第八帖。西部軍もし戦わば
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昭和十九年十一月三十日 名古屋 清洲飛行場
一週間前の話になる。
十一月二十四日、小笠原諸島の対空監視哨が大編隊で北上するB29を発見したのは午前十一時のことだった。
それは第73爆撃航空団の司令エメット・オドンネル准将が自ら率いる九十四機のB29群である。
監視哨はただちに東部軍へ通報した。
敵は明らかに本格的な東京空襲を意図している、と判断した第十飛行師団司令部は隷下の各戦隊に警戒戦備甲を命じる。
そして十分後、当直戦隊である独立飛行第十七中隊と飛行第七十戦隊をまず発進させた。
二時間半に及ぶこの戦闘で、第十飛行師団はB29を五機撃墜、九機撃破の戦果を挙げた。一方で未帰還機は体当たりを行った二機を含む三機。
中島飛行機武蔵製作所を爆撃したB29群はあまった爆弾を附近の市街地に捨てると、鹿島灘から洋上に消え去った。
サイパン島を飛び立ったB29が東京を空襲して帰還するまで往復で十三時間。半日以上にも及んだ初出撃はあっさり終わったが、その後の偵察調査で恐るべきことが判明する。
目標地区内への命中弾はわずか十六発に過ぎなかったのである。この日のB29は一機あたり五千ポンド……二・三トンの爆弾を投下した。それが九十四機分も投下しておいて命中はたった十六発。
アメリカ軍は「爆撃は不成功」と断ぜざるを得なかった。
他方、アメリカ軍の判断など知らない日本側は「帝都の砦」が脆くも崩れ去ったことに焦りを覚えていた。味をしめたアメリカ軍の続行は間違いない。
昭和十九年十一月の日本本土防空戦は、日米両軍ともに「失敗」の烙印を押したのである。そして、日米お互いがそれを知らなかった。
日本軍は偏西風に悩まされていたが、アメリカ軍はもっと悩まされていた。なまじ、高度一万メートルという高高度だからこその悩みであった。
もし爆撃を高度三千メートルから行えば偏西風など関係ない。B29から投下される爆弾のほとんどは目標に命中しただろうが、戦闘機の護衛なしにそんな低空を飛べない。いかにB29といえど、たちまち日本軍機と高射砲の餌食になるだろう。
先月のレイテ沖海戦に大敗北した日本海軍は今やほぼ全滅同然。日本陸軍は飛べないからB29の前には無力だ。
今や日本に最後に残された空軍力……防空戦力だけが脅威であった。
そこで高度一万メートルから侵入すれば、日本軍の戦闘機、高射砲は脅威ではない。かつ、がっちり組んだ編隊からは濃密な機銃掃射を行う。高高度飛行と編隊。この二つこそがB29の最大の武器であり、わざわざその片方を外そうなどとは考えるわけがない。
ハンセルは精密爆撃の難しさを再認識させられた。
東京が空襲を経験し、B29の長所と短所とを研究している頃、悠祀は雨に悩まされていた。
今月は雨がよく降った。
清洲飛行場が水びたしになってしまったため、第五十五戦隊のいる小牧飛行場への引っ越しを知ったのは、つい昨日のことだ。
清洲飛行場はてんてこ舞いの騒ぎだった。
三角屋根の気象台と前庭とを、気象兵たちがひっきりなしに往復していた。ブリキ製の長持ちを二人がかりで運び出す兵があれば、不要な書類をドラム缶の火にくべている兵もある。
忙しそうな兵たちを、風見鶏が風に流されながら見おろしている。
控え所の方でも兵たちが忙しげに動いている。菰で巻かれた行李がいくつも積まれ、通信機などの精密機器が丁寧に梱包されてその脇に置いてある。
「えれー騒ぎになったもんだ」
「小さな基地だと思ってたけど、いざ引っ越すとなると大変だね」
引っ越しするのは人だけでない。
