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第一帖。皇土上空、一万メートル

 昭和十九年十一月十七日  東京郊外


 高度一万メートル。


 湯気みたいに薄い雲の上。

 そこには藍色の空が広がっていた。


 息をつくように飛んでいた双発の戦闘機は、上昇から水平飛行に移った。空を飛んでいるというよりも、墜落しないようにどうにか浮いている状態だった。

 双発の戦闘機は、()龍の(りゅう )愛称を持つ。

 この双発機……屠龍は前席にパイロットが、後席(こうせき)に機上通信と旋回機銃を扱う同乗者が乗る、日本陸軍初の複座の戦闘機だった。

 機首に三十七ミリ機関砲一門を、胴体下に二十ミリ機関砲一門を搭載できる強武装の戦闘機は他に類を見ない。

 ただしこの機は、それら一切の武装を外していた。


 体当たりをするのに武装はいらない。

 塗装をすっかり剥がした銀ムクの機体は、太陽の光を強く反射している。

 端から端まで十五メートル以上ある大きな翼は鏡のように輝いて、その上に描かれた日の丸は見えにくい。

 反面、胴体横に大きく描かれた赤い矢は、際立ってよく見えた。先端が二つに分かれたその矢は(かぶら)()と呼ばれ、戦を始める合図に武士が射るものだった。


 ガラス張りになった操縦席で、パイロットは前方を睨んでいる。肩まである黒々しい髪は、飛行帽の下に隠れていた。まだ幼さの残る顔立ちに丸いゴーグルをかけ、失神を防ぐための酸素マスクが顔の大半を隠し、まるでカラス天狗のように見える。

 ゴーグルとマスクがなければ、パイロットが少女であるとすぐにわかったかもしれない。


 松宮美代子。軍曹。B型。

 電熱服の胸元あたりに布の名札が縫い付けられている。墜死したとき身元を判別するのに便利だった。

 華奢な体に着込んだ耐寒用の電熱服は、大きさが合っていないせいか、美代子が小柄なためか、だぼっとしている。電熱服の効果も薄らいでしまう零下三十度の高度一万メートルで、美代子はシカ皮の手袋をはめた小さな両手を、持て余し気味に操縦桿へ添えていた。


 複戦屠龍の実用上昇限度は一万五百メートルであった。

 美代子は黒く清んだ瞳で、まっすぐ先を見据える。空はまるで鍋蓋みたいに視界を覆う。どれほど進んでも果てへ辿りつけないほど広いと思った。

 その瞳が、大きく開かれる。

 視線のはるか先。

 澄んだ晴れ空に、銀粉がばら撒かれたようにキラキラと光る。


「来た……」


 美代子はつぶやき、唾をのむ。複戦は二人乗りだが、機体を軽くして上昇力を得るために後席は金属板で塞がれている。美代子はたった一人で高度一万メートルまで来たのだ。

 

 気が()く。

 体ばかりが前に出る。百式射撃照準器を、じっと凝視する。

 三重になった照準環。その真ん中少し下に銀粉の一点を合わせた。銀色のゴマ粒はだんだん大きくなって、やがてそれが四つのエンジンを備えた大型爆撃機だとわかるほど形を持ってくる。

 識別訓練の甲斐あって、美代子の目にはそれがB29と呼ばれるアメリカ軍の爆撃機であると正しく映じた。


 十七余年の人生で初めての会(てき)に、耐えがたい感情がふつふつと湧き上がる。

 咽喉の渇きを覚える。くちびるをなめ、唾液を飲み込むが、咽喉の渇きはいっそう酷くなった。

 それは、復讐の相手を、正面やや下方という絶好の位置に捉えることのできた喜びよりも、これから相手と刺し違えるのだという恐怖のせいであることに、美代子は気付いていない。


 美代子は慌てず、操縦桿を慎重に操作する。

 高度一万メートルでの空気密度は地上の約三割しかない。

 複戦屠龍の実用上昇限度の一万五百メートルは限度であって、実際には高度六千メートルを実戦を想定されている。

 高度一万メートルという空気の薄い高空では、操縦を少し誤っただけで機体はたちまち数百メートルも滑り落ちてしまう。ここまでは順調だったのだから、いまさらつまらない失敗をしたくなかった。


