パニック・イン・ザ・ストア -16-
鉄の匂いが鼻をついた。
見ると原型を失った頭から血の円が広がり、俺の足元にまで迫ってきている。
俺はそれから足を避けて、あの安息のトイレへと歩を進めた。
歩きながら俺は色々なことを考えていた。目の前で起こった殺人のこと。それを止めなかった自分のこと。
俺は榎本の感染に気付いた時から彼を殺すつもりはないにしろ、遠ざけるつもりでいた。
敏也が榎本を誘いだしたときは、ついでに榎本をどこかに隔離してこようとも思った。だが、殺人という強硬手段に出るつもりは毛頭なかった。
自分自身に殺人には関係していないという暗示をかけようと、思いつく限りの言い訳を並べるが、俺の心はそれを認めようとはしない。
「殺人罪」というワードが頭の中をぐるぐるし、いよいよ法治国家に帰れなくなった自身の身の上を案
じた。
鉄の匂いが濃くなるのに気付き、俺は顔をあげた。
「あ」
反射的に声が出た。俺の10mほど前にあれがいる。
それはピンクのタイトスカートを履いた若い女性の後ろ姿だが、見るからにそうだ。
首の肉が欠けている方向に首を曲げ、両手を不格好に横に広げたそれは俺の声に気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り返る。
充血して真っ赤になった目と目が合う。
俺は全身が総毛立った。
それの顔には深々と切り裂かれた跡があり、べろんとはがれた肉がぶら下がっている。
白いシャツには赤い指の跡が無数に線を描き、現代アートにも見える。
全身から昨日まで普通の人間として暮らしていたとは思えない迫真さが表れている。
俺は、荷物を床に置くと100均のベルトで腰に引っ掛けていた金属バットを抜いた。道を変えれば、逃げ切れるかもしれないが、何故か戦わなければならない気がした。
ゾンビが迫る。ゆっくりと。確実に。
俺はその場から動かず、迫ってくるゾンビを観察した。
目に留まったのは片足だけ厚底のサンダルを履いていないことだ。すぐに俺は足元を狙い体勢を崩すという案に思い至る。
来た。あと2m。
バットの間合いに入るかというその瞬間、ゾンビは横に広げていた手を突然前に突き出し、体重に任せて覆いかぶさってきた。
腰を落としていた俺はそれを見てとっさに後方に飛びのくが、バランスを崩してしまい、尻もちをついてしまった。
一方で的を失ったゾンビはそのまま前のめりに倒れ、地面と激突する。
尻もちをついた俺の足とゾンビとの距離が手を伸ばせば届く距離にあることに気付き、俺は尻もちのまま後ろに下がった。
今のは危なかった。
完全にゾンビとの間合いを計り間違えていた。バットでは近すぎるのだ。
俺は素早く立ち上がり、尻もちをついたときに落としたバットを拾い、まさに立ち上がろうとするゾンビの横を駆け抜けた。
集めた物資はほとんど置いてきてしまったが仕方がない。
今は武器や食料より一刻も早くこの場から逃れたかった。
しかし、気持ちとは裏腹に空腹と疲労で足は思うように動かず、必死に走っているつもりでも駆け足程度のスピードしか出ない。
俺は背後から気配が増えていくのを感じていた。今まで影も形も無かったゾンビたちが続々と集まってきている。恐らく、俺の足音や息遣いのせいだろうが、そんなことも考える暇も今は惜しい。
見慣れたスポーツショップを発見し、横を通り抜けるとこちらに戻ってくる敏也の姿があった。
「だ、だめっす!!」
「え?」
肩で息をしながら、俺は聞き返す。
「い、いまあのトイレに戻って様子見てきたんすけど、中は血まみれです。どうやら榎本さん以外にもあの中に感染者が紛れ混んでたみたいす」
俺は目の前が真っ暗になった。後ろからはゾンビの大群、先は行き止まり。最初と同じ状況だ。違うところといえば今回は安全地帯などないという点だ。
「ど、どうします?」
敏也が尋ねてくる。
もはや一分一秒も無駄にはできない。こうして考えている間にも逃げ道が狭まり、状況は悪化していく。
「落ち着け」
俺は急速に興奮していく自律神経を無理やり落ち着かせようと深呼吸をした。隣では敏也が俺に向かってしきりに打開策を要求してくるが、俺はその声もシャットアウトして思考を巡らす。
エレベーター?いや待っていられない。
売り場を抜けていくか?リスクが高すぎる。
通路の先の従業員通用口?確か中にはゾンビがいるはずだし、内装もわからないので不確定要素が多すぎる。
いや、待てよ。
本当に従業員通用口の先にまだゾンビはいるのか?
俺には引っ掛かることがあった。榎本が通用口でゾンビに襲われた後、彼の様子がしばらくおかしかったことだ。恐らく彼はあの時の接触で感染したのだろうが、そんなにすぐに症状が出るものだろうか。
そもそもあの時の彼の様子は錯乱ではなく、動揺といった感じだった。
「敏也さん!榎本さんが従業員通用口から逃げてきたとき、榎本さん何か言ってましたっけ!?」
「は?そんなこと今関係あるんすか!?」
「早く!」
「確か襲ってきた奴が仲間を呼びに行ったから危ないとか意味不明なこと言ってましたよ!」
「なるほど...ありがとうございます!こっちです。ついてきてください!」
俺は自分の仮説を手にあの従業員通用口に向かって走りだした。




