第二帖。赤鬼B公を撃墜せよ!
昭和十九年十一月二十三日 愛知 甚目寺 清洲飛行場
「赤飯だと思っていたら、クソ不味いコーリャン飯でした……ってか?」
シャレにならねーな、と神佐悠祀は糠喜びを後悔する。
赤色の飯を口に運ぶ。見た目は赤飯そっくりなのに、まるでモチモチしないし小豆も入っていない。そして稗みたいにぽろぽろする。
はっきり言ってまずい。
軍隊の楽しみといえば一に食事で二に外出、三が面会で四に家族からの手紙と相場が決まっている。
まして数えで十七歳の悠祀は「この世の幸福とは食べることと見つけたり」を地で行く年齢なのだ。
日に三度しかない快楽を奪われたみたいで、落ち込まざるを得ない。
とは言っても、最近は食糧が欠乏して、軍隊も今までのように白米ばかり食っているわけにはいかなくなっている。
昭和十五年(1940年)になると、政府は戦時食糧報国運動実施要綱を決め、生活必需品である味噌、しょうゆ、塩、砂糖、木炭、マッチが切符制になり、いくら金があっても切符のない客は商品を買えなくなった。
翌十六年四月一日からは、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の六大都市で割当通帳制による米の配給通帳制が始まる。
一人一日当たり二合三勺。およそ三百三十グラムであり、これは一般的な大人の消費量の約八割。それも純米ではなく七分搗きの米だ。
民間では配給米にイモを混ぜたイモ飯が主食と聞くが、もしかすると今はそっちの方がごちそうかもしれない。
「……にしてもまずいな、こりゃ」
思わず文句を垂れてしまう。
少年飛行兵として陸軍伍長に任官したのだから、もう少しマシなものが出るだろうと想像していた。甘かった。
ちょうど昼食の時間帯なので、陸軍清洲飛行場の食堂は混み合っている。十人掛けの木製長椅子がいくつも置かれ、多人数掛けの椅子には民間人の姿もある。
今日は清洲の飛行場開きだから、付近の住民を呼んで運動会を催しているのである。
と、突然、窓ガラスが振動する。
木枠にはめられた曇りガラスが軒並み、小刻みに震えている。軍人たちはちょっとの間だけ会話を区切って、またすぐ食事や雑談を続けた。事情を知らない民間人たちはびっくりした。なかには地震と間違えたのか、机にもぐり込んだり、慌てて外に飛び出したりしている。
悠祀は事情を知っている。
食事の手を休める。
曇りガラスの向こうを通過する大きな影。空に上がってゆく大柄な戦闘機の影を眺めた。
エンジンを二つ備えた双発機。
二式複座戦闘機……略称複戦だ。その機が庇に隠れる直前、横っ腹に「藤」の字を図案化した模様があるのを見て取る。
——藤村中尉の機か。
たぶん、正午の定時哨戒に発進したのだろうと思った。
今年六月、アメリカ軍の大型爆撃機B29が日本本土を初空襲している。十一月に入ってからは、帝都東京の上空に偵察機がもう四回も飛来しているし、十日前にはここ愛知県名古屋市の上空にも現れていた。
中京地区の防空を担当する第十一飛行師団が力を入れるのも当然だった。
そんなことをぼんやり考えて、また食事に戻る。
そのとき、油の臭いが鼻をついた。飛行機の整備に使われる整備油の臭いだ。
「今日から週に最低三度はコーリャン飯らしいわヨ」
凛、とした女の子の声。
向かいの席に、全身油に汚れた整備兵が座る。髪の毛をうしろで一本にしている。薄く曇った飛行ゴーグルをして、油に染まったタオルで口元を隠している。
顔が全然わからなくても、それが誰であるか、悠祀は知っている。
「おう、靜か」
その整備兵が、陸軍女子飛行兵学校出身の、時々輪靜子であることを。本名は靜子であるが、悠祀は靜と呼ぶ。
「お前、飯はもう食ったのか?」
「なに言ってるのヨ」と靜は手をひらひらさせる。「もう済んでるワ。あんたが運動会を勝手に抜け出して悪サしてる間にとっくに」
