何のために⑥
そして封じ手が開封される。
▲8八飛と読みあげられた。
▲5四歩から一直線に行くのは微妙だったので、いったん▲8八飛と受けてから▲5五銀と進軍するのはいかがでしょうか?
という意味の▲8八飛である。
△8六歩▲同歩△7三桂▲5四歩△同金▲5五銀と予想通りに進んだところで、十時のおやつの時間になっていた。
昨日とは、違うが和菓子が出された。
二日続けて和菓子を食べれるなんて、なんて贅沢な時間なのだろう。
これも、まさみに買って帰ろうと思った。
朝のおやつを食べ終えた所だったので、時刻としては十時半を少し過ぎた所だっただろうか‥‥‥。
外の雨は相変わらず降り続いており、今後の天気も心配されるぐらいだ。
ソフトの手を指す、自動ロボが動き出した。
その動きを見ていた。
まだ、どんな手を指すか分からないが、嫌な気がした。ソフトに指された手は△6五金、この手を見て痺れた。
外の雨の音が、さっきよりも大きくとても大きな音になっている。
「別れの日だっていうのに、大雨だね」と、あの日の恵の声が聞こえてきた。
そういえば、あの日もこんな大雨だった‥‥‥。
あの日とは、、恵が高校の卒業式を待たずに大学のある街に向かう日での事であった。
誰にも言わずに、街を出て行こうとしていた恵‥‥‥。
予想はしていたが、まさか本当にやるとは‥‥‥。
最寄りの駅で、恵を待っていた。
五分十分で来れば凄かったのだが、ドラマみたいにいかないのが現実だ。
実際は三時間ほど待っていた。
時間は全然気にならなかった。
というかその時の事を、あまり覚えていない。
逢って何を話せばいいのか? そんな事をずっと考えていたのかもしれない。
このまま逢えなくても、それもまた運命なのかとさえ思っていた。
その間に、今日のような大雨が降って来た。
駅には電車を待つ人、迎えに来た人、雨宿りをしている人で、込み合ってきた。
仕方なく、駅から歩いてすぐの所にあるファースフード店に入り、雨宿りすることにした。
ファーストフード店に入るころには、びしょ濡れになっていた。
コーラーを頼み、恵が駅に来るのを待った。
当時は、まだコーヒーを飲めなかったなと、目の前の盤面を見て思いだす。
二階の席から、駅の方を見る。
当時は、よく恵とこの店に来たことを思い出し、外の傘をさす人たちを見ていた。
外の雨の音は微かにしか聞こえないが、店内では三才くらいの男の子が、母親とご飯を丁度食べている所である。
嬉しくて大声を出しているのだろう、子供の声が脳まで届く。
しかし、不快な気持ちにはならない。
キャリーバッグを引いて傘をさし、歩いている女性の姿が目に入る。
見慣れた後姿だ。
“恵だ!”すぐに分かった。
今まで何度も見た後姿だから。
慌てて店を出て、後姿を追いかける。
ずぶ濡れになりながら、後姿に声をかけた。
「恵!」
後姿がこちらに振り変える、見たその表情はなんともバツの悪そうな顔であった。
来てはいけなかったと、少し後悔したが、意を決して一歩前に進む。
すると恵は、もう笑顔になっていた。
こんな時にでも、気を遣う必要なんてないのに‥‥‥悪いのは俺の方なのに‥‥‥。
「今日は、私が傘を貸す番だね」と傘を差し出してくれた。
自分が濡れるのもいとわずに。
初めて会った時は、恵に傘を貸したんだった。
恵の傘に入りながら駅までの、少しの距離を歩いた。
歩きながら恵の肩が、雨で濡れないように傘を傾ける。
それに気づき「相変わらずだね」と言う恵。
それに関しては、何も言わずにいた。
吸い込まれそうな瞳で、こちら見つめている恵。
次に出てくる言葉が、何処かで見失う。
探そうと思っても、何処を探して良いのか分からない。
