何のために③
今から始まるのだ。
ソフトとの対局が‥‥‥。
そして開始時間少し前に、立会人の先生が対局場に入ってきて、正座をする。
いよいよ始まるのだ。
「それでは始めて下さい」と立会人が言う。
「よろしくお願いします」と俺と同時に、竹本さんが言う。
電動アームもお辞儀をした。
とても和んだ空気になった。
こういう将棋を見せるというのも、悪くないと思う。
それもこれも良い将棋を指してこそだとも。
改めて得意戦法で戦う事を決意した。
四間飛車で。
怖いのは急戦よりも、穴熊だ。
事前のソフト研究では、穴熊の採用率が高かった。
振り飛車には、穴熊なのだろうソフトでも。
急戦は急戦で怖いのだが、その準備は研究で進めてきた。
▲(先手)7六歩△(後手)3四歩▲6六歩△8四歩▲6八飛△6二銀▲7八銀△4二玉▲1六歩△3二玉と進んだ局面。
端歩をつき返してこなかったので、穴熊の可能性がプンプンする。
それでも自分で選んだ道突き進むしかない。
選択の連続だ‥‥‥人生は、将棋もか‥‥‥。
▲3八銀△5四歩▲6七銀△5二金右▲1五歩△5三銀▲5八金左。
一時間半近く進んで、ここまでの駒組みが進んだ。
ソフト相手という事もあって、神経が擦り減らされていく。
いつもの対局よりも疲れる感じがする。
十一時半になったので、対局場におやつが運ばれて来た。
今日の午前のおやつは、京都の老舗のタイ焼きである。
家でソフトとの研究に没頭している時に、
まさみが差し入れてくれたなと思いだす。
朝から夜まで、パソコンの前に座りソフトと対局を繰り返していた。
戦績は芳しくなく、軽い絶望感すら漂っていただろう。
部屋の中の空気も、それはそれは重たかったと思う。
まさみが仕事帰りに、家に来てくれた。
心配で様子を見に来たと言った方が、いいかもしれない。
家に入ってくるなり、パソコンと睨み合ってる俺に向かって。
「またーパソコンの前から動いてないんでしょ」と言いながら、荷物をリビングのソファーに置いた。
振り向きもせずに、ただ頷く俺。
「また、うどんしか食べてないでしょー」とまさみの声が聞こえる。
リビングの流しに、漬けっぱなしにしている洗い物から推測したのだろう。
確かに事実だ。
とにかく時間が欲しく、簡単に食べれるうどんをよく食べている。
ソフトとの対局でも、昼ご飯はうどんにしようと決めている。
「うどん以外にも、何か食べた方が良いよ」と優しいまさみの声がする。
まさみの声は、空気を変えてくれる力があるように感じる。
張り詰めていた、空気が和らいでいく。
振り向くと、まさみが笑顔でこちらを見ている。
「やっと、パソコンから目離したね」
やっと日常に戻った、そんな感覚に陥る。
「何か食べようかな」とまさみに言う。
「これ買って来たから」とタイ焼きを、見せてくれる。
「タイ焼き、これは嬉しい」
「ここのタイ焼き、美味しいんだ! 休憩中によく食べるの」と微笑んだ。
まさみとは、プロポーズはしたがまだ籍は入れていない。
だから婚約中と言った方が、いいかもしれない。
まさみが実家に報告した時は、両親が喜んでくれたそうだ。
父親に関しては、結婚相手がプロ棋士の横山奄美だと伝えると、青天の霹靂のような衝撃を受けたそうである。
まさみの父親は、俺に会うのを楽しみにしていると言う。
そう言われると、照れるし恥ずかしいものだ。
もっとも、父は将棋を教えてほしいらしい。
それが会いたい、一番の理由である。
まさみとは、タイトル戦が終わった後、籍を入れようかと話している。
なので今は将棋に集中だ。
「小腹満たした所で、今日は外に食べに行くよ」とタイ焼きを食べ終わったまさみが言う。
「早く着替えて、着替えて」と半ば強引に着替えさせられた。
外に出るともう日は暮れていた。
久しぶりにまさみと歩く。
夜になると少し涼しくなる季節になってきたな、と普段思わない事を思う。
行きつけの焼肉屋に二人で入る。
アルバイトの店員が、世間話程度にソフトとの対局楽しみにしていますと、言ってくれた。
身近の人以外に、将棋見てます。応援していますと言われると、恥ずかしいものだ。
でも、この声が棋士にとってはとても励みになるのも確かなのだ。
久しぶりに、まさみとする食事は美味しかった。
一人で食べるのと、誰かと食べるのではこんなに味が違うのかと思うと、結婚するのも悪くないと思った。
もちろんそんな事は、口が裂けても言えないが‥‥‥。
焼肉を食べながら思ったのは、食べると脳の疲れが取れるような気がした。
やっぱり、食べるというのは大事な事だ。
食事の採り方を考えようと思った。
朝のおやつのタイ焼きを食べながら、食事の摂り方は、結局改善出来なかったと後悔している。
このタイ焼きを、まさみに買って帰ろと思った。