悠祀は慌ててその先を遮る。
「い、いい加減なこと言っちゃいかんぜ。いくら非常時だからって俺みたいな未成年が煙草なんか吸っていいわけねーだろーが」
「……わたしは煙草をふかしてる、なんてまだ言ってないけど?」
靜はゴーグルを額にやり、油で黒く汚れたタオルを引き下げた。
木くずやほこりにまみれたボサボサ髪。ニタニタ笑っている口元が現れる。いやらしい笑みが、高等小学校の頃から変わらない顔立ちにたたえられている。
したり顔の靜を無視して、悠祀は食事に戻る。
コーリャン飯、味噌汁、豆腐と野菜の煮びたし、それに大根の漬物。
ふう、と悠祀はため息をつく。
大日本帝国陸軍の階級を分類すると、大きく四つに分かれる。上から大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉の将校。それに次いで准尉の准士官。
そして曹長、軍曹、伍長の下士官。最後に兵長、上等兵、一等兵、二等兵の兵。
陸軍、海軍を問わず、飛行機のパイロットになりたい者は、原則として下士官以上、つまり伍長より上の階級でなければならない。
昭和三年生まれの悠祀は数えで十四歳のとき、大津陸軍少年兵飛行学校に入校し、陸軍生徒となった。
それは昭和十七年十月であり、対米開戦から十ヶ月後のことだった。
それから一年後、パイロットに適しているかの適性検査に合格し、熊谷陸軍飛行学校に入校する。熊飛校を卒えると、襟に上等兵の階級章をつけて、伍長勤務上等兵として実戦部隊であるここ、第五戦隊に配属となった。
少年飛行兵学校時代と実戦部隊とを比べてしまうのではないが、少飛校時代より食が乏しくなったと悠祀は思う。
それもそのはずで、育ち盛りの陸軍生徒には、民間よりも食糧事情の良い普通の陸軍部隊を上回るほど、食べ物に気を使われていたのである。
その様子を婦人雑誌『主婦之友』は「賄料は東京附近の陸軍が一日一人当たり二十七銭五厘なのに、飛行兵生徒は一日一人当たり実に三十六銭六厘、断然他の追随を許さない」などと評している。
しかし、これは決して軍が優遇されているとは断ぜられない。
飛行は体力、知力をフル活用する。最も体力を使う場であるから、優遇しなければパイロットが消耗してしまう。
十五歳前後といえば、食べても食べても食べ足りない時分である。
少飛校時代の比較的恵まれていたときさえ、物足りなくて空きっ腹を抱えていたのに、それより少ない実戦部隊の食事が満足できるはずがなかった。しかも白米ではなくコーリャン飯。
それでも全部平らげて、箸を置き、手を合わせる。
「ごちそう様でした」
「まだ残ってるわヨ。豆腐」
靜がお盆を目で見る。
煮びたしの中から、器用に豆腐だけをえり分けて、別の皿に捨てていた悠祀。
「もったいないじゃないのヨ」
「俺あんまり好きじゃない」
食後のお茶をすする悠祀。その向かいで、靜は血相を変えていた。
「なんてこと言うのヨ。大豆は畑でとれる肉なの。食べないで捨てるなんてバチ当たりにも程がある」
ああいうふうに言えば、こういう反応が返ってくることを、悠祀は予想していた。
豆腐屋の娘には、悠祀の行いが堪えがたいようだった。
「いいこと? 豆腐ってものはネ、噛めば噛むほどに大豆の甘味が出てきて、やがて体の中で血となり肉となるの。嘘と思うのなら、牛を見てごらんヨ。雑草を食べて、冬は煮た大豆を食べて、あんな体になるでしょ」
思い出す。靜の実家は、牛のいる百姓に家畜用の古大豆を売っていた。靜があまりに真剣だったので、悠祀は面白半分に反論する。
「だがよ、豆腐って上手に口に運べねーじゃねーか。しまいにゃ皿の中でボロボロになっちまうし」
「それはあんたが食べ方を知らないからヨ。いいワ、豆腐の形を崩さずに口へ運ぶ秘伝を教えたげる」
と、悠祀の箸を取り上げて右手に、捨てた豆腐のある皿を左手に乗せる。
