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第四帖。おっぱい菊菜と偏西風

 昭和十九年十一月二十三日  清洲飛行場


「やっと帰ってきましたよ。最後の機が」


 額に手をかざして、藤村(ふじむら)中尉が空を見上げた。滑走路に進入しつつある一機の複戦。

 その横っ腹には「神」を図案化した模様。一目で神佐悠祀の機だと知れる。


「ふん……。ようやっと帰ってきたか」


 もじゃもじゃ髭をなでながら、繁國戦隊長がうなる。

 日米開戦から来月で丸三年。戦争完遂を祈念して、開戦の日から一度も剃らない髭。一日でも剃らなければ見苦しくなるほど剛毛なのに、三年分ともなれば圧巻そのものだった。夜中に歩いていたら鬼が現れたと勘違いされそうだ。

 部屋のほこりをあの髭でからめ取ったらさぞ面白いだろうと、藤村中尉はしばしば考える。もちろん実行したことも提案したこともないが。


 悠祀の複戦は高度を下げつつあった。

 藤村中尉も繁國戦隊長も、自然と肩を強張らせている。これから着陸するのは、飛行時間がたった三百時間のヒヨっ子なのだ。

 悠祀が見せる日頃の訓練の様子を加えても、恐怖の一言に尽きる。


 ——ん? 高度がちょっと高いぞ?


 藤村中尉の顔が曇る。


「ふん……?」


 繁國戦隊長も気付いたらしい。そして、二人の予想は的中した。

 悠祀の複戦は、九、七、五メートル……と高度を順調に下げている。その矢先、三メートルを切ったあたりで失速し、


 どん


 と、着陸した。


 そして、そのまま何事もなかったように滑走すると、ブレーキをかけてみるみる速度を落とし、滑走路を五分ノ一くらい残したところで停止した。


「あ……、ふー。焦りますよ」と藤村中尉は胸をなで下ろす。


「ふん……。まったく。見てるこっちゃあ冷や汗もんだ。ま、何ともなさそうだし、いいだろ」


 悠祀の複戦は、滑走路から枝分かれする誘導路を走り出して、駐機所に収まった。左右のプロペラが止まる。整備兵が取り巻く。風防ガラスが開けられ、少年が顔を出す。

 数えで十七歳の陸軍伍長神佐悠祀である。

 西洋では生まれたときを〇歳とし、誕生日を迎えるごとに年を取る満年齢が使われる。日本では生まれたときが一歳で、以降は正月ごとに年を取る数え年が普通だった。


「ふん……。まだ紅顔の少年を矢面(やおもと)に立たせにゃならんたあな。この戦争はだいぶん厳しいぞ」


 繁國戦隊長は「大分(だいぶん)」の部位に力を込めて、独り言をした。

 その横で、藤村中尉は黙っていた。




 昭和十九年十一月二十三日  清洲


 操縦席から出た悠祀は、主翼に降り立つ。ゴーグルを外して一息つく。真冬のはずが、温かい思ってしまう。高度一万メートルとの温度差に体が錯覚を起こしたみたいだ。


「おつかれー」


 パラシュートを抱えて地面に降り立つと、一人の整備兵がねぎらった。油まみれの作業衣。髪の毛を後頭部で縛り、飛行ゴーグルと大きなマスクで顔を隠している。


「どうだった?」


 その整備兵、(しづ)にそう聞かれ、悠祀はバツの悪そうな顔を作った。けれどもすぐ、笑ってみせた。


「あー、うん。駄目だった」


 そうなの、と靜は言って、悠祀のスネあたりを見ている。


「油がついてるワ」


 かがんで、拭ってくれる。

 悠祀は困った顔をした。靜は親切心からやっているのだ。けど、ついさっきまで女湯をのぞいていたことを考えると、なぜだか申し訳なくて仕方がない。

 ふと気付けば、寺嶋がにやにやしている。何だよ、と睨みつけたら、何でもないというふうに手をひらひらさせて、人差し指と中指を交差させる。便所に行く、と合図を見せた寺嶋は足早にその場を去った。


「うん、これでいいわネ」


 靜は言って、悠祀の前に立つ。背丈は悠祀より低く、拳一つ下にゴーグルがある。靜はゴーグルを外して、マスクを下げた。ぱっと見て中性的な顔立ちだが、両端が少し下がって優しそうな目が、柔和な印象を人に与える、小柄な少女だった。


