
「絶対に29年! アクチェがそう言ってたもの! おかしくない! 絶対おかしくない!」
これまでの口調とは打って変わって強気な態度で前に出てくる。自分のことより、アクチェのことを悪く言われて怒っている風に見えなくもない。
そのアクチェ自身が少年であり、しかもその少年が忘れてしまっている場合は、どう証明されるのだろうと少年は思い悩む。
あるいは……。
彼女がウソをついているのかもしれない。
誤情報を流す確信犯か、イタズラの可能性だって否めないのだ。
ためしに、少しテストしてみる。
目の笑みを消して、本気っぽく。
「サーヤって、笑ったら可愛いよね」
「…………。……そ、そんなこと無い。……何それ……」
うん。絶対嘘ついてない。このコ裏表ないよ。
だって顔が真っ赤だもの。
だとすると、あの証言が本物ということになる。
アクチェ=ティンクレアという少年は三百年前の人物ということに……。
…………。
うーん、と少年は考えてみる。
考えて考えて……。
決定。
寝よう。
こういうのは先送りにしてうやむやにして忘れてしまうのが一番。それが世渡りのコツ。
「……アクチェ……」
寝る準備をしてるとき、サーヤが声をかけてきた。
「……夢ってある?」
「……。これから見るけど」
「そうじゃなくて――自分のしたいこと、とか?」
いつになく、思いつめた表情をしているので、少年は少し声を落として――言った。
「……ここから出る」
「ここから出たいの?」
「【出たい】じゃなくて【出る】」
〜したい、といっているのは、チャンスが振ってくるのを待っているだけ。
そういうのは、自分の手でもぎ取るものだ。
「……それが、アクチェの夢?」
「夢というより、願望かな? この刑務所、誰も入れないし、出られでしょ? そういうのって、なんかヤじゃない?」
少しだけ照れくさそうに、少年は話す。考えてみれば、こんな風に自分の感情を吐き出すのは初めてだ。
「……でも、アクチェ?」
だけどサーヤは、困った風に口を開く。
「何?」
「中に入ってきてるよ」
……何が?
▼△▼△▼
それからしばらくして。
少年は仕事をしていた。
いつものように、人工肥料で育った作物を加工していく。
つまらない単調な作業。
その単色が、この世でもっとも鮮やかな色で彩られることになる。
「うわぁぁぁぁぁああっ!」
カシュッ。
ステンレスの机に色が飛び散る。
カシュッ。
色とりどりのはずの野菜が、同じ色に染まる。
カシュッ。
さっき悲鳴を上げたばかりの囚人が、糸の切れた人形みたく、その場に不自然な体制で崩れ落ちる。
誰もが驚いていた。
誰もが唖然としていた。
誰もが動きを止めていた。
少年も、同じように相手を見つめていた。
相手はなんでもない、自分たちと同じただの囚人。
しかも怪我をしている。
腫れあがった顔。
爪の剥がれた痛々しい手。
引きずる足は、筋が切れているのか本人の意思をくみ取ろうとしない。。
片腕は折れていて、しかも満足に治療されていないのか、突き出た骨の断片が包帯の隙間からのぞいている。
それなのに、誰しもが、彼を恐れおののくように距離をとっている。
まだ動くらしいその手に持っているものは――
それはこの刑務所に決して存在してはならないものだった。
――拳銃だ。
「ひ、ひいィィィィッ!」
恐怖で最後の一線が切れたのか、少年の隣にいた男が駆け足で逃げ出す。
カシュッ。
カシュッ。
カシュッ。
カシュッ。
デタラメな銃の連射。
近くの囚人を巻きこんで、男の全身を鋼鉄の牙が食い荒らす!
肉片と骨片と脳漿と臓物の欠片を撒き散らしながら、まるで自分の存在を残すかのように赤を撒き散らす。
鮮やかなまでの血飛沫を。
赤。
芸術色彩の中でも、もっとも鮮やかと謳われる色。
その芸術を生み出して、相手は何を思うのだろう。
少年の目と、相手の目が合う。
相手の目は、何も語っていなかった。
あまりにも弱すぎる彼は、もはや感情そのもの――自分自身を殺してしまっているかのようだった。
残っているのは、自分以外の全て。
「ごめんなさい」
男は気持ちのこもっていない声でそうつぶやきながら――少年に殺意を向ける。
カシュッ。
殺人鬼とは、うそつきなのだ。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
Exogenous Endogenous――外因的内因性