「まず、箸を揃えて、瞬間的に軽く、ポンと豆腐の表を叩くの。崩さないように、はずみをもたせるふうに」
「ふんふん」
その手付きと目付きが神妙この上ないので、悠祀はおかしく思った。でも笑うのは懸命にこらえて、なるべく真面目ぶってうなずく。
「二つ目。そのとき、デレッとした豆腐が、思わず身を引きしめて怒る。三つ目。そこで……、サッと。二本の箸を開き気味に、横からもしくは斜めに刺して、口へ運ぶ。こうすればいいのヨ。やってみて」
悠祀に実践を求めた。けれども悠祀は、豆腐が怒る、のあたりでとうとう吹き出してしまっていた。靜はムッと頬をいからせる。
「ちょっと悠祀、笑ってるけど、大豆の身になったことはあるの?」
「ねーよ。いや、ていうかどういう意味なんだそれ」
「ないのネ。でもあたしはある」と靜は遠い目をする。「同じ畑に生まれ育ちながら、色が青白いばっかりに、大豆、大豆と安くみられている。小豆なんて色が赤いから〝赤いダイヤ〟なんて呼ばれて貴重品扱いじゃないの。だけど大豆はずっと偉いヨ。豆腐にもなるし、カスは卯の花になるし」
「ご高尚賜りまして恐悦至極に存じます」
「聞いてないじゃないの!」
とか言いながら、靜は笑っている。
悠祀は時計を見た。正午過ぎ。腹ごしらえも済んだし、運動会が開催されるくらい天気も良い。昼寝するにはもってこいの条件だ。
「眠そうネ」と靜。
「おう、眠い」と悠祀はあくびをしながら答えた。
「警戒警報が出てるのヨ。パイロットがそんなんじゃ困るワ」
「まあなー。でもよー、眠いもんは眠ぃよ」
また大あくび。すると、戦時下とは思えない軽い声。
「操縦がそんなんじゃ、僕が困るよ」
靜のかたわら。童顔の少年が立っている。
便所から帰ってきた、陸軍少年兵飛行学校で同期の寺嶋泰だ。
悠祀と同い年なのに、明らかに自分より年下に見える。
「隣、座るね」
靜がいいとも言わないのに、勝手に座る寺嶋。襟には、悠祀と同じ伍長の階級章がついている。靜が少しだけ困った顔を見せたのを、悠祀は見逃さなかった。
「おい寺嶋、長いんだよ便所が。軍人なら軍人らしく神速を尊べ」
「ごめんごめん。便所で戦隊長と一緒になってさ。中部軍にも敵機が来るかって話してた」
便所のことを、陸軍用語で厠と呼ぶ。
寺嶋は女みたいにクルクルよく回る目をしている。こんな女々しく見える男がいることは、一種の奇談だろうと悠祀は思う。
普通、男は男らしいし、女は女らしいものだ。寺嶋は男と女の中間に立っている顔立ちだ。
「で? 戦隊長の見立ては?」
「その前に悠祀、それ食べないの?」
「ああ豆腐? いるならやるぞ」
「ならもらうよ」
言うが早いか、たちまち食べてしまう。長野県出身の百姓の末っ子は、食べずに残すなんて堪えられないらしい。
達磨ストーブと火鉢で暖まった食堂。
誰かが芋きりを焼いているらしく、香ばしい匂いがただよっている。今は十一月。外は真冬なのだ。長椅子の上でひっくり返っている民間人がいれば、机に突っ伏して船を漕いでいる軍人もいた。
ぼんやりした。
だから、寺嶋が靜と何か話していても、聞き流していた。寺嶋に話しかけられて、靜はとても困っていた。靜とは小さいときからの付き合いだし、尋常小学校も高等小学校も一緒だったのだ。
男女は七つで席を同じうせず。必然的に互いに異性を苦手とするが、どういうわけか靜は、悠祀だけとは平気で話す。
あの表情は、明らかに困っているときのものだ。
「おい寺嶋、俺の整備兵をあまり困らせるんじゃねーよ」
悠祀は〝俺の〟に力を込めた。寺嶋はヘラヘラしている。
「困らせてなんかないって。ただちょっと話していただけで」
「それが困らせてんだ」
「ひどい」
ガタリ、と靜は立ち上がる。
「あの、それじゃそろそろ行くネ」
そそくさと食堂から外に出ようとする。入口あたりで、外の寒さに身震いしている。
