入口
その夜、あの人は現れなかったけど、代わりに地響きのような呻き声があたしを起こした。
透が布団から上半身を起こしている。
「どおしたの?」
見上げ、触れる透の半裸は汗で湿っていた。
明かりはカーテンを透かす街灯だけの蒼く滲んだ部屋。隣は静かだ。帰る前には降ってなかったのに……。聞こえるのは、透の上擦る息と、これは雨樋が破れてるんだね、部屋の外で、ぽたぽたとしきりに落ちる雫の音。
「何でもない」
振り向く透の顔に、カーテンを透した雨の模様が映り、泣いているようだった。
重たい腰を布団から上げた俺は畳に転がったタオルを拾い上げて首に掛けた。布団に残された明日香は片肘で斜めになった体を支えながら台所へ向かう俺を見ていた。
大丈夫だから、という意味を込めた、気休めの笑顔を明日香に送る。流しの蛇口から勢いよく出した水をグラスホルダーから取ったグラスに溢れさせ、渇いた喉にゴクゴクと流し込んだ。何時なのか分からない。帰って来たときには、もう、あかねさんの店も閉まってた。明け方に近い時間かもしれない。
濡れた唇を手の甲で拭った。帰り道では降ってなかったのに……。顔を向ける台所の出窓から、アパートの鉄製の階段に弾く雨音が聞こえて来る。
薄暗い中に浮かぶ透の広い背中にも、雨が伝っていた。もしかして、透も……あたしと一緒かも。見つめる背中に、あたしは自分自身を投影させていた。
「透…」
小さく掛けた声に、透は振り返った。
「変な……夢見て……」
台所から部屋に戻ると、明日香はM字に開いた両脚の間に両手をついて布団の上に座り、仔犬のようにキョトンと俺を見上げていた。少しばかりの光を揺らし、心配そうに大きく開かれた明日香の瞳は暗くてもよく見える。
腰を下ろして、「大丈夫だから」と言い、明日香の頬を撫でると、静かに笑った明日香は膝立ちをして俺の頭を包んだ。薄いレモン色のキャミソール。細い体を覆うシルクの生地に背中から滑り落とした両手が腰の窪みに回った。柔らかく芳しい明日香の胸に顔を埋める。俺を抱いたまま、明日香の体がゆっくりと布団へ横たえた。その暖かみが、一段と激しくなった雨音とは逆に、鼓動を緩やかにしてくれる。
こんなとき、何て言葉を掛けていいか分からない。もし、あたしと一緒だったら、透は苦しみが通り過ぎるまで、少しの間でも安らかにほしいと思うはずだから。突然、何の前触れもなしに訪れる苦渋は、誰にも理解されたくない。誰かに話して、可哀想な人、と慰めを受けるのが嫌。本当は弱いくせに、弱い人とは思われたくない。そんなに強がっていてどうなるの? 時々、自分に質問すけど、答えはいつも、弱い人間は強がらないと生きていけない、だった。
青白くなった顔と僅かに震える肩。グラスにすがり付くように冷酒を呷る。この人……。カウンターの隅から眺めていた。
この露路、あの店で初めて会ったときから、知らず知らずにあたしは透に自分を映していた。だから、一時しのぎじゃない、一生分かち合えると感じた。今もそう。透も、きっとあたしと一緒なんだ。
「寝られる?」
まずは……自然な言葉でいいよね。
「無理かな」
胸から、透の篭った声が漏れた。
「朝まで付き合ったげるよ」
「おまえ、明日は朝からだろ?」
仕事のこと、まだ話してなかった。
「うん……。実はさあ、仕事……辞めようと思って」
透が私の胸から顔を上げた。
「マジ?」
「う、うん。ほ、ほら……やっぱりさあ、結婚して風俗はまずよ。生活厳しいんなら、ここの近所でなんかパート探す。こう見えても、結構、蓄えもあるんだよね」
蓄え、と言い、改めてほっとした。
まだ十八のとき、当時のヒモみたいな、パチプロ男に全部持ち逃げされた後じゃ、蓄え、なんてこと言えなかった。よくよく考えたら、それからだったよ。それまではキャバクラやラウンジだったけど、ヤケになって風俗でお金稼ぐようになったのは。一度頭を打って以来、あたしはある程度羽振りのいい男としか付き合わなかった。男がいつ消えていってもいいように、お金は命綱とコツコツと蓄えを増やした。それが、今になって幸いしている。
「パートも、その蓄えも必要ない。明日香一人ぐらい、俺が食わせる」
明日香の胸から顔を上げ、今度は逆に、腕枕を明日香に敷いて抱き寄せた。
「あの子に助けてもらいなよ……」
雨音の中から、あかねさんの言葉が聞こえたような。
何故、あかねさんはそんなことを俺に言ったのか分からない。何故、俺にとって明日香が苦しみを分かち合える存在だと、彼女は見越したのか分からない。それでも、最終的に「一緒に苦しんでほしい」と決めたのは、この俺。
