第六帖。陥落したる彩帆島(サイパン島)にて候
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昭和十九年十一月二十三日 サイパン
サイパン上陸に先立ち、アメリカ軍は海と空から猛攻撃を加えた。艦砲射撃と空襲に何とか耐えた建物もその後の市街戦であらかた破壊された。
かつてのガラパン市は人口二万を擁したサイパン最大の市であったが、いま残っているのは地下に埋設された水道管と焼け残ったビル壁くらいである。
サイパン占領を宣言したアメリカ軍は、ガラパン郊外のかつて日本海軍病院だった場所に臨時の司令部を設けた。郊外に建っていたせいか建物は完全なる破壊から逃れていた。
アメリカ陸軍第27歩兵師団の兵隊たちは復旧のためにまず道路網を整備した。ブルドーザーで地面はあっという間にならされ、ガレキの山は燃やされるか海に捨てられるかして、今ではガラパン市を南北に貫く目抜き通りと、四方八方に広がる独特の道路網が再び姿を現しつつある。
商店らしいものもちらほら見える。
それらは兵舎や酒保であり、まばらに見かける人影はすべてアメリカ軍人だった。
日本人は軍民を問わずすべてチャランカノア海岸のススッペ収容所に収容されている。
その目抜き通りを、一台のジープがもうもうたる砂ぼこりを上げて疾走している。将官旗のはためく公用車で、護衛のジープに前後を挟まれている。
「あれほどのガレキがあったのにすっかり綺麗になったじゃないか」
後部座席に腰を下ろしていた痩せのアメリカ軍准将が感慨深そうに言った。ポマードで整えられた髪。感情に乏しい顔には年齢相応のシワがある。
ヘイウッド・ハンセル准将。
第21爆撃集団の司令官であり、それはつまりサイパン島に駐機しているすべてのB29を指揮する男だった。
「そうは思わんか。オッディ?」
ハンセルは隣に座る、禿げ気味の准将に声をかけた。
「ああ」と禿げ気味の准将はうなずく。「我が軍の物量はすごい。これなら日本が焦土になってもすぐに復興させてやれるな」
オッディと呼ばれた男がジョークを言うと、ハンセルには珍しく仏頂面を微笑みに変えた。
オッディというのは愛称で、本名はエメット・オドンネルという。階級は准将。
ハンセル准将が司令を務める第21爆撃集団の下には現在、爆撃航空団が一つだけある。第73爆撃航空団がそうであり、オドンネルは第73爆撃航空団の司令である。
ハンセルがサイパン島で一番偉いしすべてのB29はハンセルのものだ。
しかしひとたびB29が飛び立てば、すべてオドンネルの指揮に置かれるのである。
階級が同じなのに片や上司、片や部下なのは特別な理由あってのことだった。いったん離陸すればいちいちサイパン島に指示を求めてはいられない。そういうとき現場で判断する人材が必要と考えられ、それがオドンネル准将であった。
ハンセルもオドンネルも互いを尊敬し合っている。ジョークも言えば辛辣な意見も言う。柔軟な仲にある。
二人の准将をメインとするジープの群れはガラパン市内に新築されつつある司令部に近付く。門衛がきっちりとした敬礼をした。
白亜のニ階建ての司令部は完成間近である。
ハンセルとオドンネルは揃ってジープを降りると司令官室へと入った。