悠祀が第五戦隊に配属されたときから、靜はああだ。悠祀にははっきり喋るのに、寺嶋と話すときは奥手になる。
寺嶋君のことは何だか苦手、と靜は言っていた。友人のことを悪く言われたようで、悠祀は少し立腹した反面、靜と寺嶋が会話しているのが面白くなかったから、愉快とも思った。
伸びをする。曇りガラスの向こうには、よく晴れた青空が広がっている。ここのところよく雨が降っていたから、こんな天気は久し振りだった。
——みんな考えてることは同じなんだなあ……。
眠気を噛みしめるあくび。のん気に、そう考えていた。
ラジオが雑音とともにニュースを教えた。それは中部軍司令部からの報で、敵機来襲のニュースであった。
陸軍清洲飛行場の各所に立てられたスピーカーから流れる、敵機来襲のサイレン。
晴天に似つかわしくない、低く呻るような音。悠祀たち軍人の眠気を一気に吹き飛ばした。
「出るぞ寺嶋!」
かたわらの外套を引っ摑み、出口へ急ぐ悠祀。見ると、さっきまで寝息を立てていたはずの軍人たちが、すでに引き戸に殺到していた。
先頭の軍人が引き戸を開けた。途端に流れ込む真冬の寒気。青空が見えた。
「寒い……」
ただ一言を発する間さえ、今は惜しい。
敷居を飛び越えた悠祀が目にしたのは、滑走路から発進しつつある四機の複戦だった。
「警急中隊だよ! さすがに早いなあ」
飛行帽を振って、彼らを見送る寺嶋。
すぐに全力発進が可能な状態を警急姿勢というが、第五戦隊では四機で警急中隊を編成していた。
『中部軍管区、空襲警報発令! ……』
スピーカーがラジオの続報を伝えてくる。
空襲警報はまだ流れてこない。普通、ラジオの情報の方が早いのだ。
「遅れをとるわけにゃいかねーな! 俺たちも急ぐぞ!」
悠祀は言って、自分の機に急ぐ。
滑走路から枝分かれした細い誘導路。その先まで、寺嶋と一緒に走る。複戦、屠龍は、その名の通り二人乗りだ。
自分の機にかけ寄ると、その胴体下から一人の整備兵がひょっこり姿を現した。油で黒く汚れた作業衣。
煤けたゴーグルをはめて、使い古された大きなマスクをしている。そのせいで素顔がわからない。
けれども悠祀は、その整備兵が靜であることを知っている。
靜は軍手をはめた右手を挙げた。それは「いつでもいい」という合図だった。
飛行場ではエンジンをかけるための始動車が忙しそうに走り回っている。飛行場に並べられた機体が始動車によって次々にエンジンを始動させられ、あたりは騒音に満ちていた。
悠祀はやはり無言のまま、右腕をぶんぶん回し、エンジンをかけろと整備兵に伝えた。靜がうなずくのを確認してから、悠祀は飛行帽をぐっと目深にかぶり、冬空の下ですっかり冷えた主翼に脚立から飛び乗った。濃緑色の迷彩色に映えた、堂々たる日の丸が頼もしく見えた。
風防を開け、操縦席に滑り込む。それとほぼ同じくして、右翼のエンジンの正面に一台のトラックが移動してきた。始動車は荷台からするすると物干し竿のようなものを伸ばし、プロペラの中央のスピナー部分の穴へ挿入した。
始動車の回転軸が挿入されてすぐ、プロペラは空転を始めた。
悠祀はスロットルレバーを大きく押し込み、発電機のスイッチを「点火」の赤印の位置に入れる。
左右のエンジンが元気よく回転をはじめる。それから風防から左腕だけを出して、左右に振った。
それを合図に靜が車輪止めを外したらしく、機が自然に滑走を始めた。
悠祀は、先端が環になった操縦桿を握る。ゆっくり慎重に操作して、機を誘導路から滑走路まで進める。
左右のエンジンが同調して、ワーン、ワーンと心地よく聞こえる。左右のエンジンの回転数が同じになっている証拠だ。
計器盤には、回転計と同調計がちゃんとついている。しかし悠祀は、耳で音を聞き取って合わせる方法が一番好きだった。
滑走路の中央に機体を位置させる。スロットルレバーをさらに押し、エンジンの出力を上げた。速度計に目を移す。
——百、百十、……もうちょい!