「今日は、一体どうしたの?」
しばらく言葉を探し、やっと話すことが出来た。
「どうしたのって、卒業式前にこの街離れるから、来たんだよ」
「あーなるほど」と呆気に取られる程の笑顔を見せる恵。
駅の構内に入ると、券売所まで足早になる恵。
後ろを追いかけると、切符を渡された。
一番安い切符だ。
改札に入ると、無邪気にホームのベンチに腰を掛ける恵。
隣の空いている部分を手でたたき、座るように促された。
周りには、他にも数人の乗客が電車を待っている。
二人で見るこの駅の風景は、もしかして最後になるかもしれないと思うと、寂しくなった。
まだ十代なのに、こんな事があるなんて‥‥‥大人になれば、こんな心が張り裂けそうな事が増えていくのかと考え、怖くなったのも、この日の事であったと思いだした。
「プロ入りおめでとう」と恵が言う。
「あ、ありがとう」と気のない返答をしてしまったのを後悔する。
「嬉しくないの?」と、顔を覗き込みながら聞いてくる恵。
「嬉しくない訳じゃ‥‥‥」
「良かったね。夢が叶って」と笑顔を向けてくれる恵。
その笑顔が、飛びっきりの笑顔であるほど悲しくなってしまう。
突き放されたような感覚になる。
アナタがどれだけ私を心配しても、私はアナタの力を金輪際一切借りないと、宣言されたような気がした。
一生の別れになるかもしれない時に、オレの話しなんてどうでもいい。
恵の話を聞かせてくれと、思い続けていた。
「良かった、奄美の夢が叶って‥‥‥本当に良かった」と更に続ける恵。
「私にも見つからないかな‥‥‥奄美みたいな夢」
その言葉を聞いて、心の底から安心した。
未来を夢見ているこの状況に。
未来を生きようとしていることに。
前を見てくれていることに、ただただ感謝するしかなかった。
「何かやりたい事でも出来たの?」
「色んな国に行って、色んな人に会ってみたい」と目を輝かせながら、夢を語ってくれる恵。
あんな事があったのに、夢をキラキラした目で語る恵の姿を見て、ふいに涙が出そうになった。
“泣いちゃダメだ!”そう思えば思うほど、涙が出てくる事を思い出した。
小さい時も同様の経験がある。
小学校の遠足の時、何処か田舎の方で芋ほりに行った事があった。
その農家の人々がとても優しく、僕らに色々と教えてくれた。
掘ったばかりの芋を、焼き芋にしてくれた。
その焼き芋が、今だ人生で一番美味しいと思っている。
いざバスに乗り帰ろうという時に、もう農家の人の会う事はないと思ったら、涙が意志とは関係なく出てきた。
当時も“泣いちゃダメだ!”
皆が見ている前で恥ずかしいと思いながらも、涙を流した。
それを思い出した。
ホームに、次の電車が来るアナウンスが流れる。
恵の乗る電車だ。
電車を少し見た後、こっちを向いて「泣かないの。別れの時は笑顔で見送らなきゃ」とオレの肩に手を置く。
頷くオレ。
激しく首を上下にしながら、何回も頷く。
「もう会えないの?」
何も答えない恵。答えれる訳がない。
「将棋でタイトル獲るから、見てて欲しい」絞り出した言葉が、こんな事だとは‥‥‥。
「もちろん、奄美の活躍楽しみにしてるからね」
電車がホームに入ってきて、止まり扉が開く。
恵が荷物を持ち、ベンチから腰を上げ電車に向かって歩いていく。
その後姿が、その足取りが今となっても鮮明に覚えてた事に気付く。
電車に乗り、振り返りオレを見る。
「今日は、来てくれてありがとう」と、やはり笑顔で言って、右手を差し出した。
導かれるままに、右手を恵の右手に重ねる。
微笑み、右手が離れていく。
そして電車の扉が閉まり、オレは律儀に電車から数歩下がり、恵の乗った電車を見送ることになる。




