【Chapter:01 Page018】
――恐怖。
今、男はそれを感じていた。
それはこんな暗いところにいるから?
それはこんな汚くて、死しか満ちていないところにいるから?
それは、たった今一人の少年の命を奪ったから?
だからそんなに怖がっているの?
……違う。男は恐怖していた。
まるで氷塊を背中に入れられたかのように背筋が凍る。
胃の中身がしこたま逆流してくるような、気持ちの悪い悪寒。
真綿で首を絞められていくように、じわじわと押しつぶされていく不安。
本能が何かを感じているんだ。
闇が男にのしかかる。
そのまま全身に染み渡って、まるで縄のように締めつけてくる。
黒、影、無、暗、負……。
周りにあるのは闇ばかり。
そんなものは、刑務所に来たときから――いや、きっと俗世にいたころから慣れ親しんできた世界。
それがどうして、今になってこんなに心臓を締めつけるというのだ?
「――!?」
思いついた【それ】を、男はかぶりを振って否定する。
なんてばかばかしい。
なんて現実離れしているんだ。
【ナニカ】がやってくるだなんて――
キ タ ヨ
「――!??」
先ほどとは比べ物にならないほどの悪寒が、男の全身に絡みついた。
何だ! いったいなんだ! いったい何がやってきたと――
気づく。
それは男の足元。
はがれたタイル。掃除されずにたまってきた塵。長いときに削られても、どうにか盤の目を保っている床……。
そ の 床 が 膨 ら ん だ 。
「――!?」
膨らんだのだ。まるで水面からカエルが頭を出すかのようにぽっこりと。
そう――ま る で 何 か が 出 て く る か のよ う に 。
りら……。
音がした。
それが何の音なのかは定かではない。
まるで鈴を鳴らすようにも、滴が水面に落ちる音のようにも、子供の歌声のようにも聞き取れる。
りらりらりらりら……。
音は連鎖を重ねていく。男の目の前で大きくなっていく。
そして――床のふくらみが増していく。
りらりらりらりら……。
みるみるふくらみがせり上がる。
りらりらりらりら……。
ふくらみが捩れ、そのまま右向きにらせん運動をしながらなおも膨らんでいく。それはさながら、ネジが抜けていく光景のよう。
りらりらりらりら……。
回転とともに、信じられないことが起こった。
床一面がふくらみに吸いこまれていっているのだ。まるでフォークでスパゲッティを巻き取るかのように、くるくると。
りらりらりらりら……。
とうとうふくらみは、闇をまとって空へと浮かび上がる。
床だったものは、いまやふくらみを守るマントのようにひらひら笑っている。
その姿は、てるてる坊主に似てなくもない。
空を、永遠の夜闇へと食い潰すテルテル坊主。
りらりらりらりら……。
てるてる坊主の頭が形を成していく。
漆黒の長い髪。整った目鼻立ち。それは女の顔だった。
だけど、美しいという印象は感じられない。
闇を溶かしたような瞳が、奈落の底まで落とさんとする冥い瞳が、男の感情を恐怖で塗りたくっているのだから。
りらりらりらりら……。
マントの色は、闇と血糊を溶かしたような腐肉の色。
それもまた、蹂躙されるかのように姿形を書き換えられていく。
布地が胴体にぴっちりと張りついて、カラダの輪郭をはっきりと写しとる。スカートは足元を隠すほどに長く、翼のように広がるそでは手を覆い隠す。
腕に巻きつくのは包帯。まるで千切れた蜘蛛の巣のように未練がましく絡みつくそれは、拘束のようにも陥落のようにも感じ取れる。
りらりらりらり
歌が止まる。
少女が男を見やる。
男が恐れる。
少女が笑う。
三日月が笑う。
終わりが始まる。
それはとっても赤い色。
赤のように。紅のように。赫のように。銅のように。朱のように。
黒き桜が揺らり舞う。
さあ、機械仕掛けの悪夢を始めよう。
【Page018】
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The Re:Birth that it Undermine, Parts II
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!!!!!!!」
絶望の始まりは、男の悲鳴だった。
不吉な闇で塗りつぶされた通路をひたすら走る。
運動など満足にしていないだろう、そのゆるんだ筋肉はたちまち乳酸づけで息ができないと悲鳴を上げる。
だけど男はそれを無視して逃げ走る。無理もない。
わらわらわらわら……。