左右の風景が後ろにどんどんすっ飛んでゆく。風見鶏のついた気象観測塔。さっき昼寝をしようと思っていた食堂。控え所に使っている被服倉庫。よくのぞきに行った烹炊所。喫煙がバレて三時間も正座させられた古井戸。寒くて洗濯に難儀した屋外洗面所……。
すべてが後方に消えてゆく。
不意に、左右の景色が翼下に消えた。同時に、ずん、と体全体が座席に押さえつけられる感じ。
——よし、離陸したな!
速度計は百六十キロを超えて、いつの間にか二百四十キロに達していた。
飛行帽の左耳から、ゴソゴソという音がする。左耳の部分には伝声管が繋がっていて、伝声管は操縦席の悠祀と、後席で無線機や航法を受け持つ寺嶋とを結んでいた。
『神佐、神佐、神佐、コチラ、寺嶋、寺嶋、寺嶋、感度ドウカ、明瞭度ドウカ』
伝声管からは、型通りの問いかけが聞こえてくる。
「寺嶋、寺嶋、寺嶋、コチラ、神佐、神佐、神佐、感度ヨシ、明瞭度ヨシ」
だから悠祀も型通りの返答をした。
『偵察機かな? 爆撃機かな?』
「さあな! 東部軍じゃ今まで四回も偵察機が来たっていうじゃねーか。中部軍にはまだ一回しか来てないから、今日も偵察機じゃねーか?」
昭和十九年十一月十三日、東京のときと同じく、B29の偵察型であるF13が、名古屋上空に初侵入している。
そして東京と同じく、高度一万メートルという高高度を飛ぶ敵機に日本の防空機は手も足も出ず、みすみす逃している。
『賭けようか?』
「よっしゃ、偵察機にキャラメル三箱」
『それじゃ僕は裏をかいて戦闘機に煙草三箱』
左耳に届いた寺嶋の冗談に、悠祀は苦笑してしまう。B29が基地を置くサイパン島から名古屋までは、直線距離で二千五百キロ以上。
こんな長距離を往復できる戦闘機など、アメリカ軍はもちろん日本軍にもない。だから世界中を探したってありっこない。よって、敵機が来るなら長大な航続距離を誇るB29かF13のどちらかしかない。
寺嶋なりの方法で緊張をほぐしてくれたことに感謝しつつ、悠祀は高度計を見やる。
「高度三千だ! 後席、マスクを着用!」
『了解! マスク着用』
弾みのある声が返ってくる。酸素マスクを通じて流れる酸素が鼻先から肺に流れ込む。
——酸素マスクに異常なし、と。
悠祀は一度、深呼吸。
普通、酸素マスクは高度六千メートルくらいで着用する。悠祀は念のため早目に装着していた。
左手首の腕時計を確認。離陸から十四分。高度は六千メートルに達しようとしている。
——エンジンの調子はまあまあってトコだな。
ここから先が正念場になることを、悠祀は知っている。陸軍の戦闘機は六千メートルを常用高度にしている。
『寒いなあ』
寺嶋の声さえも冷えている気がした。航空セーターを着込み、ニクロム線を織り込んだ耐寒用の電熱服も、そろそろ役に立たなくなる。
「ようやく高度八千か……。ここまでは上々だな」
上空へ来るにつれ、空気が薄くなる。操縦桿の手ごたえが軽くなる。まるで根元の留め具がゆるんでいるかのようだ。
『全武装の複戦は八千五百以上がなかなか上がらない』
「ん、ああ。藤村中尉の言葉か。よく言ったもんだ。機体がなんか重いぜ。おい、誰かよけいに乗ってねーか?」
『乗ってるわけないでしょ。僕と悠祀しか乗ってないよ』
「そうかな? 寺嶋、お前ちょっと降りろ。機体が軽くなって上昇力が良くなる。落下傘は座布団代わりに尻に敷いてんだろ?」
『……重大なことを忘れてる。僕がいなくなったら、誰が地上と交信するってのさ。地上の戦隊長の指示を』
「あー、そりゃ盲点だった」
『でしょ? 僕はまだまだ必要だよ』
いつも通りのバカバカしいやり取り。少飛校入校からの仲は、実戦の最中にあっても冗談を飛ばし合える仲だった。