「何かあったの?」


 でも、腰に手を当てているあたり、生活は温和というより快活な部類に入るのだろうと悠祀は思う。


「いや、何も。……いや、あったな」


「どっちなのヨ」


「九千五百で、一千上を飛ぶB29一機を発見したんだが……、取り逃がしちまった」


「あらまあ。調子が悪かったの?」


「ああ、機が失速して……」と言いかけて、悠祀は言い方を変える。「俺が舵を急に切りすぎたんだ。エンジンはいつも通り快調だったぜ。胴体下の三十七ミリ砲は試射のヒマもなかったがな」


「そうなのネ。なら、よかった」


 案の定、靜は嬉しそうだった。悠祀の機を整備しているのは靜なのだ。だから、敵機を落とした云々よりも、自分の整備に不備がなかったかを心配するだろうと悠祀は考えた。


 それから靜はゴーグルとマスクをかぶって、悠祀の機の整備を始めた。被弾箇所、ネジのゆるみ、あるいは破損部分を隈なく調べ上げ、しかるべき部位を万全の状態に直し上げる。

 ふと見れば、隣に駐機してある二式複座戦闘機……複戦の機首部分は取り外されて、エジプトのピラミッドみたいに尖った先端を上にして地面に置かれている。

 機首の先からは、口径三十七ミリの銃口がにょっきり飛び出ている。


 ——連発の三十七ミリ機関砲かあ……。


 自分の機を顧みる。機首には何もない。単発の三七ミリ砲は、胴体下にくっついていた。

 靜がエンジンカウルを外したらしく、どす黒い油汗をかいているエンジンが顕になっている。空をかけた証だ。エンジンカウル下部から垂れた油汗は、風圧で後ろに押されて、翼の端っこまで流れていた。しかも舞い上がった砂塵やら木くずやらほこりやらが付着して、ベトベトのドロドロになっている。


 靜が、ブリキ製の一斗罐を抱えてよたよた歩いてくる。重たそうに地面へ置き、お化けみたいに大きな注射器で中身のガソリンを吸い上げた。それから脚立に乗って、そのガソリンを、まだ熱いエンジンにぶっかけた。

 熱い鉄板に水をかけたときの蒸発音。


 欠陥箇所は熱いうちに探す。ガソリンをぶっかけると、どす黒い油汗はたちまち溶けて流れ落ち、新品同様のアルミニウム合金の素肌が太陽にまぶしく光る。ガソリンは霧のように蒸発して、どこへ手をつっこんでも手を汚さないくらいきれいになった。もし油漏れの箇所があれば、これですぐにわかる。


 整備兵が俗にアブラムシと呼ばれる所以はここにある。機材係から山ほどもらったボロきれに、ブリキ罐のガソリンを浸し、ひたすら拭く。こうすれば空気の抵抗が減らせ、速度がわずかに増える。その上、機はピカピカになる。

 悠祀たちパイロットは空を飛ぶのが仕事だ。靜たち整備兵は(えん)の下でそのパイロットを支えている。


 ——石油の一滴は血の一滴とか言うが……。


 盛大にぶっかけるのを見ると、もったいないと思う。もともとこのセリフは第一次世界大戦時、フランス首相が発したものだ。それが現在の日本でも戦時標語として用いられていた。

 靜は、他に方法がないと言っていた。日本の軍用機で油汗を垂らさぬエンジンはほぼ皆無だと聞く。飛行場がきちんと舗装されている内地でさえこうなのだから、ろくに整備されてもいない外地にいる整備兵の苦労が忍ばれた。


 ——仮に一機四リットル使って、一日に二千機が飛んだら……。


 それだけで八千リットル。一斗罐なら四百四十余本。二百リットル入りのドラム缶なら四十本分の計算になる。


「何もしていないのに一日ドラム缶を四十……わわっ」


 世界が暗転した。そして感じる二つのおっぱい。


「だーれだ?」


 甘い香りととともに、頭一つ上から問いかけが来る。誰かが悠祀に後ろから抱きついている。それも巨乳の人が。悠祀はそれが誰か、もちろん知っている。


(きく)()ねえちゃん」


「当たりー」


 軽やかな声とともに世界がパッと明るくなる。悠祀が振り返ってみると、果たせるかな、そこにはやはり巨乳の人がいる。

 (よん)(かぜ)菊菜。靜と同じ陸軍女子飛行学校卒で、階級も悠祀や靜と同じ伍長である。ただし任官の時期は二人よりも早い。だから二人から見れば先任伍長とも呼ぶべきであって、同じ伍長でも上官みたいな存在だった。