第五戦隊にある機も小牧に移駐して間借りすることになっている。これも戦力の低下を防ぐためである。
——第五戦隊が間借りできるくらい小牧飛行場は広いってことかな。
整備兵は引っ越しの準備をとっくに終え、空輸する機の整備に入っていた。
悠祀はといえば、パラシュートをトラックの荷台に積み上げながら、複戦に取りつく靜の背中をボンヤリ見ていた。よく伸びた背筋。すらりとした肢体。
靜は主翼の上でスパナを動かしている。どこをどういじっているのか知らない。悠祀の仕事は操縦だから、車輪の固定鉤とか、滑油冷却器とか、燃料移送パイプとか言われても、詳しいことなど何もわからない。ただ単語から想像するのみだ。
「よし、終わりだよ」と寺嶋が額の汗をぬぐう。
「じゃ、どこかに手伝いでも行くか」
軍手を外す。体はいい感じに火照っていた。
清洲に陸軍飛行場が開かれてからわずか一週間。たいした思い出のない飛行場だったが、いざ離れることが決まると何だかさびしい。
雨で冠水した滑走路を眺め渡した。
離着陸のとき水たまりに主脚を引っかけたら、機は転んで大惨事だ。引っ繰り返れば風防とともにパイロットを押しつぶすのだ。
「いつ発つんだろ」と、首に巻いた手ぬぐいを使う寺嶋。
「俺たちか? さあ。とりあえず腕の立つパイロットから順次移動しているらしいから、今日のうちは無理だな。明日あたりじゃねーか」
「そうすると、今日は最後の清洲飛行場ってことだね」
寺嶋は感慨深そうだった。
「そうさみしがることもねーよ。どうせまたすぐ戻って来るさ」
「そうなの?」
「いつまでも間借りってことはないだろうし、第五十五戦隊だっていつまでもいられちゃ迷惑だろう。ま、さておき一番の懸念は——」
「懸念は?」
「——引っ越し先の小牧飛行場には〝ワルさ〟をできる場所があるかってことだ」
「これを機にやめたら?」
「善処するよ」
寺嶋は、そうかい、と言って苦笑する。それは「駄目だこりゃ」の表情である。もっとも寺嶋だって配給の煙草を悠祀に売りつけてくるのだからお互い様である。
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昭和十九年十一月三十日 九州 福岡
昭和十六年六月、独ソ戦が勃発したのに合わせて大規模な動員が下命された。在満鮮兵力を八十五万名に増加するため満洲方面に対する兵力の集中輸送が行われた。
いわゆる関東軍特別演習……関特演と略称される。
これに合わせ、国策要綱においては国内戦時体制の徹底的強化、特に国土防衛の強化策が決定され、昭和十六年七月に創設された機関がある。
防衛総司令部である。
防総と略されることがままあるこの機関の現在の司令官は陸軍大将東久邇宮稔彦王殿下である。
防衛総司令部は天皇に直隷し、防衛に関し、東部、中部、西部、北部、朝鮮および台湾の各軍司令官ならびに所定の航空部隊を指揮し、内地、朝鮮、台湾および樺太の任務に任ずるものとしている。
つまり大日本帝国陸軍すべてを支配する組織である。
建物は市ヶ谷台上の陸軍中央官衙の中でも最も西南の端にある。市ヶ谷台上にある建物の中では古参の建物で、どこか漂う気品が他の建物とは一線を画す。
防衛総司令部の作戦室は日本の築城技術の粋を尽くして構築されている、とのもっぱらの評判で、宮中の防空壕とともに最後まで生き残れる地下壕とウワサが立つほどであった。
防衛総司令部の戦闘序列から判断すると、西部軍は中国、四国、九州を防衛する。
このうち四国防衛の主力は西部軍司令官隷下の留守第五十五師団であり、司令部は高知市をのぞむ高台にある。防衛総司令部の創設と同時か、それよりも早くからか地下壕の建設が進められており、完成すれば第五十五師団の機能は地下にもぐる。