「離陸から三十三分、高度八千五百メートル……。クソッ、機体が重すぎる」
高度が増すに従って、だんだん口数が少なく、そして口汚くなる悠祀。
高い山に登ると人間は高山病にかかる。飛行機も酸素の薄い高空を飛ぶと、本来の調子が出せない。人間なら酸素マスクをつければよい。だが、人間の酸素マスクにあたる部品を、この機は備えていない。
この時期、日本上空には大陸からせり出したシベリア寒気団がかぶり、北よりの風が吹く。
偏西風である。高度を取るうちに偏西風に流され、名古屋附近から離陸したはずが三河湾を飛び越えて太平洋まで流されてしまうこともある。そんなときは、風に逆らって定位置まで戻らなければならない。
そんなこんなをしていると、B29の来襲するであろう高度一万メートルまで来るのに五十分も一時間もかかってしまう。そしてサイパン島を飛び立った敵機は、小笠原諸島の八丈島にある電波警戒機で発見されてから一時間前後で東京もしくは名古屋に侵入できる。
防空は時間との戦いだった。
「畜生、寒い……。ここは南極か北極か。ようやく高度九千五百だ、畜生」
そして日本の防空機は、装備の不備とも戦わねばならなかった。シカ皮の飛行手套をはめても冷たさで指がじんじんする。
真夏でさえ、高度一万メートルは零下三十度になるのだ。まして今は真冬である。気密性のない操縦席の様子は推して知るべしであろう。
「おまけに空気が薄いからエンジン出力もダダ下がりだ」
『飛行機も高山病に罹ったってことだね』
「言い得て妙だ」
『人間は酸素マスクをすれば大丈夫だけど、飛行機の酸素マスクに相当するのが排気タービンってやつだね』
「噂にしか聞かんがな。そんなもん装備した機体なんぞお目にかかったことはねーよ」
『あと聞いた話だけど、操縦席をスッポリ、お蚕さんの繭みたいに密閉しちゃう与圧室って技術もあるらしい』
「へー、繭みたいに密閉ねえ。すごいのかそれ」
『うん、すごいらしい。高度一万メートルでも酸素マスクなしで平気なんだって。僕らは酸素マスクなしじゃ失神して死んじゃうけどね。で、B29にはその両方が備わってるから機体もパイロットも一万メートルでだって難なく動ける……あ』
「すげぇな。酸素マスクがなくなりゃ機体も軽くなるし視界も広くなるが、アメリカじゃそんなもんをすでに実用化してるとは……あ」
二人は同時に気付く。
『悠祀! 九時!』
「ああ見えてる!」
正面が十二時方向だから、九時方向はちょうど左手の方角だ。
澄んだ青空には雲一つない。地平線と空とが解け合う、その少し上。
銀色の小さな光点。
じっ、……と目を凝らす。自分たちよりおよそ一千メートルは上空だ、と悠祀は直感する。あっ、という間に、その銀の点が飛行機だとわかるくらい、形がはっきりしてくる。
銀白色の機体。四つのプロペラ。
『四発エンジンの大型機……』
心なしか、寺嶋の声に震えが混じっている。のんびり屋の寺嶋が声を上ずらせる場面など、悠祀はこれまで見たことがない。
「日本にゃ四発の飛行機なんざねえんだ……」
そうつぶやく自分の声も、裏返っている。
普段なら絶対にからかってくるはずの寺嶋は、後席で無言のままだった。無線機の電鍵を叩く音が伝声管からわずかに聞こえるだけだ。
——敵。
たったそれだけ。
それだけなのに、たったそれだけなのに、たった一言で表せられるのに、体全体に電気が流れたみたいにしびれ、そして硬直したみたいだった。
あんなデカいやつと戦うのか? 敵の機銃に撃たれたら? ちゃんと脱出できるのか? パラシュートはちゃんと開くのか? 戦死したら家族に連絡するのは戦隊長か?