「オッディ、部下たちはどうだ。こう延期が続いては彼らも鬱憤が溜まっているんじゃないか」
「ああ。その通りだ」とオドンネルはうなずく。「何しろ最初の東京空襲は十一月十七日だから……先週の予定だったじゃないか。それが毎日、延期に次ぐ延期。とうとう一週間も経っちまった。憂さを晴らさなきゃ、彼らもやっていられないさ」
「勇敢なのは結構。だが勇み足では困るよ。延期したのにも理由があるんだ。その辺りを彼らにちゃんと説明してあげてくれよ」
「したさ」
オドンネルは素っ気なく答えた。言われるまでもなく何度も説明していたのである。
東京空襲作戦……オペレーション・サン・アントニオは十一月十七日発動の予定であったが、〝目標地点〟の天候が不順で延び延びになっていた。
アメリカ軍は対日戦に従事させる陸軍航空隊を極東に配備した。それが第20航空軍であり、ハンセルが司令官を務める第21爆撃集団の直属の上部機関にあたる。
第20航空軍の本部はワシントンにあり、司令官はハップ・アーノルド大将である。
第20航空軍はサン・アントニオ作戦を発動するについて、精密爆撃を本旨としていた。これだけを聞けば、以下のように思われる。空襲するのは軍需工場や軍事施設のみとし、一般市民のいる市街地には手を出さない。
ハンセル准将はこれを忠実に遂行しようとしていた。ハンセルは任務に忠実な男であり、極めて朴訥な男であった。
だが実際の第20航空軍は、精密爆撃と同時に焼夷弾攻撃による無差別爆撃の可能性にも言及していたのである。
ハンセルは精密爆撃で成果を挙げるべきで、無差別爆撃には頼るべきでないと考えていた。アメリカは日華事変のとき日本軍の重慶爆撃を非難した。あるいはソ芬戦争ときフィンランドへの無差別爆撃を行ったソ連を非難した。
非難しておいて今度は自分が無差別爆撃を行うわけにはゆかぬ。ハンセルはそう確信している。
日本に対する具体的な攻撃目標は次の通りである。
・三菱重工名古屋発動機製作所(名古屋)
・中島飛行機武蔵製作所(東京、陸軍機エンジン)
・中島飛行機多摩製作所(東京、海軍機エンジン)
・川崎航空機明石発動機工場(兵庫県)
ハンセルはこれら目標地点に向けて何度も偵察機や観測機を飛ばし、付近の気象状況を報告させた。
万全を期すためである。
第3写真偵察飛行隊の「東京ローズ」号を十一月一日、五日、七日に東京上空へ派遣している。その後は「空の喧嘩屋」号もこれに加わり、さらに十三日と二十三日には攻撃の第二目標として名古屋上空へも偵察飛行させていた。
ハンセルは慎重な軍人であった。
自らもパイロットの資格を持ちB29を操縦できるこの男は精密爆撃の効果を上げるため、日本本土の軍需工場、軍事施設の写真を何万枚も撮らせている。また〝練習〟のため、トラック島の日本海軍潜水艦格納庫を目標に三十回以上も空襲訓練をさせている。
オドンネルは、彼、ハンセルのそうした性格を知っている。よく言えば慎重だが、悪く言えば神経質である。
戦場では繊細さはむろん必要だが、ときには勇敢さも必要であるとオドンネルは考えている。
昭和十七年に東京を初空襲したB25の乗組員たちは事前に東京の天候を知っていたか? 戦闘機の配置図や対空砲の位置を知れたか? 攻撃目標の上空写真を持っていたか?
