寂しがりラジカリスト
鼻の穴にケーキが詰まった。
顔面にケーキをぶちまけたまま玄関に立ち尽くす、会社の奴隷である私。駅近郊、2LDK、お家賃そこそこのマンション――その一室である我が家に戻ってきた瞬間出迎えた、ケーキ。
キャハハ、と小鳥がさえずるような声が聞こえ、右手をワイパーに、ピッと目を拭く。
「おかえりぃ」
「……まりあ」
ピンクのパーカー、短いデニムのスカート。ニーハイなんぞ履きおって、十歳のくせに。ふわふわした、腰まである栗色の髪の隙間から、小悪魔の触角が見えた――気がした。
「……食べ物をムダにしないの」
静かにそう言うと、私は洗面所に入ってケーキを洗い落とす。鼻の穴も念入りに。
「はぁい。ね、ゴハン、なーにー?」
「……カレー」
「えー。またぁ?」
「前作ったのは一週間も前だったはずだけど」
「まだ一週間しかたってないよ」
水を止める。
コイツ……。
「子どもはカレーとかハンバーグ作っときゃ喜ぶっていうのは、発想がヒンコンだと思うよ」
まりあが、口角を上げて私に言う。
彼女が差し出したタオルを奪い取って、一瞬出そうになった修羅を抑えた。
「文句あるなら食べなくていいよ」
「えー! アタシが餓死してもいいの?!」
「勝手にしなさい」
訴えるよ? 児童相談所でもどこでも行っちゃうよ? そうキャンキャン言いながら台所に立つ私の周りをくるくるする。
「私が帰る前に連絡くれたら、夕飯、好きな物にしてあげられるのにって言ってるじゃない」
食卓に並んだカレー。
野菜は少し小さめに、玉ねぎは飴色になるまで炒めたみじん切りと、こっくり煮込んだくし切りの二種類、鶏肉はちょっと大きめにたっぷり――時間が無いながら丁寧に作ったつもりだ。
十歳の姪は、私と同じ量、あるいはそれ以上食べる。さっきリビングで開けっ放しになったお菓子の袋を見つけたので、間食もしているはずなのだが……二杯目のカレーが、細くて小さい体に吸い込まれていく。
誰よりも生意気だが、誰よりも美味しそうに私の料理を食べてくれる彼女を見て、思わず笑みが零れる。
「やだよ。自分から頼むのって」
「めんどくさいから?」
「だーかーら!!」
スプーンを置いて、口の中の物をしっかり飲み下した後、彼女は不機嫌な様子で言った。
「自分から頼んだゴハンって楽しみでもなんでもなくなるじゃん。今日何かな、アレだったらいいな、とか考えるのが良いんじゃん」
「だから食べたい物があるなら頼めばいいでしょ。むしろそうしてくれた方がいいな、献立考えるの大変だし。今日はそういう気分じゃない~って言われなくてすむし」
「分かんないかなぁ。キリちゃんも子どもの頃思わなかったの? 普通そうじゃないの?」
彼女はよく口にする。
これが普通じゃないの? 普通なんだよね?
一緒に暮らし始めて一ヶ月ほどしか経っていないし、耳に残るだけで、実際そんなに口に出していないのかもしれない。
「さぁ。私はめったに文句も言わなかったし、大人しい、いい子だったから」
まりあが、なにそれ、とこちらを睨んだ。
そういいながらも完食してくれる彼女を、少しは可愛いと思う。
責任の一端は私にあると思う。
まりあを置いて出ていく姉を止められなかったのは、大人しくていい子の私だ。
輸入雑貨を扱う店を営む私の姉とその旦那は、「仕入れ」のために海外へ行くと言って、まりあを私に預けてさっさと飛行機で飛んでいってしまった。
まりあは特に何も言わなかったようだ。
姉曰く、大人しくていい子だから、らしい。数年会わない間に成長したのかなと彼女を迎えた日から、私と暴君の戦いの日々は始まったのである。
「今日、ちょっと早退していいですか」
部長に申し訳なさそうにそういうと、あっさり許可が降りた。現在独り身で仕事以外にすることがない私には、有休も腐るほどあり、仕事の成績も上々。
クソ真面目に生きてきて、少々味気ないとも思うが、こういう時に自分に救われて、まあこんな生活でもいいかと思うのである。
「彼氏っすかー?」
いないのを分かっていてそう聞いてくる後輩の言葉に、帰る準備をしていた手が止まる。お前は男子高生か。
「うん。ちょっと、防弾チョッキ買いに行かなくちゃ」
「へ?」
「マカロンの弾丸が飛んでくるのよ」
びっくりしたヤツの顔が、ラクダみたいでちょっと笑った。
買い物を終えて、自宅に帰る。
部屋に入る前に何だかいつもと違う空気を感じていたが、それは今日という日が彼女に魔法をかけているのだろうと、地雷原に飛び込んだ。
今日は何が飛んでくるのだろう。
パンプスを脱ぐ前にいつも通り立ち止まって彼女を待つが、一向に出迎えてくれる様子はない。
「……まりあ?」
彼女の空間になっている、お菓子だらけのリビングに踏み入る。
ついたままのテレビ。ソファからは甘い香りがして、近づくと、まりあが跳ね起きた。
「キリちゃん……」
寝起きなのか、目の端に涙が浮かんでいる。
手には携帯があって、ぎゅうっと小さな手に締め付けられて苦しそうだ。
「ただいま」
「……ん。おかえり」
「待ってて、ご馳走準備するから。……今日は、宿題して待ってなくてもいいよ」
今日だけだからね。
笑った私に、まりあは驚いて、何のことか分からない、といった様子で大きな目を真っ直ぐ向けた。
普通の家庭より量が多いと思う我が食卓だが、今日はいつにも増して種類、量、共にすさまじい。
何より、中央のケーキ――誕生日おめでとう、まりあ――が、くすぐったいほど、私の部屋でない異空間にしている。
「好きなだけ食べな」
まりあの好きな、えびが入ったピラフをよそいながら言う。
まりあは食卓を眺めたまま、足をぶらぶらさせている。お気に召さなかったのだろうか?