俺は病気だと思う。いや、思うというか、きっとそうだ。でなければ、『このままでは殺される。ならいっそのこと、自分で死んでやろうか』と単純で野蛮な発想を持つわけがない。自分で死ぬ。その発想は……確かに、ここ二、三日、明日香と結婚してからは無くなった。じゃあ、次は殺されないようにしないと。そう思って、大事な女のために生きようとしても、あの女は唇を拗ねたように尖らせ、眉間に皺を寄せたあの女は俺を殺そうとする。
夫婦かあ…。苦しみは消えないだろうけど、知っておいてもらっても、いいのかもしれない。でも、一度には無理だな。少しづつでも、分かってもらえればそれでいいし、重荷に感じて引かれたら、それはそれでいい。
俺自身も、嫁である明日香のことについては、過去にはそれ相当の男遍歴があるだろう、とマジどうでもいい想像は抜きにして、風俗で働いているということ以外知らない。一夜だけのじゃれ合いや一時だけの寂しさと性欲を牧らわす同棲なら、お互いの素性を知らないほうが後腐れなしでいいっていうのもあるが、これは永続を誓った結婚。本来、結婚する前にお互いにもっと知り合うべきなんだろうけど、あんな、にわかなやり方じゃあ、そんな時間もなかった。今からでいい。少しづつでいい。お互いを知るのは。
「明日香って……ずっと東京か?」
ここからだろう。俺は明日香の髪を撫でながら言った。
「うん。途中、ちょっとだけ仕事で横浜に住んでたけどね。生まれも、育ちも、ずっと東京」
髪を撫でる手が「俺は……」と止まる。
「京都でしょ?」
「知ってんのか?」
俺の腕の中で、見上げる明日香と目が会った。
「今更、何言ってんの。婚姻届と一緒に透の戸籍抄本貰ったじゃん」
そうだった。当然、そこに俺の実家の住所が書かれてたよな。笑って天井を見上げた。
「あたしって、京女? 似合わないよねえ」
「え?」
明日香を見下ろした。
「『え?』 ってほら……だって、入籍したんだよ。あたしの本籍地は透と一緒になるから、そうなるじゃん」
「そういう……ことか」
色々と結婚への予備知識も抜けていた。指に絡んだ明日香の髪をいじりながら、苦笑いが天井へ向くと、明日香は俺の胸を撫で始めた。
予備知識? 髪をいじる手が止まり、あっ、という形に口が開いた。予備知識の欠落ぐらいなら、まだ笑って済ませられるが、社長や小池さんへのしがらみへの責任へ奔走しまくっていた俺は、一番大事な結婚の常識ってやつを忘れてた。常識の欠落は……笑って済まされるもんじゃない。営業マンのモードに思考回路が変換された。
「明日香……。おまえ、お父さんとお母さんは?」
ごく普通というか、ごく一般常識というか、結婚する前には、嫁になる人の両親に挨拶行くよな。抜けてた。社長や小池さんへなんかより、更に恐ろしい事後報告がある。空いた手が溜息と一緒に髪を掻き上げた。
明日香が俺の首筋にくすぐったい笑い声を吹き掛けた。
「両方とももう居ない。死んじゃった。兄弟もいないし、あたし一人だから……そんなの気にする必要ないよ」
お父さんとお母さんは? としかまだ聞いてないのに。明日香の言った『そんな』の意味を、俺が果たさなければいけない、その『道理』と解釈して……いいんだろうか? いいんだよな? 目玉が左右に動いた。両親二人とも亡くなって、兄弟も居ないなら道理も義理もない。うん、と軽く頷き、一息ついて、なら大丈夫だ、と安堵した。
「そうか、亡くなってるねか、ごめん、変なこと聞いたな」
耳たぶに、明日香の細い笑いが吹きかかった。
「透のお父さんとお母さんは?」
明日香が俺の指で顎を撫でながら聞いて来た。
普通、嫁になる人も旦那の両親に挨拶……するよな? そうだよな? また目玉が左右した。
明日香の両親のことを聞いたら、当然、次は俺の両親のことを聞かれる。なら、聞かなきゃよかった。でも、聞かなきゃならなかった。だから、仕方ないか、と眉を掻いた。
親かあ……。少しづつでも、と決めたはずなのに、いざとなったら口ごもる。面倒臭いから、両親は死んだことにしようか、と一瞬頭を過ったが、今一度、息をつき、それじゃあ何のための決意だ、と胸の中で自分を鼓舞した。しかし、ん? 雨音が緩くなっている。
「あっ、ごめん。透も……一人? 変なこと聞いちゃったね」
雨樋から漏れる雫。ぽた……ぽた……ぽた、とさっきより間隔が開いている。ああ、そうだ、と明日香に返事すれば、それでこの件は終わる。
「俺と一緒に苦しんでほしい」
その雫と雫の間隔から、俺が明日香に言った言葉が聞こえた。いい具合に暗い。天井を見たままなら話せるか。少しづつ? 何のための夫婦だよ。