今回のように偵察機を飛ばせる余裕は一度もなかった。ぶっつけ本番であった。それでも彼らは微力ながら空襲を完遂したではないか。
オドンネルは口を尖らせる。
「説明はしたがね、彼らだって熱心なんだ。はるばる西海岸からハワイを経由してやって来ておいて延長続きじゃ気がゆるんでしまう」
「そうだが晴天でなければ精密爆撃は行えない。B29は雲の上を飛ぶのだからな」
「分かっているさ」
「息抜きをさせてやってくれないか。僕に出来ることなら可能な限り力になる」
「そりゃあありがたい。それじゃ島巡りの許可範囲を広げてほしい」
「何? 危険だぞ。特に島の東側のジャングルにはまだ日本兵がひそんでいるんだ」
「知っているさ。だから立ち入り禁止箇所をいくつも設けてあるんだろう」
ジャングルや山岳地帯にはいまだに五、六千名の日本兵が立て籠っていると予想されている。
特に島の東側の山脈はそのまま島の北端まで連なり自殺岬として絶壁になっている。
そして洞窟はすべて立入禁止である。
「散歩は気分転換になる。ニューヨークのパークが懐かしいね。ハンセル、散歩が難しいならアイスクリーム製造機の数を増やしてくれ。それにコカ・コーラをありったけ配給できるようにしてもらいたい。せめてその程度は準備してやりたいんだ」
「分かったよ、オッディ。手配する」
言うや、ハンセルはどこかに電話をかけ始めた。その会話が終わってからオドンネルは何気なく話を続ける。
「それにしても敵は楽なもんだな」
「ん?」
「こちらは気を遣ってお邪魔するのに、向こうはただ待っているだけでいいんだからな」
「ははは、違いない」
「それにこっちの気遣いは何も東京の天候だけじゃないからなあ」
オドンネルは言って、壁にかけられている大きな二枚の地図に目を向ける。両方とも日本地図であるが、片方には冬、もう片方には夏と説明書きがあり、それぞれの季節で日本上空の気流や雲の様子が描かれていた。
ハンセルは説明する。
「オッディ。日本上空は今の時期、強くて冷たい北西の風が吹く。これは観測機が何度も遭遇したものだ。高度一万メートル上空には正体不明だがこの偏った、一方向に流れる強風があるんだ。爆撃の最大の障害は間違いなく気象だよ」
アメリカはジェット気流の存在を知らない。ただ高度一万メートルには一方向に吹く強風があることは経験から知っていた。
そして機だけでなく投下した爆弾もその強風に流される。それが精密爆撃を難しくしているのだった。
それならば高度を下げればいいというアイデアが出されたが、即座に却下された。今や太平洋から日本軍は駆逐されつつあるが、日本本土には無傷の部隊が山ほどいる。それは空軍力であり、高射砲部隊であり、レーダー網である。
普通、爆撃機には戦闘機の援護が付随する。重い爆弾を抱えて飛ぶ爆撃機など、いい的だからだ。ところがサイパンから日本を往復できる戦闘機などアメリカにはない。
だから苦肉の策として、高度一万メートルの高高度を飛ぶ。
日本の戦闘機がやって来られない高度一万メートルを飛び、もしそれでも戦闘機が来れば二門六基、合計十二門の12.7mm機銃と、尾部の20mm機関砲で濃密な火網を作り出し、寄せ付けないようにする。
そしてあとは四基あるエンジンで逃げ切るのみだ。逃げに徹した作戦。それがサン・アントニオ作戦の本質だった。
高度と火網と速度が彼らB29の寄る辺だった。
「気象にあるのは重々承知だよ」とオドンネルは言う。「忌々しい風め」
「ああ。強風は二百ノット……時速三百七十キロだ。秒速ならなんと百メートルだぞ。もしこれに乗ればB29の対地速度は五百マイルを超すだろうね」
五百マイルは時速八百キロである。
これはB29の最大速度よりもはるかに速い。そして悠祀たちの想定する最大速度七百キロよりも速い。
「それに乗ればすぐ逃げられるな」
「ああ、そうだな」
ハンセルもオドンネルも悔しそうに笑った。
それからハンセルは付け加える。
「機体はどうにでもなるがパイロットはそうそう補充が出来るものではない。彼らにはぜひとも逃げて帰ってきてもらいたい」
「ほう。はっきり言うね。伝えようか?」
「オッディ、それは蛇足というものだ」
「そうかい」
「そうさ。心の中にとどめておいて欲しいだけさ」
オドンネルは思う。ハンセルほど部下思いで自分に厳しい者はそうそういないんじゃないか?
