パニック・イン・ザ・ストア -2-
脳は、警告を発している。
これは崩壊の合図だと。しかし、身体は好奇心に勝てなかった。
俺は向き直り、再び階段を下る。足が重い。まだ、そうだと決まったわけではないのに、無意識に身体が拒否反応を示しているようだ。
階段を下り終えると2m先に求めていたものがあった。
「現実はディスプレイを通して見るより格段に悲惨だ。」
それが俺の感想だ。その光景は、俺が今まで見てきたどんなホラー映画よりも生々しく、グロテスクで、そして怖ろしかった。
一見して、喰っている方が老人であるのはすぐにわかった。筋張った手で女性をがっしりと掴んだ老人は首筋に噛り付き、白髪には真っ赤な鮮血が映えていた。女性は、抵抗する力が尽きたのか腕をだらりとおろし、口からゴボゴボと血を吐き出している。
周囲にはすでにギャラリーができているが、誰一人として止めに入らない。当然だ。ここは戦争映画を映すテレビの前でもなければ、人身事故の多発する駅のホームでもない。幸せな家族が団欒を求め、買い物にやってくるデパートだ。
予想外の出来事に集まった全ての人間の脳がまるで集団催眠にでもかけられたように停止していた。その催眠はギャラリーの中の若い男性がスマートフォンを向けるのを合図に解けた。
「おい、やめろ!」
30代の男性が進み出て、老人の肩を掴んで引きはがそうとする。しかし、その肩はびくともしない。
「誰か手を貸してください!」
その声に反応し、さらに2名の男性が駆け寄る。
「店員呼んだほうがよくない?」
手を貸さない他のギャラリーがせめてものお手伝いにと声を出す。
「店員!店員!早く!」
伝言ゲームのように責任転嫁の声が伝うが、群衆に動く様子はない。
「食ってるんじゃない?」
「ほんとに?食べてんの?」
「グロっ。」
「お前、手伝いに行けよ。」
「いや、無理だって。」
ギャラリーはどんどん集まり、飛び交う声も増え始める。だが、皆他人事のようで、自分が今、‘‘その‘‘現場にいるなど思ってもいない様子だ。
「痛てっ!」
突然、老人を引きはがそうとしていた男性が声をあげる。
「噛まれたっ。くっそ痛てぇぇ。」
肩を掴んでいた手を噛まれたのか手の甲から血がどくどくと流れる。
「くっそ。骨が見えてる。痛い。痛い。誰か救急車呼んでください。」
男性は血が流れる手を抑えながら、うめく。
「やばいんじゃない?逃げる?」
それを見た金髪の若い女性が連れの男性に問いかける。
「いや、すげえって。テレビ出れるって。」
男性はスマートフォンを向けたまま、目の前の光景の撮影を続ける。噛まれていた女性はすでに誰が見てもこと切れており、首の骨でかろうじて頭と胴体がつながっている様だった。それを見て吐き気を催す数人のギャラリーがハンカチで口を押えながら、輪から消えていく。
前列の異様なリアクションにさらに興味を掻き立てられたのか後列が前に進むことで前列はどんどん前に押されていく。そして俺は、いつの間にか自分が最前列にいることに気づいた。
ここにいてはまずい。俺は好奇心と人の波に逆らい、集団から抜け出した。
抜け出すと同時にさすまたを持った男の店員2人が大急ぎで走ってくるのが見える。
「危ないので離れてください!」
大声で叫ぶさすまたを持った店員に集団が道を開く。
店員は2人がかりで老人を隅に追いやろうと、さすまたを押す。それに反応した老人は、ようやく女性の首から口を離し、立ち上がった。
立ち上がると同時に再度ギャラリーから悲鳴があがった。
老人の顔は、おおよそ生きていると判断できる様相を呈していなかった。顔に欠損こそないが、頬が異様にこけ、白目が黄色に変色した眼球は、ギョロギョロとせわしなく動き回っている。どう見ても正気ではない。それがギャラリー全員に伝わった。