完璧に防げるわけではないが空襲や艦砲射撃を避けるには地下壕に入るしかない。
「そうそう、自分たちが視察に行ったときはまだ建設中だった。あれから半年にもなる。もう完成しているのかな」
会議室の巨大なテーブルを前に下村定中将は懐かしそうに目を細める。丸眼鏡を外し、ハンカチで丁寧に拭いている。
下村は西部軍司令官を務める。防衛総司令官の東久邇宮稔彦王殿下とは陸士の同期である。
話し相手のもう一人もうなずいている。
「そうですね。もう半年ですか。時が流れるのは早いですなあ」
こちらも同じく中将である。芳仲和太郎は西部軍参謀長で、二人揃って視察に行ったときのことをふと雑談にしているのだった。
下村は眼鏡をかけ直して言う。
「その四国もとうとう西部軍の手を離れるのだな。うん、さびしい話だ。これからは中部軍の防衛担当範囲になるのか」
「そうです。来年の二月に移譲されることが決まりました」
「ま、何年も前からそれらしい兆候もあったからな」
すでに「昭和十六年度帝国国土防衛計画訓令」には、防空からの見地では四国において収集された防空情報は、隷属系統に従って西部軍に報告されるのに優先して、中部軍に送達されるようになっていた。
それに五月の防衛総司令官、軍司令官会合の席上では、四国は阪神地区の防衛に重要である、との意見が出ている。四国には十八基の海軍見張電探が太平洋をにらんでいる。
「ええ」と芳仲は再びうなずく。「おそらく我々西部軍をして九州防衛に専念せしめるというのが中央の考えなのでしょう。奇遇だが現地にいる我々も同意見だ」
「それならば移管後の動揺も少なくて済むな」
「はい。四国全体には十八基。足摺岬だけでも海軍の見張り電探が五基設置されているのはご存知ですか」
「ああ、足摺岬の。聞いている。昨今のB29の侵入を知るには彼らあってのことだ」
「防空情報は無線で結ばれています。命令系統が変わっても任務は揺るぎませんよ」
「確かに。移管だの移譲だのは受信側の問題だからな。組織の改編で防空に穴が開かないのは結構なことだ」
組織の改編でいちいち情報が途切れていては防衛に隙間が出来てしまう。
情報を結ぶ手段は主に二つある。有線と無線通信である。
有線は遠くまで情報を運べるが空襲や爆撃で寸断される恐れがある。一方で無線は不特定多数に情報を送れるが、出力によっては近場しか受信できないし到達範囲は地形に左右される。
芳仲はテーブルの上に広げられた地図を食い入るように見つめる。それは日本列島の九州と四国を拡大したもので、部隊名とともに大きさの異なるピンがたくさん刺さっていた。
部隊の所在位置と規模が一目で分かる。これは下村の自作である。芳仲は言った。
「それで下村さん。西部軍の具合はどうですか」
「そうだな」と下村は答える。「西部軍は一般的にみて支那事変初期のように訓練の出来た精鋭な軍隊ではない。練度は中以下。防空兵力は比較的、充実しているが、数を揃えてもどうしようもない。陸海軍ともに実戦の経験が全くないのだからな」
「かんばしくありませんか」
「ああ。一番困っているのは全天候の飛行機が陸海軍を合わせても三十機もないところだね。これじゃ晴天時はよくても雨の日は敵情を探れない。めくらだよ」
「その代わり勉強会なるものを開催しているそうですね」
「おう、足りなければ補わねばならん。みんな非常によくやっていてくれている」
「地方の様子はどうです」
地方とは軍隊言葉で「民間」のことである。軍人、軍属以外の者をさし、軍人に対して民間人を「地方人」などと呼ぶ。
「九州は伝統的に尚武の気性の強いところだ。戦意も非常に旺盛。我々軍人もうかうかしてはいられんほど気合いがかかっている」
「それは素晴らしいことです」