「オッディ、武運を祈っているぞ」
「ああ。当たり前だ。見ていてくれ。きっと逃げて帰ってくる」
オドンネルは胸を張って答えた。ハンセルはそれを見て笑顔である。
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昭和十九年十一月二十三日 サイパン
チャトラル・マートス少尉は第73爆撃航空団第499爆撃航空群に属するパイロットである。
1917年ミシシッピー州生まれの二十七歳。昨年七月にテキサス州ウエーコのブラックランド陸軍航空学校を卒え、今年四月、この第73爆撃航空団第499爆撃航空群に配属となった。
最初にB29を見たときマートス少尉は驚いた。
まずその巨大さである。全長三十メートル。全翼は四十三メートルにも達する。これまでになく最大かつ最先端の飛行機、との触れ込みも手伝い、マートスはたちまちこのB29のパイロットとなった運命を喜んだ。
落とされにくいことでお墨付きのB17「空の要塞」を超える爆撃機……「超空の要塞」B29。新鋭機にありがちな故障の多さにも慣れてきていた。
「マートス少尉」
兵舎の入り口で声をかけられた。振り向くと、頬を腫らした一等兵が立っている。モジャモジャ頭が特徴的である。
「ちょっと相談があるんですがね、少尉。今度ウイスキーを優先して売ってもらえませんか。欲しいものがあるんですよ……いてて」
「ああ、構わんよ。どうしたんだその頬は。虫歯か? 今朝は何ともなかったじゃないか」
マートスはモジャモジャ頭の一等兵……スミスにたずねた。まだ十七歳の人懐っこい少年である。しかし体が大きいのと老けた顔のせいで、やや年上に見られがちだった。
「いやあ、ちょっと殴られたんです」
「ケンカか? 御法度だぞ」
「いえ、そんなもんじゃありません。ジャップの子供に殴られたんですよ。ま、殴り返してやりましたがね」
日本人の蔑称ジャップという単語を、スミスは愛着を込めて呼ぶ。こんな風変わりな男はスミスくらいだろう。
マートスは目を丸くする。
「日本人の子供? 労役のか? 何があったんだ一体」
スミスは赤ん坊の頭蓋骨でキャッチボールしたことを面白おかしく話した。
「というわけなんです。ねえ少尉、ひどい話でしょ」
「ああまったく。スミス、それはいかんことだ」
「えっ! 俺ですかい!」
「君だって自分の子供が死んだとき、その頭蓋骨でサッカーをやられたらどう思う?」
「殺してやりたくなりますね」
「その日本人の子供も同じように感じただろう」
「そうですか? だってジャップですよ。あんな〝民族的に子供〟な人種も感情とかあるんですかねえ」
「あるだろうよ。そりゃあ」
「ふうん、そんなもんですか」
スミスはあまり分かっていない様子だった。愛着を込めて呼んでいるといっても、ペットをかわいがっているのと大差ないのである。
人間扱いしていない。
スミスは陽気な人柄だった。本職はトラックの運転手である。運輸部と仲が良いらしく、このスミス一等兵に頼めばジープでもトラックでも一日中貸切にすることが出来る。
以前これでサイパン島一周をしたことがある。もちろん対価にB29にコッソリ乗せたり、配給品を横流ししたり、あるいはウイスキーを売ってやったりしている。
「ところで少尉、明日は飛びますか?」
「明日は東京空襲を行うかって? ああ、飛ぶとも。飛ぶのさ」
マートス少尉はそう断言する。
「へえ! 少尉には未来が見えるんですかい。でもなぜ分かるんです」
「明日は本国では感謝祭だろう。時差の関係でサイパンでは今日が復活祭の日だがね。僕らはいつも祭日に重要な飛行をしている。本国を離れたのは復員軍人の日で祭日だったから、きっと今回もそうなるのだ」
「へええ? そうですかねえ」
「賭けるか」
「ようがす。それなら俺はサイパン一周の旅を賭けましょう。少尉は?」
「ウイスキーをただでやる」
「成立ですね」
マートスとスミスは互いに笑った。