「まま松宮軍曹これよりたたい、たい当た……」


 精一杯、張り上げたつもりだった。

 しかし、その声は震えていた。

 出来る限りの声を上げたのは、冷静さを保つためと自分に言い聞かせるためだった。寒さのせいか緊張のせいか、全身が極度に強張っていた。

 手の痙攣を必死に抑えるべく、美代子は深呼吸をする。マスクを通して、酸素のツン、とした冷たさが鼻や口から肺に流れる。それからまた前を睨む。


「松宮軍曹、これより体当たり!」


 自分の名前をはっきり言って、これから何をするのかしっかり言う。最期くらいは、立派な態度を保ったままでいたかった。

 B29は、日本軍のあらゆる飛行機と比べて圧倒的に巨大だった。

 アメリカが超空の要塞スーパー・フォートレスとあだ名する理由が、美代子には何となくわかった気がした。

 ぐんぐん近付くうちに、要塞の姿が刻々と明確になってくる。


 左右にそれぞれ二発ずつ、合計四発のエンジンがとてつもない推力を生み出し、日本の戦闘機では飛ぶのがやっとの高度一万メートルを力強く進んでくる。

 日本にはない、四つのエンジンを持つ機体。

 その鼻先、強化ガラスに覆われた敵機の操縦席で、パイロットらしい人影が(せわ)しなく動いている。たぶん、自分の機を発見して驚いているのだろうと美代子は思った。


 複戦屠龍とB29は互いに向き合いながら距離を詰める。その距離はあっという間に迫り、B29は複戦の、三重になった照準環の最外枠にすっぽりと収まった。


 ——もう……ぶつかる!


 B29との距離が二百メートルを切り、衝突すると思った瞬間、美代子は目を閉じていた。そのとき美代子の手は、本人の意思とは逆のことをした。

 操縦桿を左に倒したのである。

 複戦はB29から()れた。

美代子は知らなかったが、目をつむったとき彼我の距離は二百メートルなどではなかった。一千メートル以上もあった。B29のあまりの巨大さに距離を見誤ったのだった。


 美代子の操縦する複戦屠龍は左に傾いたまま、B29の翼下をかすめ行く。

横を通過した直後、美代子の機はB29の四つのプロペラが生み出した猛烈なプロペラ後流に巻き込まれた。

 自分は体当たりし損ねたのだ、と美代子が気付いたときには、もうすでに数千メートルも後方に流されていたのである。

 機体を水平に保った美代子は、息を長くついた。


 ——生きてる。


 それから機体を反転させた美代子が見たものは、自分のはるか先、はるか上空を悠然と飛ぶ敵機だった。

 青空に四条の飛行機雲を引きながら、太陽の光を一身に浴び、青空に機体を輝かせ、不覚にも言葉を失うほど美しいきらめきを放っている。


 ——……きれい。


 自分の家族を殺した敵機ながら、その姿は二度と手に入らない宝石にも見えた。

 B29は塗装をしない。巨大な機体だから、ペンキを塗るだけで自重が三トンも増えてしまう。

 ハッ、と我に返った美代子は高度計に視線を移す。着色された針の先は七千五百メートルあたりを前後している。


「くそッ」


 間に合わないと知っていながら、美代子はスロットルを一杯にして、操縦桿を思い切り操作して左への急旋回を目論んだ。再びB29の前方に占位しようと思ったのだ。


「うああッ!?」


 しかし、その途端、機は急激に左へ傾いて、さらに二百メートル以上も滑り落ちた。


「くそッ。くそッ。落ち着け、落ち着くのよ」


 自分で自分に言い聞かせながら、ようやく機を水平に保つ。敵機は自分より三千メートルも上空にいる。

 今から高度をとっても間に合わない。その間に逃げられてしまう。

 東京上空を通過したB29は千葉県を抜け、太平洋へと逃げてゆく。美代子にはその様をただ眺めることしかできなかった。

 小さい頃、道端で拾って宝箱に入れたビー玉よりも綺麗に輝く敵機。日本の空を我が物顔に飛び、飛行機雲だけを残し、B29はとうとう視界から消えた。


 もう手が出せないと知ったとき、美代子は反射的にゴーグルを外していた。額に当て、マスクを引き千切る。涼しい目元には不動明王に勝るとも劣らない怒りを浮かべている。白く、整った上下の歯並びをぎりぎりと噛みしめ、それから叫んだ。