「親……なんだけど……」
苦しくなれば、途中でやめてもいいよな。俺は唾を飲んだ。
「長くなるけど、聞きたいか?」
ここに何かあるのかな? 闇に奪われそうな透の横顔を、あたしは絶対に逃さないように見つめた。
「うん」
旦那の胸の上で、手を取り合った。
運動神経、あんまりよくなかったから苦労させた。補助車輪を取って、初めて乗る自転車。親父は公園で、覚束なくハンドルを震わす俺の自転車を何度も「行くぞ!」と勢いよく押してくれた。出だしはよかったけど、すぐにこけた。それでも泣かない俺のために、親父は何度も何度も俺が乗る自転車を押してくれた。
美容師だった親父は日曜日が休みじゃなかったけど、俺とよく遊んでくれた。婿養子だったから、じいちゃんが死んだ後は、美容院のオーナーになったばあちゃんに気を遣っていたのが、子供心にもよく分かった。
「透、行くぞ!」
それでも、俺にはいつも優しい笑顔。暇を見つけては、俺を連れ出してくれた。
俺が好きな場所は空港。仕事後で疲れているにも関わらず、親父はよく車を飛ばして俺を空港まで連れていってくれた。大きな爆音を立てて、飛び立つ飛行機を空港のデッキから眺めるのが、まだ五歳だった俺の楽しみ。
ちゃんと覚えてる。俺の大好きな飛行機に乗せてくれて、親父の生まれ故郷に連れて行ってくれたこと。
「お父さんは海の子や!」
親父の故郷は四国。
瀬戸内海に流れる入り江沿いにあった親父の実家は垣根に囲まれた広い平屋。それまで嗅いだことがない、濃い泥の匂いが漂ってた。家業は瓦の製造で、敷地内に工場があった。その匂いの正体は瓦作りで使う粘土。そこの工員さんから貰った粘土で、親父と一緒に泥まみれになって、飛行機だか船だから分からないようなものを作ったような。親父は長男なのに、何で家業を継がずに美容師になったのか? まだ小さい俺には、そんなこと聞けなかった。瓦を作ってるだけのことはあったなあ。青空の下で黒光りしていた瓦葺きの屋根が綺麗だった。家から入り江の方に振り向けば、対岸には大きな工場があった。何の工場だか知らないけど、高い煙突から噴き上がる橙色の火柱が、飛行機のジェット噴射みたいで格好よかった。
「透、行くぞ!」
家から海までは歩いて十分もかからなかった。夏じゃなかったから海には誰も居ない。それでも親父と俺は浜で服を脱ぎ捨てて、パンツ一枚で飛沫を上げながら寒い海で遊んだ。最高に楽しかったよ。本当に、この人は海の子だって思った。
お袋は親父と同じ美容師だったけど、二人の仲は……悪かった。俺は小学校に上がるまで、お袋と暮らした記憶が殆どない。親父とと暮らす家には、お袋は居なかった。親父は俺と、お袋は俺の三歳下の妹と、それぞれ別に暮らしてた。
お袋は、ばあちゃんの実の娘だから、ばあちゃんには愛されてたようだけど、親父には、ばあちゃんはいつも他人行儀。ばあちゅんに、何でお父さんとお母さんは仲が悪いの? その頃、そんなこと聞くにはまだ幼なすぎた、というか、聞きづらかったのかな。
『このままでもいいや、大好きなお父さんと一緒に居られるなら』
本当にそう思ってたから、俺には親父とお袋が仲が悪くても関係なかった。でも、大人っていうのは、子供の意思を度外視して話を進める生き物だ。俺には関係なくても、親父、お袋、そして、ばあちゅんには重大な問題だったらしい。 突然だった。マジ悲しかったなあ。俺が小学校に上がるほんの少し前、ランドセル背負って店の中をはしゃぎ回ってた俺を笑って見ていてくれたのに……。親父が居なくなった。親父が居なくなった間、俺はばあちゃんの家で暮らした。
ある日、ばあちゃんとお袋に連れられて、親父と俺が暮らしていた家に行った。本当に、地獄に突き落とされるほど悲しかったよ。そこには、家具も、気配も無く、ごく僅かな親父の匂いだけしか残ってなかった。がらんと殺風景になった家の隅々まで、かくれんぼでもしてるのかなって、親父を探した。
『ここにも居ない。どこに行ったんだよ?』
泣きべそかいて開けた押し入れの中に、一個だけ転がってた。父の日、俺が親父にあげた粘土細工。お父さんの顔だって、幼稚園で作った奇妙な粘土細工だったけど、親父は顔を綻ばせて喜んでくれた。あの親父の笑顔。焼き付いて離れない。俺は……完全においてけぼりにされた。
「明日から、うちら三人、ここで住むで」
無表情で冷たく言ったお袋。
俺、お袋、妹、三人なんて嘘だったよ。
あの男が来て、俺の地獄は始まった。あれが……くすんで湿気った露路への入口だった。