う し ろ か ら 怪 物 に 追 いか け ら れ て い る の で は 。
すでにパフュームの効果は消えていた。男の頭は現世に帰還している。
にもかかわらず、彼は悪夢から逃れられないでいた。
――違う。悪夢に引きこまれたのだ。
まるで泳いでいるかのように、少女は宙を舞いながら男へと迫っていく。
まるで道化のように。まるで肉食獣のように。
その人知を超えた脅威は、男の頭を沸騰させるのに充分すぎた。
わらわらわらわら……。
後ろから迫ってくる音が何なのか、男にはさっぱりわからなかったが、そんなものはどうでもよかった。
とにかく男はこの絶望から逃れたかったのだ。まだ生きたかった。
だから男は近くの扉に飛び込んで、鍵をかける。もっとも、鍵なんて気の利いたものがここにあるわけもなく、適当に椅子や机をひっぱり出して塞いだだけなのだけれど。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
珠のような汗をぬぐって、男はできるだけバケモノから離れるべく距離をとる。
ジャリ。ジャリ。鳴るのは靴の音。
しつこく背中を刺してきた、あの変な音は聞こえてこない。
静寂……。
さっきまでの喧騒が嘘のようだった。歩いていくうちに、そうだあれは夢だったんだ、とさえ思い始める。次第に男の中で安堵が芽生え、早まっていた心臓の鼓動が冷めていく。
と、ここで……。
男のゆるみかけていた頬がこわばる。
そうだ。
気づいた。
気ついてしまった。
わらわらわらわら……。
あの音は――
わらわらわらわら……。
聞き覚えのあるあの音は――
わらわらわらわら……。
今 も 聞 こ え て く る あ の音 は ――
わらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわらわら
心臓の音だ。
「――!?」
男の体が、いきなり宙に浮かび上がる。
闇に体をつかまれたのだ。そのまま一気に壁に叩きつけられる。
「……どうも」
冥い響きをもって染みこんでくる闇の音色。
その背中から、触手とも腕ともケーブルともつかぬ何かが無数に生えてきた。その先端には、両の掌をくっつけたような肉の華。
闇をたっぷりと滴らせた触手が伸びると、男の手首足首ありとあらゆる首と名のつくところを縫いつけられていく。
さあ、壁に磔にされた罪となれ!
「コンバンハ」
とても不気味な微笑で、闇はひたひたと近づいてくる。
「これは質問。わたし、どう見える?」
意味不明のことを口走る。
「やめろっ! 来るな化物!」
男は無視して、暴れだした。当然の抵抗といえるだろう。
だけど――
「あ゛ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!!!!!!!」
少しばかり行動が浅慮すぎた。
男の腕――右の肘から先――がきれいさっぱり消滅している。切り口は、まるで東洋の刀で切断したかのように鮮やかなものだった。
いや、斬ったというより呑みこんだというべきか?
これがいかなる現象なのかは、のちほど語られることになるだろう。今はそれどころではない。
男は、突然腕が消えたという事実と、それにともなう痛みで理性が麻痺しかけている。ひたすら悲鳴をあげて恐怖している。
「黙れ」
それを押しとめたのは、闇の一声だった。触手ではない、自らの腕で男の首を絞めながら。
「わたしは化物じゃない」
闇の底よりも深く、何も見えない黒い瞳で男を呑みこまんと見つめ、そして言った。
「悪者よ」
闇から浮かぶのは三日月。黒い星の下で笑う、奇怪な笑顔。
「存在するだけで、社会から駆逐される悪者なの」
そして、闇は告げる。絶望の呪文を。
――さあ、恐怖を私に貢ぎなさい。
かすれた喉で助けてくださいと乞い願え。無力な童のように。
痛みを味わい苦しみで喉を潤し恐怖で腹を満たし、一杯の【生】をその身に浴びながら死んでしまえ。
これは救済。
絢爛豪華で残虐非道な結末を与えてさしあげましょう。
さあ、あの世の底深くまで溺れてしまいなさい。
堕ちて堕ちて世界の果てへ。
そこは行き止まり。あなたの果実は潰れ果てる。
さようなら。さようなら。
「サヨウナラ」
子供のように無邪気に闇は笑う。
打算的な子供のように闇は笑う。
子供のような残酷さで闇は笑う。
「ま、待ってくれ! 俺がいったい何をした!」
男は必死に叫ぶ。ただ生きたいがために。
「何を? あなたは何もしてない」
無感情に答える闇。それはまだ助かる道があると思っていいのか?
