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翌朝、紗愛は京を探して砂浜まで訪れていた。家から少し離れた浜辺で寝転んで、京は空を見上げている。死を選んでいないことを知って紗愛は安堵の息をついた。
「京君」
紗愛がそう呼ぶと、京はちらっと紗愛を見やり、また空を見上げる。太陽の光を浴びる京は寝不足なのか、顔色が悪いように紗愛には見えた。その京の隣に腰を下ろし、紗愛は海を見つめた。
「……紗愛は、空を飛びたいと思ったこと、ある?」
思っていたよりも優しい京の態度に紗愛は驚いて京を見つめた。京は紗愛を見もしない。たった今問いかけた事実などないかのようだ。紗愛はふっと表情を柔らかくすると、座ったまま、京と同様に空を見上げた。
青い空が広がっている。ところどころに綿飴のような雲が千切れて浮かんでいた。幸いにも太陽の姿は見上げた先にはない。もう少し頭の上の方なのだろう。
「あるよ。何処かに行っちゃいたい時とか、もやもやした時にね。小さい頃は魔法使いや妖精に憧れてただ飛びたいって思ってたけど、今じゃ逃げたい時に空を飛んで行きたいと思ってる」
紗愛はあえて京が〝どうして〟と尋ねないように自分からその理由を話した。そして苦笑する。
「そういうのって、やっぱズルいなぁとか自分で思ったりするけどね。でも、そうでもしないと参っちゃうから」
「……僕は、いつも空を飛びたいと思ってる。飛べたなら何処まで飛べるんだろうとか、サンタクロースに『羽根を下さい』って頼んだこともある」
京の言葉に紗愛が思わず笑った。子どもの無邪気なお願いにサンタクロースはどのような表情を浮かべたのだろうと想像したからだ。
「サンタさん、困っただろうね。人間サイズの翼なんて、まだないでしょ?」
京も紗愛につられたように苦笑した。うん、と頷く。
「その時サンタクロースは返事をくれた」
へえ、と紗愛は感嘆した。そしてその言葉で京に続きを促す。京は目を閉じて手紙の言葉を思い浮かべる様子を見せ、そっと口を開いた。
「『きみは生まれた時から羽根を持っているから、今は必要ない』って」
「ふうん? それでサンタさんは目に見える羽根はくれなかったんだ?」
上手いこと言ったつもりになっているサンタクロースを想像して言う紗愛に京は頷いた。目を閉じたままの京から表情が消えていく。
「でも、僕は知ってた。生まれながらに持っていたという僕の羽は飛べない程ボロボロだってね」
だから頼んだのに――。次に続くであろう言葉を呑み込み、京はうっすらと目を開けた。空は青く、海もまた、青かった。
僕は、一体誰なんだろう。今はまだ、自分の色を持たなくて他人に色を似せている海だけど、いつか空になれる日は来るのだろうか。
否、そんな筈はない。京はもう、真っ黒に染まっている。もう何色にもなることはない。可能性など、ない。
「そんなことないよ。京君は、飛べる」
真っ白な紗愛の言葉が京の耳に届いた。
「京君が昨日自殺しようとした時、あたし京君が何処かに行っちゃうんだと思った。だって、羽根があるようにきみは跳んだから」
紗愛も京の隣でごろんと仰向けに寝転んだ。足元から果てしなく続く波の音が聴こえてくる。ずっとずっと続いてきた運動と音だ。これまでも、これからも、海の音は変わらないだろうと紗愛は思う。
「このまま行かせちゃ駄目。死なせちゃ駄目。あたし多分、そう思った」
だから、と紗愛は続けた。
「きみを止めたんだと思うよ」
「でも僕は望んでなかった」
京は寝転がっていた砂浜から起き上がる。京の背中に砂がついていた。
「何処にも僕の居場所はないのに。僕の生きる価値はないのに。生きてる意味も何もないのに」
今日は膝を抱えた。
「僕はまだ生きてる」
紗愛も起き上がり、京の寂しい横顔を見つめた。京は足元を見つめ、膝に顔を埋めたためくぐもる声で先を続ける。
「いつも思うんだ。誰かが殺される度に、どうして僕じゃないんだろうって。僕は此処にいてもいなくても同じなのに、家族がある人や、愛されてる人が殺されるのは何故だろうって」
京の膝を抱く手に力が入る。細い体躯の何所にそんな力があるのかと思う程、強く。
「僕は愛されていないから誰も殺してくれないのかな。いてもいなくても変わらない、どうでもいい存在だから? 目にも留まらないから?」
京の指の関節が白くなる。それにも表情をぴくりとも変えない京は、体の痛みよりも心の方が、痛いのだろう。それに触れるには、紗愛の手は震えすぎる。繊細な硝子細工に何の準備もなしに不用意に触れたら、壊してしまう。
「誰にも見えない僕が、何処で死のうといつ死のうと誰も気にしない。僕は透明人間だから。
だったら僕が自分で自分を壊してしまえば良い。誰もそうしてくれないなら、自分でやるしかない。きっとそれが一番良いから」
紗愛も心が痛くなった。京はその瞳でどれだけの穢れを見て、その心でどれだけの痛みを感じてきたのだろう。なす術もなく、ただ傷つくだけの心と、翼に。
穢れを知り、夢を見られなくなった少年は次第に飛ばなくなり、そして翼は……朽ち果てた。
「僕は殺した。命を、消した。もうこれ以上何も感じないように。痛がらないように。僕にはもう、何もない」
そんなことない、と言おうとした紗愛を遮って京は、何もないんだ! と叫んだ。そのあまりに悲しそうな表情と引き攣れるような痛みを伴う声に、紗愛は思わず言葉を呑み込んだ。
「僕は家族や友達だった人に一杯迷惑かけて……それで、見捨てられたんだよ。後に残ったのは?」
無理に京は首を竦めておどけてみせる。その姿はとても痛々しかった。
「空っぽの、僕だけさ」
京はまた膝を抱えた。海の寄せては返す波の音が、ただただ一定になり続ける。
「僕、ずっと学校行ってないんだ」