よけいな考えが弥次々に、頭の中をかけめぐる。緊張して、股間の一物がむくむくしてくる。
『操縦! 装填よし!』
ハッ、となる。
「あ、……ああ。装填はいいんだな」
『悠祀。僕が今、何を装填したのか言える?』
——からかいやがって。
武者震いのせいか。恐怖のせいか。緊張しているのは悠祀と変わりないくせに、強がって冗談を言ってくるのだ。悠祀は答える。
「胴体下の三十七ミリ砲だろうが。一発でも当たりゃ、いかにB公だってバラバラだ」
『そう。連発の三十七ミリ機関砲が量産されているのに、僕らには旧型の単発のしか割り当ててくれなかった』
わざとなのか心ならずか、声が低い。
昭和十八年三月から東京立川の陸軍航空工廠で、連発の三十七ミリ機関砲を搭載した複戦が量産体制に入っている。単発の方はもともと応急兵器で、二十秒に一発撃てればいい方なのに、連発なら毎分百発の発射が可能だ。
「……まあ、その気持ちは俺が一番わかる。操縦も発射も俺がやってんだからな。一発ごとに装填を二十秒も三十秒も待たなきゃいかんのは面倒だ」
仮に複戦が時速六百キロで飛んでいるとき、三十秒あれば五キロも飛べる。
『でも、おかげで後席の僕にも仕事がある』
単発の三十七ミリ砲は、後席でしか弾丸を装填できない。
「そのせいで機体が重くってしょうがねーや。敵さんを撃ち落したら俺にも連発のをくれるように戦隊長に言って……こんな話してる場合じゃねーよ。行くぞ! って、おわあああああ」
『うわわわわわ!?』
そろって素っ頓狂な声を上げる二人。機体が急速に傾いたのである。
「すまん! 舵をきつく切りすぎた!」
高度は一千メートル近く下がっていた。九千五百メートルという高高度で急旋回を行えば、たいていの日本機は滑り落ちてしまう。
——駄目だ、駄目だクソッ!
今からまた高度を取ろうとしたら、その間にB29は飛び去ってしまうだろう。青空を悠々自適に飛ぶ敵機。
——ここは日本だぞ畜生ッ!
悠祀たちの上空を平然と飛ぶB29。大胆不敵というか、あまりにも不遜だ。
『アメリカはあいつをスーパー・フォートレス……超空の要塞って呼んでるんだって』
「要塞ねえ」
よくいったものだな、と悠祀は思う。自分たちがやっと浮いている高高度を、悠々と飛ぶその姿には、いつの間にか不遜を通り越して敬意すら払っていた。
——敵さんもアッパレな飛行機を作りやがったもんだ。
そして敵機は飛び去った。あとには四条の飛行機雲だけが残った。
「帰るか」
『うん』
「単機だったなあ。てことは偵察機だな、ありゃ」
『そういうことになるね。悠祀の勝ちだ』
「……」
『……』
あの偵察機はおそらく写真を撮って行ったはずだ。
——こいつはえらいことになるぞ。
あの機が基地に帰ったら、その航空写真をもとに爆撃機が空襲に来る。日本の防空機は、高高度では思うように動けない。こんな状態で、戦えるのだろうか。
『あ、そうだ悠祀』と、思い出したように寺嶋が言う。
「なんだよ」
『次は装填が無駄にならないようにね』
これは寺嶋なりの気遣いだ。