「しかし何分にも地方人だからな。軍事上の知識もないし戦局の認識も不充分だ。もし軍と協調するならば、よほど訓練指導しなければだめだ。特に空襲と沿岸防備、それに地上における重要な交通施設、あるいは大事な物件の防護措置はほとんど出来ていない」
「そうですか。海軍との協調性は?」
「昔から司令部と鎮守府との仲が良かったから緊密だ」
「それでは敵の本土侵攻に際しても心構えといいますか、根本的な精神は育ちやすいのですな」
「そうだ」
芳仲の問いかけに下村は断言した。
それで芳仲は満足したようで、いよいよ本題に入った。
「私は本年中の日本本土侵攻はあり得ないと考えておりますが、いかがです」
「当たり前だ」と下村は即答する。「たとえ小規模であっても年内には起こり得ない。そうだな、沖縄を含めるが、我が本土に対するアメリカの本格的上陸作戦は早くても来年の春以降になるだろう」
「私もそう思います。現状、どれほどアメリカの国力が勝っていようとも春よりも早めることは出来ないでしょう。しかし仮定の話、下村さんなら上陸地点にどこを選びますか」
下村はテーブルの上の地図をしばらくながめていた。とは言ってもそこには四国と九州しかない。
ゴールが帝都東京であることは前提条件の範囲内だ。しかしアメリカ軍がいきなり東京へ上陸しないのは決まりきったことである。
最も防御されたところへ殴り込めば彼我ともに大量出血を免れ得ない。
「太平洋方面であることは間違いないが……。南九州であろう、としか言えん。漠然とし過ぎている解答だが、今はこれとしか言えない」
「やっぱり南九州ですか」
「うむ。私ならまず南九州を制圧して、そこの無数の航空基地から東京を反復空襲するね。そうして戦力を削いでから東京へ上陸だ。いきなり東京に行くのでは犠牲が大きすぎる」
「なるほど。すると南九州の後に東京上陸ですか。いずれにしても具体的な地点は戦局が転ぜられてからでないと判然としませんね」
「そもそも南九州に上陸するよりもまず、小笠原諸島もしくは沖縄を取ると思う。だからそちらの防備を進めるのが先だな」
すでに大本営は六月二十六日、小笠原諸島方面の第百九師団を基幹として小笠原兵団の戦闘序列を令している。これにより小笠原諸島を防衛する小笠原兵団は大本営直属となった。
また七月には独立混成連隊三個を基幹とする部隊を伊豆諸島に派遣し、防衛総司令部の隷下に入れていた。こうして小笠原方面の防衛は強化されていたが、下村にはこれでも不充分に感じた。
芳仲は言う。
「そうですね。しかし内地の防備も併行して進めるべきです。万が一に備えて研究はしておくのがよろしいかと」
「ああ。だが外に改めて指示する時機でもなかろう。今は設備に時間のかかる箇所だとか複郭的に守らねばならぬ箇所を考えるときだな。とりあえず南九州は防衛の重点地点だ。そのように研究させよう」
「はい。将来的には防衛のための大兵力が配置されるのは疑いありません。今年中にもいくらか動員はあるでしょうが、今は研究にとどめるべきですね。今のうちから兵力を固定しておくのはよろしくない」
「同意見だ」と下村は肯定の仕草をした。「研究を怠らないのは結構。だが今はそれより先には進まない方がいい。いや、進めない。研究が実践に移されるのはそうだな、来年八月よりも後になるかな」
「八月ですか」と芳仲は疑問顔である。「なぜ急に具体的な日付けが……? 昭和二十年八月……あ!」
「何があるのか分かったか?」
「はい」と芳仲は実に渋い表情を作った。
それを見て下村は少し笑い、言う。
「八月には陸軍の定期大異動がある。人が変われば考えも変わる。もちろん我々だって敵さんの上陸に備えた陣地を考えるが、それを実際に実行するのは八月以降に西部軍にいる者たちだよ」