パニック・イン・ザ・ストア -6-
売り場を確認すると二人の姿はなく、売り物の服を掛けた例のハンガーラックが少しだけ移動しており、その隙間からエスカレーターへと続く通路が覗いている。
「どこまで行かれたんですかね?」
周りの湿度が少し上がったのを感じてその声の主がハンプティダンプティであると理解する。見るとその手には汗でぐっしょり濡れたハンカチが握られている。
俺は「どこに行ったんですかねー。」という適当な相槌を入れてその問いを流した。
「もしかしてあの二人だけで逃げたんじゃない?」
「それはないでしょう。すぐに帰ってくると思いますよ。」
オバサンが余計なことを言うと、すぐに旦那の身体がピクッと反応するのが見えたので、俺はすぐさまフォローを入れる。やはりこの集団の中に取り残されるのは、はずれくじでしかない。
オバサンという地雷と旦那という時限爆弾を抱えて、俺は爆発物処理班にでもなった気分だ。
それにしても本当にどこまで偵察に行ったのだろうか。正直言って、これ以上ここに居ても埒が明かない。本当に彼らが二人だけで逃げたとして、このままこの集団の面倒を見ることになるくらいなら、一人で逃げた方が賢明かもしれない。俺はこの位置から見える売り場の変化を逃さないように注意深く観察しながら次の一手を模索する。
パリン。ガシャン。
突然、ガラス製のモノが割れる音と金属製の何かが倒れる音がし、思考と無精ひげを無意識に触っていた手が止まる。
ここから見える景色に変化はないが、音は確実にこの近くで発せられたようだ。
金属製の何かが地面にバウンドする音が静寂を保っていたこの辺り一帯に反響する。
反響音が耳から離れるまでの数秒間、俺の身体はそのままの体勢で硬直する。俺の背中から発せられた緊張は後ろにも伝わったのか、背後からは物音が消える。
あ゛あ゛あ゛あ゛が゛ぁ゛ぁ゛...。
あ゛あ゛あ゛あ゛ぐう゛ああああああああ...。
怖れていた声は反響音から数秒のインターバルをおいて、それに呼応するように大勢の協和をもって発せられた。
「ち、ち、近いですよ!」
旦那が恐怖で唇を震わせながら指摘する。かつて妻の手が握られていたその手はパニックで行き場を無くし、せわしなく動いている。
「こっちに近づいてませんか!?」
ハンプティダンプティが全員が理解していることを口に出す。
奇声はその異様さを際立たせながら徐々に大きくなっており、それがこちらに近づいているからだ、ということは誰の耳にも明白だった。
そして誰も主張こそしないが、声はテロリストのモノではなく、それ以上に危険なモノであることを全員が感じ取っている様子だった。
「に、逃げるぞ。しおり!」
旦那は妻の名前を呼び、無理やり手を掴んで売り場に出ようとする。妻は小さな声で「痛い。」と呟くがその剣幕に負けたのかそのまま旦那の思うままに引っ張られる。
「ちょ、ちょっとどこに行くのよ!」
「逃げるんですよ!ここに居たら捕まってしまうでしょう!」
オバサンが旦那を非難すると、彼は声を荒げて返答する。口論する2人の声には声量を抑える配慮はもうなかった。
俺は逃げる旦那に乗じて自分もここを離れる決意をした。相手がこちらに気づいていなかったにしても、ここまで騒ぎ立ててしまった以上ここに居ては危険だ。
俺は妻を引きずるようにして売り場方面へ逃げようとする旦那の後ろに続き、十字路で旦那が進む方向を確かめる。それは、彼らと逆の方角へ逃げるためだ。
錯乱した人間と行動を共にするのは得策ではないし、彼なら別の方角でいい囮になって時間を稼いでくれることだろう。
「おふたりも逃げましょう。」
俺は後ろにいる未だ逃げようとしない2人に振り向いて、それだけ声をかけると彼らに対する扶養義務をさっさと放棄した。
旦那がハンガーラックを妻の手を握る方とは別の手で乱暴に払いのけて道を開く。しかし、妻は倒れたハンガーラックに足を取られて躓いた。
旦那は小さく舌打ちをしてから妻を助け起こし、ようやく十字路に出る。十字路の先からは遠くはあるが、どの方向からも幾人かの人影がこちらに向かってくるのが見えている。
さあ、どっちに進むんだ...。
俺は焦る心を抑えながら、前の2人の判断を待った。
「ーおおおおおおおい!!」
奇声とは違う質の声にその方向を見ると、右の通路から人影が2つこちらに走ってくるのが見えた。
一瞬身構えるがその影の正体が段々明瞭になるにつれ、あの2人であることを理解した。その声と影は旦那にも聞こえていたのか、彼はそちらの方を向いたまま口を開けている。
「早く逃げましょう!」
しかし俺にとっては彼ら2人が戻って来たことなどどうでもいい。この状況を打破するにはここから一刻も早く離れるしか選択肢はない。だから、早く囮として先陣を切って欲しい。
そんな俺の想いとは裏腹に2人の帰還に救いを見出した様子の旦那は、どういうことか動こうとしない。
そうこうしている間に2人の偵察者との距離は20mを切り、彼らの表情も目視できるようになる。余程怖ろしい体験をしたのか彼らの顔からはすっかり血の気が引けており、余裕が完全になくなっていた。
「あれは人間じゃない!違う!違う!」
俺達の位置まで到着するなり、息も絶え絶えに2人は揃って同じことを口にし始める。
「ま、待ってください!後ろ!後ろ!」
俺は必死で見てきたものを説明しようとする2人に依然として迫る危険を知らせた。
「な、なんだ...。あれ...。」
旦那がその後ろの光景を見て絶句する。隣にいた妻も両手で口を抑えながら、その場で腰を抜かした。妻が嘔吐するのを見て、旦那も釣られる様にしてその場で嘔吐する。
後ろからは``やつら``、つまりはゾンビが数人で迫ってきていた。その速度は駆け足にも及ばない速さだが、もう後20mもない距離まで来ていた。
驚愕したのはその姿だ。どの個体も一様に身体に乾いた赤茶色の血を全身に張り付けている。その中の1体は腹から出たピンク色の長い腸を床に引きずっており、他の2体の顔からは皮膚が丸ごと削り取られていた。
やつらは、1体として自身の変わり果てた姿など意に介さない様子で、狙いを定めた俺達の方を凝視している。
覚悟はしていたつもりだったがそのリアルさと恐怖に充てられ、さすがの俺も気分が悪くなり不覚にも吐き気を抑えきれなかった。