 もちろん年齢も上である。


「こらー。やっぱり外れ! ねえちゃんなんて呼ばない! ここは軍隊なんだから」


「四風伍長」


「はーい、神佐伍長! なんでしょう!」


 冗談めかした敬礼を見せる菊菜。年齢は数個上だが、見た目は五、六個上に見える。そんな人が子供っぽい仕草を見せると不思議と心に来る。

 とてもではないが未亡人には見えないな、と悠祀はいつも思う。


「いつものやつ、お願いします」


「はーい!」


 菊菜は行って、燃料車を呼び寄せるためにかけて行った。靜よりも凹凸の目立つ体つき。整備服からはちけん程の菊菜を見ていた悠祀だったが、そこへ不意に話しかけられる。


「悠祀、今日はどうしたの」と靜が不思議そうな顔をしている。


「うわっ。急に話しかけるなよ」


「ずっといたわよ」


 靜は不機嫌そうである。顔を見ればわかる。もっとも靜はそれをゴマカすためか、油まみれのマスクをぐいっとかぶり口元を隠してしまう。

 それから尋ねる。


「ねえ悠祀。燃料、いつもより減りが激しいワ。一番激しかった訓練でもここまで減らなかったし、エンジン不調でもあったのかナ」


 思い出す。銭湯の一件。言えるはずがない。だから悠祀は、ごまかした。


「じょ、上空ではエンジンも燃料をよけいに食うんだよ。今日の敵さんは高度一万メートルを超えてた。それじゃないか」


「ふーん、かもネ。そんなものかナ」


 やがて燃料車が菊菜とともにやって来た。給油を要請している。それから靜は、悠祀の複戦の主翼に「えいやっ」と脚立から飛び乗って、主翼の付け根にある給油口にノズルを挿入する。右手を挙げて合図を送る。燃料車で待機していた別の整備兵がハンドルをひねる。悠祀が消費した燃料の給油が始まった。

 寺嶋が戻ってきて、その様子を眺める。


「やっぱり今日は燃料の消費が激しかったね」


「うるさいぞ黙れ。ていうか遅えんだよ。小便するのにどんだけ時間かけてんだ。そんでもって頻繁に行きすぎだ。膀胱(ぼうこう)小せえぞ」


「どこから否定すればいいのかわからない……」


「体をくねるんじゃないだよ男女(おとこおんな)。お前は見た目が男っぽくないんだから、ちったあ、しゃんとせにゃ」


「ひどい」


 わざと泣くまねをする寺嶋。気色悪いの一言に尽きる。


「おい行くぞ」


「どこへ?」と目をパチクリさせる寺嶋。


「何言ってやがる。戦闘の報告をせにゃならんだろうが」


 あ、そうだった、と寺嶋は手の平をポンと叩く。藤村中尉の姿を探す。すぐに見つかる。控え所(ピスト)の前で、他のパイロットからの報告を受けていた。その横には髭面の繁國戦隊長もいる。

 藤村中尉は遠目にもよく目立つ。顔が日本人らしくないし、背が高い。他のパイロットとは頭一つ分とび出ている。


「申告します!」と悠祀は、寺嶋と並び不動の姿勢をとる。


「敬礼! 神佐伍長ほか一名、名古屋上空高度九千五百メートルにてB29一機を捕捉! ただちに接(てき)、追(じょう)攻撃を試みるも……?」

 もういい、もういいとでも言いたげに、藤村中尉は手を振っている。にこやかに先を制する。


「まあそう固くならんでいい。で、B29はどうだった?」


 形式ばった勧告を嫌うように、藤村中尉は気楽に尋ねた。

 藤村中尉は九州出身の、豪放磊落な性格だった。祝祭日などで軍人勅諭を奉読中、「天皇陛下の御名で、誰がこんな長い読みにくいものを作ったのかな」と独り言をしたかと思うと、朗読をそれきりやめて、悠祀たちが呆気にとられる中、「今日は五箇条だけ!」と言うや、「一ツ軍人は云々……」をさっさと読み終えて平気で式をやめてしまう奇行をみせたこともある。


