【Chapter:01 Page020】
――少年は動物というものを知らない。
金星で動物に出会える機会は皆無だ。金星の劣悪な環境ではバクテリアの生息すら不可能だし、この施設に犬猫がいたとしても、飢えが蔓延するこのエリアでは一時間とたたずに鍋の具になるのがオチだからだ。
犬を撫でるとどんな手触りか知らない。
猫がどれくらい温かいか知らない。
ハムスターがどんな風に鳴くのか知らない。
それでも、電子書物の立体投影で姿を見たことくらいはある。エフ博士からの借り物だ。
――これは、エフ博士が失踪する前の話。
電子で描かれるその映像に、アクチェはガラにもなく心を躍らされたものだ。
映されたのは――山猫。
きびしい自然で生きているわりには人なつっこそうな印象で、にゃーにゃーと愛想を振りまきながらころころと転がって、日差しのいいところでのんびり昼寝してたりする。
だけど――いざヤマネズミを見つけると、穏やかな顔つきが一転して目も動きも鋭くなって、見たこともないような素早さでネズミに跳びつくや、生きたまま背骨をバリボリ噛み砕いていく……。
その衝撃は、今でも少年の心に爪跡を残している。
猫の眼が――少年をにらむ。目があった。あってしまった。
実際にはただの立体映像だから、【目】の錯覚か何かだったのかもしれない。だけど、少年を呑みこむだけの迫力がその【眼】にはあった。
それはまさしく、自分以外の全てを噛み殺す獣の目だった……。
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Take off Your HEART
――舞台を現在に戻そう。
「えーと……」
少年は、今現在の状況を把握することにした。
その一、少年は、ネズミもどきに殺されかけた(というか、殺されたんだけど生き返っちゃいました)。
その二、ネズミもどきはどこかに行ってしまった。
その三、天井の循環用パイプが壊れて、深い霧が発生している。
その四、なぜか少女が目を覚ましていて、今まさに少年の目の前にいる。
その五、少女は、少年のことをアクチェと呼んだ(少年自身はそんな名前を名乗った記憶はない)。
その六、少女は、少年との約束を果たしにきたらしい(そんな記憶はない)。
その約束とは――
「あなたを殺すの」
――寝起きに聞くには、少しばかり刺激的すぎるワードではなかろうか。
(……「金返せ」以上に聞きたくない言葉が、この世にあったなんて知らなかったよ……)
少年の頭の中で、生涯聞きたくない言葉トップテンのランキングが大幅に変えられていく瞬間であった。
とりあえず、少年はいくつかの情報を整理することにした。どのみち霧が濃くてまわりを歩けないし、少女からは聞きたいことがいくつかある。
「あのさ、少しいいかな?」
「……いいけど」
思いのほか素直に少女は答える。その姿からは、先ほどネズミもどきを虐殺したあの脅威はカケラも見受けられない。
「ぼくのこと、何て呼んだの?」
「…………アクチェ」
それが何? とばかりに、少女はきょとんとする。
眼の下のクマや、病んだ目さえ気にしなければ、彼女の顔立ちは美人の部類に入ると思う。鼻筋は整っているし、唇も薄い。妖艶と評してもいいくらいだ。
――なのに表情パターンはどこか幼い。たぶん小学生レベルだ。
「アクチェ……それがぼくの名前?」
「そう、アクチェ。Akche=Twinkleah」
「……何人だかさっぱりわからないね、ソレ」
外国人なのか地球人なのか火星人なのかも、まるで判別がつかない。あまりピンとこない響きだ。
「……君の名前は?」
少年の問いに、少女は怪訝な表情になる。何でいまさらそんなこと聞くの、と言いたげな顔だ。
それでも少女は、答えてくれた。
「サーヤ。Saya=Nestorm」
「サーヤ……」
なるほどね、と少年は思う。
(それが【君】を定義する呪文なんだ……)
名前があるのはうらやましい。だってそれは自分を表現できる、もっともシンプルな言葉だから。
で、その名前のある少女は、名前のない少年を殺そうとしているというわけで……。
(ぼくは過去に人の恨みを買うようなことしたのかなぁ……。まぁ、刑務所にいるわけだし……)
まったく覚えはないのだが、それでも殺されかけているらしいという事実に困り果て、少年はうーんと唸る。
――で。
「――あのさ」
「……何?」
少女――サーヤは眉をひそめる。少年のぎこちない反応に薄々気づき始めているのだろう。顔つきが不安げだ。
「悪いけど……たぶん、ぼくはアクチェじゃないよ?」
「…………」
サーヤは無言だった。
ただ静かに目を見開く。
ただ静かに髪を逆立てる。
ただ静かに空気が澱む。
知ってる人に会えたと思ったら人違いだったのだ。そうもなるだろう。
あえて少年は、冷静に続ける。
「悪いけど、ぼくには記憶はないし、本人である保証もない。君が誰かも知らないし、約束なんて覚えてない」
目を細めて、もうしわけなさそうに少年は正論をのべていく。
「……ごめん」
「…………」
サーヤの表情は見えない。
うつむいているせいで、前髪が瞳を隠しているのだ。
それからしばらく時間が流れる。ずっと少年はその場にいた。待ち続けた。サーヤが納得するのを。
「……わかった」
一分かそれ以上の沈黙を、サーヤは自ら破る。
「――っ!?」
次の瞬間、少年の胸倉をつかんで壁に叩きつけていた。
「…………。これってカツアゲ?」
背中の痛みをこらえて、少年はとぼけてみる。
信じられないことに、少年の体はサーヤの細い腕一本で持ち上げられていた。足が地につけられない。
そして、いかなるタイミングか、蒸気を吹かせていたパイプから、今度はおびただしい量の水が流れてくる。霧の次は雨。
大量の水粒が体を濡らすが、サーヤは気にした風もない。
「……あなたが赤の他人なら、わたしがどうこうしても問題ないよね。いいよね?」
これまでの愛嬌とは打って変わった低い声――それはネズミもどきに対する態度とほぼ同じだった。空恐ろしい殺意を秘めた声。
あちゃー、と少年は心中でつぶやく。どうやら説得は失敗したらしい。
「怒ると眉間にシワよるよ」
冗談を言ってみるが、サーヤは笑わなかった。
雨打つ音が響き渡る。視覚をさえぎる白い幕は消え去り、今度は聴覚を叩いてくる轟音が雪崩れこんできていた。
形が変わっただけで、混乱は何も治まっていないのだ。そう、今の少年の状況のように。
そして――
「これは質問。わたし、どう見える?」
そんなことを、サーヤは問うてきた。それはネズミもどきを殺す直前に投げかけた質問。
まったく同じ質問を、サーヤは問うたのだ。
それは、つまり、少年を――
前髪の隙間から見えてくる、少年を射抜く視線。
そのまま刺し殺さんと睨む視線。
一切合財を赦さぬ冷たい眼。
サーヤの眼が――少年をにらむ。目があった。あってしまった。
それはまさしく、自分以外の全てを噛み殺す獣の目だった……。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
あなたの心を脱いでください……。