パニック・イン・ザ・ストア -4-
男の腕が、暗闇から伸びた小指と薬指がない血まみれの手に引きづりこまれるまで一瞬の出来事だった。通用口の奥の暗闇に半身を突っ込んだ男がどうなっているのかはここからはわからないが、俺にはそんなことはどうでも良かった。問題はこの先も安全でないことだ。非常階段という希望があっさりと絶望に変わった。
「ちょっ、ちょっと!助けないと!」
一緒に逃げていた者の中から、40歳くらいの女が指を差す。その顔と声は男の後ろを走っていた俺に向けられており、その意見に賛同するかのように他の者たちも無言でこちらを見る。この状況で俺一人に責任を押し付けるこいつらの無責任さに殺意を感じたが、この状況で食ってかかる訳にもいかない。かといって、言うとおりに一人で助けに行くつもりもない。
「ど、どうしましょう!?」
悩んだ俺は無能を演じることにした。パニックでどうしたらいいかわからないふりをし、俺に集まった視線を分散させる。しかし、一人一人に視線を向けても、誰も目を合わせようとすらしなかった。
依然として暗闇に入り込んだ男の必死で抵抗する声が聞こえてくるが、俺の中ではこの男は既に死んでいた。
「男なら行きなさいよ!」
無言のやりとりが数十秒続いた後、先程の女が語気を強めて今度ははっきりと俺に言い放った。
「お願いします。」「助けてあげてください。」
その勢いにここぞとばかりに便乗するかのように他のやつらも次々に俺に押し付ける。
冗談じゃない。この状況で助けに行けなんて、死ねと言っているのと同じだ。こいつらにはそれがわかってない。
鬼ごっこで最後に鬼になることを回避するために、次々に見えないバリアを張る小学生達が俺の目に映った。この場を離れることを決意した瞬間、暗闇から男が転がり出てきた。
「だ、だめです。この先はもうだめです。」
息切れしつつ、それだけ言うと男は急いで立ち上がった。男の白色のシャツには、あちこちにべっとりと赤い手形が付き、顔も腕も返り血で濡れていた。
「は、はなれましょう。」
男の余りの姿に絶句していた一同は、男の一声で我に返った。そしてあえなく俺達は来た道を引き返すこととなった。再び男性用、女性用トイレを通り過ぎ、間髪入れずに身体障害者用トイレの前を過ぎる。一瞥するとやはり電気が付きっぱなしで、「使用中」の表示が出ている。
通路から売り場内に引き返すにつれ、先ほどより聞こえてくる悲鳴の数が減っていることに気づいた。
「死んでる。死んでる。」
俺の前を走る男はずっと同じ言葉を呟いており、横顔は真っ青で明らかに以前より動揺しているように見えた。当然だ。これだけの惨劇を見せつけられて、動揺しない方がおかしい。俺も抑えてはいるが、内心叫びだしてしまいたいくらいだ。
「音を立てないようにしましょう。」
独り言がだんだん大きくなってきていることに気づいた俺は精神状態が不安定な男を刺激しないように全員に向けて言った。後ろを振り返ると、通用口の方は男が勢いよく開けた両開きのドアが反動で小刻みに揺れているだけだ。同じように後ろを振り返った男は怯えた目で通用口から覗く暗闇を見つめている。どうやら、運よくゾンビは追ってきていないようだ。
「よ、様子を見ましょう。」
通路から売り場へと出る角に差し掛かろうとした所で震える声で男が提案すると、全員がそれに従って歩調を緩めた。
通路の終着地点で、俺達は息を整えた。
瞬間的にいろいろなことが起こりすぎたため、それぞれが頭の中を整理する時間が必要だった。 俺にとってもここでようやく、この集団の構成員を把握する時間ができた。
まず、この集団を牽引しているのが「男」、便宜上「リーダー」とでも名付けておこう。服装は白のカッターシャツに紺色のジーパンだったが、今では血に塗れて奇抜な恰好となっている。恐らくは20代後半だが、某アイドルユニットに多そうな茶髪にパーマといった落ち着かない髪型をしている。
次に目に入ったのは、40代くらいの巨漢の男性だ。体重は100キロ近いのではないだろうか。メタボで出た腹をベルトがぴっちりと押さえつけ、なおかつ坊主頭のその姿は童謡の「ハンプティダンプティ」を連想させる。その風貌に威圧感を感じるかと思いきや、セクハラで訴えられた中間管理職のような情けない表情をしており、体型のインパクトが相殺されている。
その隣にいるのが、「夫婦」と思われる二人だ。年齢は30代、いやもしかしたらまだ20代かもしれない。旦那はメガネをかけたプログラマーでも職業にしていそうな優男で、妻は黒髪がよく似合う清廉さを漂わせる美人だ。震える手でがっちりと手を繋ぐその姿は、何十年も添い遂げてきたお互いに対する信頼と覚悟が見て取れた。
そしてその一方後ろでぶつぶつと独り言をつぶやいているのが、俺をゾンビに売ろうとしたあの「オバサン」だった。本来ならババアと呼びたいところだが、俺の中の公序良俗に反するのでやめておこう。若作りの厚化粧とフィットネスジムで自分磨きをしていそうな体型にも関わらず、年齢が40歳を超えていることは容易に推測できる。この状況でも決して離そうとしない大きめの紺のブランドバッグには、彼女の生命線でも入っているに違いない。
