何のために⑤
一局目の対局初日が終わって、関係者数名と対局者の竹本と、同じバスで旅館に帰り、自分の部屋に入った。
ここから明日の朝まで、どう過ごすかは大事になる。
温泉も入れるし、テレビも見れるが、スマホ・パソコンは見れない。
スマホは立会人の先生が管理しているはずである。
旅館の方が、夕食を持ってきてくれた。
和食で、刺身と鍋と肉料理という、なんとも豪華な食事だった。
夕食を摂った後、時間の使い方がよく分からない。
タイトル戦を戦いなれていないので、二日制の対局再開までの、心の持ち方が分からない。
森田君なら、自分のルーティンを確立しているのだろうと思った。
経験の少ない俺には、この時間を別の事を考えてリフレッシュするのか?
それとも戦闘モードを持続するのか、分からない。
などと考えながら、宿の温泉に入る準備をする。
風呂に入ると、身体が温まり、将棋の事を考えても仕方ないという考えになる。
封じ手は、もうしたんだから。
何年かぶりに湯船に、頭まで全部沈めてみた。
何故、そんな事をしたのか自分でも説明がつかないが、頭まで全部沈めてみた。
目を閉じ、湯船の中に三十秒ほど頭で沈んでみた。
湯船の中にも、音が存在している。
呼吸の音、お湯の流れる音、身体を動かす時にも音を感じた。
湯船からゆっくり頭を出す。
顔を出して、何かが劇的に変わることはなかったが、全く何も変わらなかったとは思わなかった。
そう思えただけでも、湯船に頭まで浸かった事は意味のある事だろうと思った。
部屋に戻り、カーテンを開けすっかり日が沈んだ部屋の外を見た。
都会ではないので、光がほとんどない風景である。
見えはしないが、虫の声が聞こえる。
何の虫か分からないが、孤独ではないと感じた。
感覚が妙に研ぎ澄まされているように思う。
ふと、戦国武将など戦中の夜などこんな感覚になっていたのかと思う。
こんなに気持ちが高揚するものなのかと思う。
夜十時には、布団に入る準備が整ってしまった。
こんなに早く寝ていいのか?
そんな思いに駆られたが、万全の体調で明日の対局に向かいたい。
その思いが、布団に入る決意に至った。
普段の対局後は、脳が熱く活発に活動していて、興奮して寝れないことが多いのだが、今日はすぐ眠りにつくことが出来た。
目を閉じると、瞼の裏で光る物体が動き回っている。
その物体を追いかけている。
規則正しく時計回りで、その法則を見つけ先回りしてやる。
覚えているのは、ここまでである。
窓を叩く雨の音で目が覚めた。
荒れた天気になりそうなぐらいの雨の量みたいだ。
かなり熟睡したようだ。
戦いの最中に、これだけ眠れる自分がなんだがとても滑稽である。
これは鈍感なのだろと、認めざる得ない。
起き上がり、対局場に向かう準備をする。
今日、決着がつくとい状況なのに、妙に落ち着いている自分がいる事に、違和感を覚えた。
集中しきれていない、勝負の土俵に上がれていない、そんな感覚に陥っている。
宙に浮いて、フワフワしている様な気がした。
かといって、無理矢理闘志を燃やすといった行動をあえて取らずに、ニュートラルな状態で対局場に向かっている。
そう思わしたのは、バスの窓に打ち付けられる土砂降りの雨を見ているせいかもしれない。
この土砂降りの雨は、朝から全く嫌な気がしない。
心につかえた何かが、洗い流されていくような気持で、雨なのに晴れ晴れしい気持ちになっている。
昨日より、足取り軽く控室に入室した。
今日、着る和服の準備をしながら、心の視点が変わるだけで、世界が変わったような錯覚が起こるのを認識した。
控室でも、今ここに何をしに来ているんだろう? と一瞬考える程、将棋の戦いの世界から遠のいていく、平和で温かい陽だまりにいるような気がする。
土砂降りの雨の中で。
踵を床に強く叩きつけ、はっきり自分の居場所を自分に教える。
そうすると、自然に勝負に集中するのは、棋士だからか、それとも昨日ぐっすり寝れた貯金が生きているのかもしれない。
昨日とは、色味が違う和服に着替え、対局場に向かう。
いよいよ決着がつく、二日目の始まりだ。
不安よりも楽しみの方が勝ってきた。
対局場に入り、対局の準備をする。
読み上げられる昨日の棋譜を改めて並べていく。