「お客様にお知らせします。ただいま館内にて暴力事件が発生しております。お買いものをお楽しみの中、まことに申し訳ありませんが従業員の指示に従い、速やかに避難してください。」
館内放送が繰り返される中、俺は入口の方から新たに聞こえてくる悲鳴に耳を澄ました。
俺は入口の様子を見るために階段に上った。直接見に行くことも選択肢にあったが、凄惨な光景を再び間近で見ることに抵抗を感じ、高いところから様子を伺うことにした。5段ほど上がったところで入口に目が届き始める。
俺は、すぐに過去の自分の選択に感謝することとなった。
入口からは、店の外より大勢の群衆が押し寄せており、入ってくる群衆と元いた群衆が入り乱れ、店内に見る間に悲鳴の波が広がっていった。やがてその波は、先ほどまで自分がいたあの集団にも伝播し始めた。入口に近かった者は反応が遅れ、彼らの餌食となっていく。
その光景に集団の残りは、3秒の間立ちすくむ者と即座に逃げ出す者に分かれた。立ちすくんだ者は即座に噛まれ、引き裂かれながら、後悔の声をあげる。自分の状況を把握した者から次々と集団を離れる。
その場にとどまり、むなしく食べられる自らの家族を助け出そうとする者もいたが、すぐに死の波に呑まれた。子どもを抱きかかえる父親、恋人を置いてけぼりにした男、買い物袋を提げた主婦、次々とこちらに向かってくる。
彼らは俺の横をすり抜け、必死の形相で上段へとかけ上がる。
1秒。
2秒。
3秒。
やっとそこで俺は自分が当事者であることを認識した。
俺は完全に傍観者になっていた。少なくともこの場では俺が一番の状況の理解者だったはずだが、何の警告も助けも出さなかった。だが、心に後悔の念が生じる暇はなく、心は身体を生に向かい、階段を駆け上がらせた。
階段を上り終えても、後ろは振り向かず走り続ける。
「死ぬ!死ぬ!死ぬ!」
それだけが頭の中を駆け回った。
脳はアドレナリンを噴出させ、久しぶりの運動に悲鳴をあげる肉体を黙らせ、過去最大の危機に対処する。全速力で婦人服売り場を抜け、靴売り場を抜け、もう一方の階段から一階に降りるため次の紳士服売り場で右に曲がる。
しかし10m離れたもう一方の階段からも逃げてきた人々が次々上がってきていた。その後を追いかけてやつらが階段を上るのが見える。
「どうする。どうする。」
立ち止まり周囲を窺っていると額から汗が流れ、目に入り込もうとした。視界が奪われることを防ぐため、無意識に袖でふき取る。
もうかなりの数、やつらがこの階に上がってきているようだ。
男、女、子供、老人、判別しきれないほどの人間の声が入り乱れ、絶望を合唱する。子どもの悲鳴が聞こえなくなったと思ったら、女性が悲鳴をあげ、その女性の悲鳴はまた次の歌い手へとバトンタッチしていく。
「落ち着け。落ち着け。考えろ。考えろ。」
「今まで何本ゾンビ映画を見てきたんだ。こういう時こそ冷静になって、生き残る方法を考えないと。」
絶望の合唱に充てられないように言葉に出す。そして俺は逃げるのではなく、生き残る方法を模索した。このフロアでしばらく難を逃れられる場所。カギがかけられて、電気が通っていて、しばらく過ごせる場所。
「身体障害者用トイレだ!」
俺は車いすの表示を探して再び走り出した。
逃げる最中、だれがゾンビで誰が生存者なのかは判別がつかなったので、人の影が見えれば売り場内を通って迂回した。こちらに気づき、助けを求める者もいたが無視して走り続けた。
助けるという選択肢は端からなかった。その選択が多くの新参ゾンビをつくってきたことは映画で漫画で小説で幾度となく見てきたからだ。結局、俺は自分さえよければいいのだ。自分の卑怯さを受け入れることが、自分の心を守ると信じた。
そうしてスポーツ用品店を抜けると、すぐ先に目的の案内表示が見えた。
 