 大日本帝国憲法では、天皇陛下が大日本帝国を(しら)し、大元帥として陸海軍を()べ率いることを明らかにしている。

 軍人なのにずいぶん大胆な藤村中尉に悠祀は呆然とした。その反面で、藤村中尉のその性格に惹かれ、規定に縛られない考えが好きになった。

 だから悠祀は、不動の姿勢をといた。形式ばったものを極力嫌うことを知っているからだ。


「速かったであります」


「そうか。速いか」


「B公は……B29は予想の時速五百キロよりもかなり速いように見えて……。もしかすると時速六百キロか、ことによると七百キロ近いかもしれません」


 そうか、と藤村中尉は考える素振りをした。そして言う。


「高度六千メートルだと複戦の最大速度は五百四十キロだが、高度一万メートルじゃエンジン性能が落ちちまう。まあ相手よりも高位をとって降下の速度を利用すりゃあと百は出せるな」


「でも藤村中尉殿、複戦の制限速度は時速六百キロですよ」


 悠祀が食い下がる。

 昭和十七年、第五戦隊で複戦が空中分解する事故が二度も起きている。降下姿勢中にそれぞれ速度が過大になって、方向舵がねじれて発散振動を起こしたものと推察された。それ以降、第五戦隊では複戦の制限速度を六百キロに厳守している。

 藤村中尉は細い顎に手を当てる。


「しかし敵さんが複戦よりも速くて追いつけんとなると……」


 難しい、といいたのだろう。

 悠祀は疑問点をぶつける。


「なんでB29はあんなに速いんでしょう。排気タービンと与圧室のせいですか」


「それもある。が、偏西風を文字通り追い風にしているのが一大要因だろう。東部軍(とうきょう)でもそうらしいが、敵さんは必ず西から侵入して東方に逃れる」と藤村中尉は真上に顔を向ける。「高度一万メートルの高高度には偏西風が吹いている。時速は二百五十キロに達するそうだ」


「二百五十!」


 偏西風のことは知っていたが、場合によってそんな暴風になるとは知らなかった。見上げてみても空は平穏そのものだった。今こうしている間にも台風以上の風が荒れ狂っているようには全然見えない快晴。偵察機を飛ばすには絶好の日和だ。

 B29の速度が予想通り時速五百キロなら、偏西風をうまく利用すれば七百キロを超す。身軽な偵察機と違って爆撃機は重たい爆弾を積むから、実際の速度は前後するだろうが、それでも複戦をはじめとする日本軍機からすれば、恐るべき速度だ。


 追いつけないなら、敵の進路であらかじめ待つしかない。しかし高度一万メートルでは思うように動けないから、一撃かけたらそれっきりで、やり直しはきかない。一撃必殺といえば聞こえはいいが、本当に一撃で撃墜しなければ次がないのだ。


「おいおい、まあそんな思いつめるな」

 藤村中尉が破顔して、悠祀の背中をバンバン叩く。笑顔がまぶしい。


「痛い、痛いです」


「おっとすまん、すまん――」と呵々(かか)と大きく笑う藤村中尉は、それから急に真面目な顔を見せた。「――ま、そんな悩んだって敵さんが恐れてくれるわけじゃないぞ。勝てる武器はあるんだ。しかしいかんせん高高度専用の飛行機がないだけだ」


「だけ……」


「そうだ。しかしだからといって、そう悲観したものじゃない。複戦は高度一万五百まで上昇できるんだ。訓練すればB29とだって充分に渡り合える」


 すると、寺嶋が噛みついてくる。


「藤村中尉殿、訓練っていっても、僕らは東部軍に燃料をとられちゃいましたよ」


「半年前のことをまだ根に持つか。そりゃおれだって残念至極(しごく)だよ。そうかといって訓練せずんば飛行兵にあらず、だ。高高度での戦闘なんぞ覚束(おぼつか)ん」と、悠祀と寺嶋を眺め渡す。「とにかく今できることを精一杯やるのだ。今日飛んできたのはF13で偵察機だった。近いうちに空襲があるだろう。そんなとき〝燃料を東部軍にとられて訓練不足だったから撃墜できませんでした〟なんて言い訳を国民や戦隊長にするつもりか?」


「……」


「……」


 ぶんぶん、と首を振る悠祀と寺嶋。

「だろう? さあ、わかったら訓練だ。海軍さんっぽく言えば月月火水木金金だ。以上!」


 敬礼する二人。

 その敬礼は独特だった。普通の敬礼と違い、右手を上まで挙げずに敬礼し、頭を右に倒して、指先をつける。それは少年飛行兵独特の敬礼だった。


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