「ちっ、……くしょおおおおおおおお」


 肺に空気のある限り、叫んだ。

 体当たりの寸前、怖くて目をつむってしまった。それなのに体当たりに失敗したとき、胸の奥では生き延びたことに安堵した。そんな自分への怒りだった。


「あ、れ……?」


 しばらく、荒く息をしていた。

 それまで澄み渡っていたはずの空が、いつの間にか真っ黒になっている。かき曇ったように暗くなった空をいぶかしげに見ていると、なにか、頭の中が妙に熱く、ぼうっとしてくる。


 ——低酸素性酸素症。


 俗に酸欠と呼ばれる症状の正しい名前が、うっすらと頭を(よぎ)った。操縦桿を握る手の関節がコンニャクみたいにぐにゃぐにゃしてくる。これは錯覚だ。手首、肘がまったく用をなさない。

 富士山を二つ重ねた場所では、酸素は地上の三分ノ一しかない。すぐにマスクをはめないと意識を失って墜落してしまう。死ぬ理由としてはあんまりにもばかばかしい。

 

 美代子はさっき引き千切ったマスクを着けて、呼吸を整える。酸素吸入器の流量計は目盛一杯を示していた。

 頭がはっきりしたとき、ふと、自分の股間あたりに凍えるような冷たさを感じた。


「あッ……」


 ものすごい恥ずかしさに襲われる。

 頬が、カッと熱くなる。

 漏らしていた。

 股間から漏れた尿が耐寒用の電熱服の股を湿らせて、座席に小さな水たまりを作っている。


 死を間近に控えた緊張。そこからの解放と、生存したことへの安堵。あまりの状況の変化に頭がついてゆけなかったのだ。

 込み上げる恥ずかしさに雪白の肌を紅潮させて座席のあちこちを探すが、当然、雑巾などは見付からない。漏らしたことから目を背けるように、両方の太ももを合わせて内股になった。


 尿が凍結して凍傷を負わないうちに、基地に帰ろうと思った。けれどもその反対に、このまま眼下の東京湾に突っ込んで自爆しようとも思った。そうすれば体当たりの失敗も、失禁の失態も隠せると思った。

 高度三千メートルあたりで不要になった酸素マスクを外す。気温はまだ零下だったが、それなのに暖かいと感じてしまうのが不思議だった。

 電熱服の効果がようやく表れてきたのだろう。ただ、股間あたりは冷たいままだった。


「松宮。一万メートルにて体当たりを敢行せるも……」


 映画の模型みたいな町並みを見ながら、美代子は下くちびるを噛んだ。

下に広がる町の中。自分に向かって手を振る子供たちが見えた。美代子には、その無邪気な様子を見るのが心苦しくてならなかった。


「……これを果たせず。果たせず……」


 操縦桿を握る手に余計な力がこもってしまう。失速しないように機体をゆっくりと旋回させて、高度をさらに落とす。

 目指す先は東京から川を一本渡った先にある千葉県松戸市。美代子の所属する飛行第五十三戦隊は、松戸飛行場に展開している。

 美代子は地上を眺める。平和な町並みは、戦争などどこ吹く風とばかりの光景だった。それでも間違いなく、今は戦争中なのだ。日本と、アメリカとの。


 ——もし、今度また敵を取り逃したら……。


 この町も、あの子供たちも、自分の父や母と同じように、火に包まれて灰になってしまうかもしれない。


 ——させるもんか!


 美代子は決意を固めた。濡れた股から目をそらして。

 五ヶ月前の昭和十九年六月十五日の夜半、大陸の基地から玄界(なだ)を越え、日本本土に初めて来(こう)したB29は三十余機。

 北九州へ侵入した敵機に対し、日本軍は訓練通り地上と通信連絡を密にし果敢な空中戦を展開した。


 九州の空を守る()(づき)の飛行第四戦隊と独立飛行第十九司偵中隊、それに(あし)()の飛行第五十九戦隊は二時間にわたる一大邀撃(ようげき)戦の末、撃墜七機、撃破四機の戦果を挙げ、同時にアメリカ軍がB29という新型爆撃機を初めて実戦で使用したことを知った。


 敵は、国内銑鉄(せんてつ)生産量の三割を占める八幡製鉄所を破壊し損ねたが、その代わりに美代子の家族を含めた民間人六百四十名を死傷させ、三百二十戸以上の家屋を破壊して逃げ去った。

 それは美代子が陸軍(じょ)()飛行兵学校を()え、陸軍伍長に任官し、空中勤務者(パイロット)としての資格を得てすぐのことだった。


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