「だったら――」
「何もしていない無価値な人間を、世界は必要としないの」
ネズミもどきの懇願を否定する声もまた、ひどく無感情なものだった。
「何もしないなら、いてもいなくても同じでしょう? わたしが退屈しのぎにあなたを煮ようが焼こうがいたぶろうが抉ろうが引き千切ろうが壊そうが勝手だと思わない?」
とても恐ろしいこと、平然としてつぶやく。それは人間の言葉じゃない。
「納得していない……? だったらこう言いかえたらわかる?」
闇は、男の顔に自分のそれを近づけ、通告した。
「何でアクチェを殺したの?」
先ほどまでとはまるで違う、暗い冥い声で言い放った。
それは絶望にも似ていた。ぞれは憎悪にも似ていた。
締め付ける触手の力が、男の四肢を引き千切らんばかりに強まっていく。鬱血で男の顔がどす黒い紫に変色するが無視。闇の瞳に宿るのは――憎しみに燃え上がる黒き太陽のようだった。
アクチェとは誰だ?
その疑問をネズミもどきが口にすることはかなわなかった。
永遠に。
「自分が散々やっておいて、自 分 の 番 が 来 た く ら い で泣き叫ぶな。見苦しいし不愉快よ。さあ、さっさと死ね死ね死ね死ね。終わりをかみしめながら死ね。恐怖しながら死ね。苦しみながら死ね。絶望しながら死ね。何より自分の積み上げてきた過去を後悔しながら――幸福になれたかもしれない未来を思い描きながら死ねぇぇっっ!!!!!!!!!!!!!!!!」
闇の瞳が真っ黒に燃え上がる。
そのまま押し開き、まるで口のように変貌する。
瞼が膨らんで、まるで唇のように変わる。
さらに瞼が伸びて固まって、まるで嘴のように変化していく。
牙の生えたそれは、口腔からぎょろりと血走った眼球を光らせながら迫って――男の喉に喰らいつく。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!!!!!!!!!!!」
それは今宵何度目の絶望か。男は喉が枯れるどころか裂けてしまいそうなほどに叫ぶ。
悪意に充ちた夢を心の底に孕んで、なおも闇は陵辱を続けた。
紅い罰が滴り落ちて、男という名の罪が痙攣を起こす。
喰われ食い千切られ咀嚼されているにもかかわらず、男の意識は途絶えることはなかった。許されなかったのだ。絶望から逃げる甘さなど、闇はけっして与えない。
響くのは、闇の笑い声。
先天性の稀なる舌で、その紅い蜜を嘗め取るの。筆舌つくしがたきその馳走、蜜夜の果てまで味わおう。頬ばり噛んで呑み尽くせ。さあ、晩餐会を始めるぞ。
齧る音が千切る音が口の中で蕩けていく音が響き渡る。
終わりのない苦痛。果てのない地獄。それが楽しくてたまらない。
嗚呼、筆舌しがたき混沌の恍惚。もっと舌の上で踊り狂え。
赤にまみれた闇が、食事中につぶやく。
「ねえ、知ってる? 死ぬ寸前の人間の血は、ハチミツの味がするの」
答えは、返ってこなかった。
-BLACKBOX-
―ブラックボックス―
自分の過ちは、必ず自分に降りかかってくる……。