最後に一番後ろを歩いているのが、銀のネックレスとピアスが特徴的な短髪で金髪のヤンキーだ。そんな風貌にも関わらず、存在を疑うほど影が薄い印象を受けた。先ほどの従業員口での騒動でも一人だけ存在を消して、隠れていたのだろうか。印象がなかった。年齢は、20代か10代。どちらにせよこの集団の中で俺に一番歳が近そうだ。
「行けそうですか?」
頭を半分出して角から売り場の様子を窺っているリーダーに俺は小声で問いかける。恐らく気付いていないかもしれないが、俺は彼に泣いている姿を披露しただけでなく、先程は見捨てようとした。
「売り物の服が邪魔で、ここからじゃあまり見えませんね。あの辺りまで行けば、両サイドの通路を見渡せると思うんですけど...」
そんな俺の弱さと卑怯さを咎めることなく、普通に返答をしたリーダーが指を差した方向を覗くと、10mもない位置に置かれたハンガーラックに掛けられた服がここからの視線を塞いでいた。誰かがぶつかって位置を移動させたのか、いくつかのハンガーラックは、およそ商品を陳列するにはふさわしくない場所にある。俺の記憶が正しければその前はちょうど十字になるように通路になっており、その先をまっすぐ行くと、俺が上ってきたエスカレーターに当たるはずだ。
「これってテロなんですか?」
俺とリーダーが様子を伺っていると、夫婦のうちの旦那が、突然こちらに問いかけてきた。妻の肩を支える手は震え、その顔は不安に満ちている。
「僕にもわかりません。でもこんな田舎のデパートを狙ったテロなんてないと思いますよ。」
リーダーが顔を向けて応じる。
「でもほら今流行っているじゃないですか。過激派のイスラム教徒の無差別テロ。逆にこういう田舎の街は狙いやすいからターゲットにされたとか...」
旦那は明らかに状況をはき違えているようだった。これは明らかに信仰的にではなく、肉体的に狂人となった者の犯行だ。
「それもあるかもしれませんが、僕の確認した限りでは襲ってきた人の顔は皆、日本人の顔でしたよ。それに...。」
リーダーはそこまで言うと、青い顔で口がもつれたように言葉を濁し始めた。
「大丈夫ですか?」
俺はさも心配しているように小声でリーダーを気遣う言葉を口にする。
「と、とりあえず、警察が助けに来るまで隠れていた方がいいんじゃないですか。これだけの大事件です。すぐに助けが来ますよ。」
リーダーが俺に軽く返答をするのに被せて、ハンプティダンプティがハンカチで額の汗を拭いながら会話に割り込む。
少しのやリとりでこの状況を理解しているのは俺だけであることが分かった。
ほとんどの者が暴漢の仕業だと勘ぐっており、リーダーも感染者と対峙して何かを感づいているようだが、ゾンビ病にまでは関連付けられていないようだ。
当然だ。これまでのマスメディアの報道は、例の感染症の脅威については大々的に喚起していたが、詳細についてはいつも回りくどく、とても感染者イコールゾンビと連想させる内容ではなかった。彼らにしても今説明されたところで、まさかゾンビに限りなく近い存在が現実に現れたなんて、理解が追い付かないだろう。さらに進んで、状況を整理するとこのパニックは今いるデパートだけのものではない。俺が見た通り、感染者の一団は外から来た。あの人数から推測すると、恐らくは現在、外は感染者で溢れかえっている。そしてこの絶望的な状況についても恐らく彼らは推測できていないことだろう。
「そ、そうだ!携帯で外に助けを求めましょう。誰か携帯持ってませんか?」
旦那の発言で、全員が我に返り、自らのポケットをまさぐる。
「な、ないです...。」
「私も...。」
「僕も...。」
どうやら、皆逃げてくる途中でカバンごと置いてきてしまっていたようだった。俺にしてもカバンはそもそも持ち歩いておらず、携帯も財布もカップめんを買ったときに貰ったレジ袋に入れてしまっていて、そのレジ袋も紳士服売り場で置いてきてしまっていた。
すると、自然に全員の視線は「オバサン」の持つ紺のブランドバッグに集まることとなった。
「すみません。携帯を少しお借りしてもいいですか?」
リーダーがなるべく優しい口調でオバサンに頼む。
「ごめんなさい。私、人に携帯を見せない主義なの。」
全員の懇願をあっさりと裏切り、オバサンは要求をはねのける。この状況で何と図太い女だろうか。
「でしたら、警察に助けを求める電話をかけるだけでいいのでお願いします。」
リーダーの譲歩と他の者からの無言の圧にオバサンはしぶしぶバックからスマホを取り出し、ロックを解除する動作の後、電話を掛けた。
「話し中みたい。でないわよ。」
ものの十秒もしないうちに、オバサンはスマホを耳から離して言った。
「そうですか...。たぶん他の逃げ切れた人達が、一斉に電話をしてるんでしょう。今はそのスマホだけが命綱です。電池は節約してください。」
すぐさまスマホの手遊びに移ろうとしていたところを、リーダーに咎められたオバサンは明らかに不満そうな顔をすると、スマホをバッグにしまって小声で悪態をついた。