「まりあ?」
「……に」
「え?」
「キリちゃんが、ママだったら良かったのに」
何と言ったらいいのか分からなかった。
あいにく私は子どもが好きとは言えなくて、気持ちなんて全然分からない。
女には二種類の人間がいて、その内の一つは一人じゃ生きられない人間、もう一つは一人でしか生きられない人間――と言ったのは誰だったか、私はその、後者だと思っている。ちなみに我が自由奔放な姉は前者だ。
私が黙っていると、小さな犬を思わせる鼻をすんすん鳴らして、まりあが続けた。
「今日誕生日なんだよ? アタシ、アタシの! なのに、全然、ママもパパも何もしてくれない、待ってても、電話も鳴らない!!」
アタシのこと、忘れちゃってるんだ。
不器用に生まれた私の頭の中で、ソファに寝そべるまりあの姿が浮かんだ。握り締められた携帯。つきっぱなしのテレビ。涙を浮かべた、大きな瞳。
「……そんなことない」
「嘘! 私、捨てられちゃったんでしょ! ジャマになっちゃったんでしょ!」
この子は、自分と家族についてどこまで知っているのだろうか。
まさか、あの破天荒な姉は、自分の子どもに出来ちゃった結婚なのよ、とか言ったのだろうか……十分に有り得る事態に、こめかみに手をやる。
「ほら! そうなんでしょ!」
私の行動に何を勘違いしたのか、まりあが泣き喚く。
はぁ。
私は食卓を片付け始めた。ラップを取り出して、まりあには目もくれてやらない。
あいにく私は、不器用で子どもが好きじゃないのだ。
「な、なにして……」
「イヤなら食べなくて結構。さっさと宿題して、寝なさい」
「キリちゃん――!」
無視を決め込むと、まりあは思ったより素直に引き下がった。
去り際に見せた背中は別人のように寂しげでかわいそうだったが、声はかけなかった。
お風呂から出て、部屋に戻ると、ベッドにはお人形が座っていた。
栗色のふわふわした髪、足をぶらぶらさせ、いつもよりずっと大人しい彼女は、ピンクのネグリジェに身を包み、私を見つめた。
照明を落とし、部屋がオレンジの光でぽわんと膨張したみたいになった。
「絵本でも読んで欲しくなった?」
「……ごめんなさい」
耳に届いたのは意外な言葉だった。
彼女の口から初めて、と言っていいほど珍しい言葉を聞いて、反応に困る。
「せっかく、キリちゃんが準備してくれたのに、私、わがまま言って、ごめんなさい。明日、ちゃんと食べるから、ごめん……ありがとう」
「……一緒に寝ようか」
そう言うと、私の隣に寝そべった。
小さな体から発せられる体温は少し高かった。
「言いたいことあったら、ママに言いなよ」
「……え?」
「あんたのこと、大人しくていい子だって。こんなに生意気なのにねぇ」
「……」
まりあは目を伏せた。
長い睫毛が少し震えた。
「言った方が得だよ。私も、言えなかったから」
そんで、こんなんなっちゃった。
舌を出して笑うと、まりあが複雑な表情で私を見た。小学生に同情されていると考えると二十代後半も差し掛かった、良い大人のプライドはずたぼろだ。
それでも、良い。
彼女には、私のようになって欲しくない。
ほんとは、私だって、一人で生きられるほど強くない。
「おやすみ」
彼女の言葉を遮るようにそう言い、頭を撫でた。
まりあは素直に目を閉じ、しばらくすると寝息が聞こえて、私も目を閉じた。
「キリちゃんキリちゃん!」
アレ、アラーム、こんな音にしてたっけ。
寝ぼけながら携帯に手を伸ばすが、震えていない。バイブの設定もしてなかったっけ?
しばらくぼーっとしていると、腕を強く引っ張られた。
「キリちゃん! 来て!」
星を散りばめたみたいに輝いた瞳で、まりあが興奮した様子で私の体を揺する。
小走りで駆けていく彼女の後を追う。漏れるあくびは噛み殺さず、限界まで口を開く。あー、気持ちいー。
「ほら! 見て見て!」
玄関には、大きな客人がいた。
冷たいフロアに腰掛ける毛むくじゃらのそれ――大きなくまのぬいぐるみは、こちらにつぶらな瞳を向けてくる。
「ママとパパから! 手紙も!」
まりあは手紙を私に押し付けるようにしてくまの元へ走ると、自分と同じくらいの大きさのそれを抱えて根城に向かった。
「時差考えなよ、まじで」
私にさえ言わなかったということは、私も驚かせたかったのだろう。
その手紙は丁寧な文字が並んでいて、それを読んでいると、あのぶっ飛んだ姉の、びっくりした? と言う笑顔が浮かんできた。
「まりあ、電話しときなよ」
「もうしてますぅ~」
すっかりいつもの調子を取り戻した暴君は、しーっと言いたげに指を唇に当てた。耳に携帯を当てて、相手を待っているようだ。
「そりゃどうもー」
まりあの笑い声を聞きながら、手紙に目を落とす。
よくよく文章に目を落とすと、そこに書かれた事柄が信じられなくて、私は固まる。自由な姉を持った宿命には抗えないらしい。
――暴君との生活は、もうしばらく続きそうである。
End
※お題:寂しがりラジカリスト
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